ろくでもない戦争と栄養学
前回の記事と関係する。敗戦記念日を前後して戦争をふりかえるイベント企画が盛んになると、そこに必ず登場するのが戦中戦後の、あの苦しく難渋した食生活である。そして、それがナゼか、苦しかったが懐かしい知恵に満ちた、昔はよかったなア昭和のおふくろの味ふるさとの味ということになり、あの苦しみを風化させず、日本人の知恵昭和のおふくろの味を伝承しましょうよ、というような、富士山そびえ日の丸なびく美しい日本かしこい日本人の「日本讃歌」で終わる。
もともと「敗戦」を「終戦」と言い換え敗戦の事実と向き合ってこなかったのだから、あの苦しく難渋した食生活を「敗戦問題」として追求することもない。「お国が大変だったのだから」と。いまじゃ、あの戦争のすべてのモンダイは、戦勝国の責任である、ということになりつつある。ほんとうに、そうなのか。指導者の責任は、なかったのか。すでに食糧が逼迫している状態で、日米開戦へむかった、指導者の責任はなかったのか。
という大きな話しはともかく、ろくでもない戦争と、ろくでもない栄養学や栄養学者の関係についての考察はある。『imago イマーゴ』1993年9月号特集「食の心理学」に、日達やよいさんが「漂流する栄養学」を書いている。「食糧難の背景」という項があり、昭和初期(1926~37年頃まで)と米穀配給制・外食券制が始まる1941年4月から敗戦まで、主に配給制度と栄養学や栄養学者の関係について検討している。ようするに、「食糧難の背景」には、指導的立場にいた栄養学者の責任がありはしないかということだ。
そこでは、「栄養学者の一人で、慶応義塾大学医学部食養研究所所長であり一九四七年に創設された日本栄養・食糧学会初代会長でもあった大森憲太」が、戦後すぐ出版された著作のなかで述べていることを引用している。それは、ま、簡単に要約してしまえば、自分たちには責任はない、「國民の科学性が浅い、また文化が低いところにある」ことが、敗戦の直接の原因であった「戦力の不足、資源の窮乏」をもたらした「根底に横たわる重要なる原因」であると。
で、日達さんは、書く。「非科学的で無知だったのは一体、誰であったのか。必要量の六割程度しか配給されなかった事実を熟知し、しかもその状況を放置したまま敗戦を迎えた栄養学者の姿勢こそ、非科学的だった。配給に関して意見をいう立場にいた研究者が、どのようなことを考えていたのかさえ、ここでは不問になっている」
そしてモンダイは、それ以後、つまり無責任のままであるがゆえに「漂流する栄養学」のイマにあるのだ。食に関して「非科学的で無知だった」状況が続くなかで、食を栄養や味覚にだけ矮小化し、チカゴロでは食育だのスローフードだのと、昭和ナ大衆食堂の食生活にもどれば心身ともに「健康日本」であるかのような、ばかげた話まで流布している。食からみれば、日本は戦前も戦後も終わってない。靖国が意気軒昂なのは、トウゼンである。コンニチ、本を書くぐらいの人たちだって、食からみれば、戦前なみに「非科学的で無知」なのである。
エンテツが書いたものを読み、「非科学的で無知」な状況から脱却することこそ、コンニチの食文化における敗戦記念日的国民的課題なのでアル。一家に一冊、エンテツの本。
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コメント
ありがとうございます
投稿: エンテツ | 2009/06/24 16:25
つまんない
投稿: 亜玉川 類洋 | 2009/06/24 14:15