「いかがわしさ」の高度な諸問題
『大衆食堂の研究』では、食堂の「いかがわし度」を評価している。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_7_aiueo.htm
いや、「評価している」とかと書くほどのものではない、それ自体ヒジョーにいかがわしいものだ。しかし、がははははは、堂々と、このように書いている。
ここで食堂の見方考え方の基準となる「いかがわし度」を整理しておこう。 ▲いかがわし度3▼ほんとうは、看板も暖簾もでていない食堂がある。そんなものはここにのせることができない。だから、看板や暖簾しかでてない店で、なおかつ昭和三〇年代のたたずまいがしっかりしているものである。 ▲いかがわし度2▼暖簾や看板しかでてない食堂。手製な小さなメニュー書きがはってあることもある。どんなものをくわせられるのか、はじめてだと不安がよぎる店。 ▲いかがわし度1▼暖簾や看板のほかにメニューサンプルがならぶショーウインドーがあったり、外から中が見通せたりする。
これを見て気分を悪くした食堂もあるらしい。そうかもね、「あんたはいかがわしい」と言われて、ふつうは喜ばない。しかし、『大衆食堂の研究』は、大衆食堂の人たちに喜んでいただくために書いたのではない。いかがわしいものは、いかがわしいし、そのいかがわしさをヨシとしようじゃないか、ということだった。
そもそも、10数年前の大衆食堂は、フツウの人から見ると、とてもいかがわしく見える存在になっていた。それは、とりわけバブルを通して、フツウの人たちは、とても高度に小市民化したからということが関係するだろう。「小市民」とは、「NHK的」「銀行員的」「小役人的」な根性の市民と考えてもらって差し支えないのだが。その小市民のみなさまにおいては、いかがわしいものは排除してもかまわない、排除されるべきだ、という考えが正統だったし、これはいまも基本的には変わっていないと思う。
先日、たまたま年寄りの家で、NHK系の番組で名前はわからないが、吉田類さんが出演する大衆酒場案内のようなものを途中からちょっとだけ見る機会があった。初めて見たのだが、こういう日本の番組は、どうも案内人がでしゃばりすぎるという感じがするし、それはなぜかというと、その大衆酒場が本来もっているハズの「いかがわしさ」を隠蔽するか否定し、小市民的な感覚で包んで楽しもうという制作者側の意図があるからではないかと思った。であるから、小市民的演出の案内人がでしゃばりすぎる制作になるのではないか。
とにかく「いかがわしさ」である。これについては、『大衆食堂の研究』の本文に「開き直り」とも関係させて書いている。ここに、広辞苑第4版の解説を引用すると、こういうことだ。
①正体がはっきりしない。疑わしい。怪しい。信用ができない。②風紀上よろしくない。好ましくない。
そういうわけで、大衆食堂や大衆酒場から小市民たちの足は遠のいていた。そしてのち、いまや東京に残された唯一未開の地となり、小市民的案内人の手引きで出かけて、大騒ぎするところとなった。が、しかし、それは「いかがわしさ」を評価してのことではなく隠蔽し否定してのことであるから、著名な案内人たちが案内しない、いかがわしい飲み屋街の一角は、そのいかがわしさゆえに、周囲の小市民的住民に嫌われ、排除されそうなところがあるのだ。
今日は、そのことではない。トツゼン10年前の話になるが、ちょうど『大衆食堂の研究』が発売された、95年7月の「テレビブロス」のコラムに、天野祐吉さんが教育テレビの人間大学で「私説広告五千年史」をやることを紹介している。
そこに天野さんの、「私説=いかがわしい」というイミだとの説明があるのだ。これは、オモシロイ。オモシロイと思ったから、切り抜いてとってあったのだな。
天野さんは「「マユにツバをしてつきあってください」とまで言い放ってるんですから、かなり型破りなんじゃないかな」と。
そうなのだ、小市民的常識からすれば、「私」的で「かなり型破り」であること、これがつまり「いがわしい」ということでもある。そして、そこにドロドロした可能性の熱源があった。
そういうものであったのだが……。ブッ、屁一発。
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