70年代新宿「五十鈴」ほか、ふがふが
椎名誠さんの『かつをぶしの時代なのだ』(集英社文庫)を読んでいたら、「国電中央線における異常接近アベックを阻止する会設立準備会のおしらせ」に新宿の「五十鈴」が出てきた。こんなアンバイ。以下引用……
新宿東口の「五十鈴(いすず)」というおでん屋さんに行ったのである。ここは、わりと昔からよくいく店で、店内はウナギの待合室みたいにやたらタテに細長くなっており、客は調理場をはさんでズウッと向かいあって座るようになっているのだ。
頭に手ぬぐいを姉さんかぶりに被(かぶ)って、まっ白なカッポーギを着た小学校の給食係みたいなおばさんが五、六人、なぜかいつもすこし悲しそうな顔をしてオデンを煮ているのである。
……引用おわり
なつかし~い。椎名さんも、よく行っていたようだが、おれもここは1970年代によく行った。ワレワレのあいだでは、店の名前をよばず、「うなぎの寝床」で通用していた。ばあさんたちは、2,3人名前を覚えたひとがいるが、基本的には、まとめて「戦争未亡人」とよんでいた。もしかすると、ホントウに戦争未亡人ではないかと思われるフシもあった。
オデンとタタミイワシ、タマゴ焼は塩か砂糖で注文、あとオニギリ。そんなていどで気持よく飲める、とくにどうってことない飲み屋だが、いつも混んでいた。だいたい、あのころは、みんなとくにどうってことない街の飲み屋にフラッと入って飲んでいたのだ。たまたま入って気に入ったらまた行くという。あるいは飲み屋で聞き込んだ店へ行ってみるとか。いまどきのように、たかだが安酒場で飲むのに、ガイドブックみたり、テレビみたり、あげくのはて自己陶酔じゃないかと思われるヘドが出そうな「ブンガク的」なウンチクを聞かされたり、なーんていうワズラワシイこうるさい手続は一切なかった。そういう意味では、いい時代だった。
ま、みんな街で、好きなように生きていた、といえるか。けっきょく、たかだか街の安酒場に入るのにガイドが必要になったというのは、業界や会社といった「企業社会」の法則に生きるのが精一杯で、街で自由に生きる感覚を失った人たちが増えたのだろう。人びとにとって、街の安酒場は、異文化圏になったのか。街は自由だからこそいい、街では自由にやりたい。
「五十鈴(いすず)」は、正確には、新宿東口というより、中央口のイチバン南口寄りの出口を出て、そのまま南口へ向かう通りの左側、2、3軒目のビルの一階だった。たしか中途半端な、午前0時か2時ぐらいまでのあいだの閉店で、ここで飲んでいるといつも終電をはずしてしまうという難点というか利点というか、そういうことだったような記憶がある。
古いころの話しはしらないが、70年代のおれが行っていたころは、恰幅のよい女性経営者が、ときどき店にあらわれた。もしかしたら、この人は戦争未亡人ではないかと、とにかく五十鈴にいると、中年すぎの女性は、みな戦争未亡人におもえた。が、この女性経営者は、イチオウ、新宿の「文化人」仲間というウワサであった。そういえば、紀伊国屋書店の亡くなった社長、田辺茂さん?名前忘れたが、その社長とお知り合いという関係性において、新宿では飲み屋の経営者も「文化人」になり、そういう評判で流行る店もある、といった法則があったようなかんじがする。
いまでも息子さんが継いで営業している歌舞伎町のバー「フロイデ」の女性経営者も、先年亡くなったが、新宿の「文化人」というウワサであった。そういえば、このママと五十鈴の女性経営者、体格というか雰囲気が似ていたな。やはり戦争未亡人系か? どことなく苦労人というかんじが漂うのだ。フロイデのママは、彼女が亡くなった年の、新年早々に行って、飲んで店の外へ出た、そのあとをママが追いかけてきて、年賀のタオルを渡し忘れたからともらったのが最後になった。
ま、とにかく、その五十鈴がある通りの先、いまではJR新宿駅南口に上がる広場でつぶされてしまったあたりに、「日本晴」というバカ安の、だけど水のような、そしてスゴイ頭痛の残る「日本晴」という酒を飲ませる飲み屋があった。たしか新宿の喫茶店に勤めていた男とブラッと入ったのが最初で、あまりの安さにうれしくて一時入り浸った。ツマミは煮込みが格段に安くて、それ以外とった記憶がない。一合瓶に入った日本晴を、そのままもらって常温で飲むか、燗をしてもらう。少ないカネで、スゴイ飲んだという気がした。つまり頭痛が残るということが、飲んだ気がする清酒の「価値」だったのだな。ほんの数十メートルはなれた五十鈴と、まったく客層がちがい、そもそも、場外馬券売場や旭町のドヤ街には、こちらが近いわけで、新宿低層労働者的フンイキの濃度が増すのだった。
そこから、甲州街道を新宿御苑のほうへ向かうと、すぐ角にいまでも大衆食堂の長野屋、その先に最近まであったナントカという名前の焼酎を一升瓶でキープできた大衆酒場、そしてまだ木造二階家だった「石の家」があって、明治通りとの交差点の右に旭町ドヤ街が見えた。高島屋新宿南口店の前のあたりということになるのだが、いまと違って夜は暗闇にわびしく灯りがともり、入口周辺からドヤドヤとしたかんじだった。
そちらへ渡らないで左側の路地に入ると、そこはもう、いまの思い出横丁のイチバン小さい一間間口ぐらいの店が、上下に重なり横にならぶかんじの、かなりデンジャラスな、歌舞伎町よりコワイ一帯だった。それはコンニチでは想像をするのが難しいのだが、ようするに排気ガスまみれのような薄汚いバラック状の、木造の二階建てが密集し、街灯は少なく、店からもれるあかりを拾いながら歩くかんじなのだ。
その一角、新宿中央通りから来ると、明治通りに出る手前右側になるが、「伝六」があった。そうだ、屋台の店を横にすきまなく並べ、さらにその上に屋台を重ねた、そういうかんじを想像してもらえばよいだろう。その一軒の2階に伝六はあった。一階の店の入口を入って、すぐ階段をのぼる、階段の板あいだから下の店が見える、そして伝六は5、6人も座ればいっぱいのオデン屋だった。床板のすきまから下の店が見えた。ここは、戦争未亡人というには若い女将が、もう眠いから帰ってよというまで飲んでいられた。ときどき夜更けに近所から、楽しそうな女と男のアエギが聞こえてくるというウワサがあったが、おれは聞いたことがない。
そのころは、そういう安酒場だけではなく、オールド一本キープすると2万円なんていう、歌舞伎町にあった、新宿では最高級な部類に属するクラブでも、よく飲んだ。ああ、ママのユミさんには、たいへんお世話になりました。そこでは、いつも会社のツケで飲み、会社に請求書が届くと破り捨てるってことをやって、それでもユミさんは飲ませてくれたのです。
ユミさんは、おれより一歳上だったと思うが、プロのモデルをやっていた美人で、おれも一度広告のモデルをやってもらったことがあるけど、新宿要町いまの新宿三丁目の池林房の近くにあった酒屋の娘だった。そして、そのクラブをやめ、自分の酒屋の入口へんを改造して、鳥料理の店を始めたのだった。板前が競馬が好きで、競馬の話以外じゃ口を聞きたくないといった、ちっとも美男じゃないのだが、ユミさんはその男に惚れていたようだった。おれは、その板前も、その鳥料理も好きで、よく通い、朝まで2畳ばかりの客室ですごすことがたびたびだった。勘定は、現金でちゃんと払った。バブルのころ、その店は酒屋ごと解体され空き地になった。ユミさんの行方はわからなくなり、しかもその空き地は、いつまでたっても空き地のままだった。そのあたりの事情に詳しいものに聞いたら、イロイロめんどうな出入があったようだ。
書いているとキリがないからやめる。伝六の一角は、いつのまにかビル街に姿を変え、そして五十鈴もなくなり、日本晴もなくなった。
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