秋のクイケは、なにを生む
秋になると、「読書の秋」「食欲の秋」という惰性的文句がハンランする。あと「スポーツの秋」とかね。
読書とスポーツの関係は必ずしも濃い関係とはいえない。サークル活動では、文化系と体育系は、しばしば本を読むオリコウサンと本を読まないオバカサンというかんじに対抗イメージで語られることもある。そもそも、スポーツしながら読書はできないし、その逆も不可能だ。いっぽう食欲は、読書やスポーツと深い関係にある。
スポーツすれば文句なく腹が減る。しかし、食の心理学では、食欲と空腹感の関係は、必ずしもハッキリしていないらしい。たとえば胃袋がカラになったら空腹をかんじ食欲がわく、ということならば、ヒジョーにわかりやすくたすかるが、そうではないらしい。胃や腸がカラでも、食べたくならずに食べずに死んでしまう「拒食症」?とかいうものがあったりね。でも、おれの場合は、「腹が減った」というぐあいに食欲をかんじる。そのばあい、その腹は胃なのか腸なのか、といわれてもわからない。とにかく、スポーツしたら腹へって、大いに飲み食いするというのは健康だろう。
マーケティングの体験だけでしか知らないが、食欲はクイケという欲望レベルの言葉ということになっている。人間のばあい、クイケがそのまま食摂取行動になるのではなく、なんらかの精神的作用を通してアレコレの欲求に転化し、アレコレの生産や流通や消費があったりして、まあやっと食べることができる。ふつう「食文化」というばあい、その欲求が生まれる文化や欲求そのもの、そして生産や流通や消費、それにからむ料理などアレコレいっさいがふくまれる。そうして人間は、やっとめしを食えるのだ。クイケが、精神的に、食べる欲求へとつながらないこともあるし、でも、愛するひとが死んでも、めしだけはくうってこともある。やれやれ。
学者たちは、このようにいうようだ。「欲望が文化によって抑圧されてサブリメーション(昇華)を起こし、それぞれが高尚な欲求に転化する」「たとえばクイケは知識欲になる」「つまり、外部にあるものを自分の中に取り込もうとする欲望が、肉体的には食欲であり精神的には知識欲になるということである」 学者は高尚だなあ。
誰でも知っていることかもしれないが、ちょいと原初的な例では。峠の知識は、どう発見されたかというと。むかしむかしのそのむかし。野生のカモをとって食べていたころ、猟師はカモを追いかける、それを食べるときのことを想像しヨダレたらしながら追いかける。そうしているうちに、カモは肉体的に高くとべないから、稜線の一番低いところをとんで山をこえることを知る。そして人間さまもそこを越えると、山向こうへ行くのが楽だと知る。そのように、食べることが知ることになり、そういう体験を重ねるうち、食べるために知ろうとする欲求が大きく育った。それがワレワレの知識欲、コンニチの学問や読書に成長した。あるいは「峠のロマン」といった文化を生んだ。大雑把には、そういうことらしい。もとはといえば、知識は、本を読む読まないに関係ない、食欲なのだ。
神武天皇の大和征服のときに案内にたった、ナントカという男。かれは猟師でカモを追いかけていたから、大和周辺の峠を熟知していた。それが、京都の下鴨神社だか上鴨神社だかの縁起になる。という伝説があったりで、下鴨神社の台所だったかな? もともとイイカゲンな知識のおれで、このへんの話になるとさらにアヤシイのだが、とにかく下鴨神社の台所は日本料理史にナンダか関係するのだ。
ま、それで、だから欲望と欲求のあいだに、どんな文化つまり精神的なはたらきがあるかってのが、マーケティングの課題になるのだが。とにかくね、秋のクイケは、湯豆腐に清酒でしょう、やっぱり。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント