海野弘「三丁目漂流記」
11月3日「「究極のふつう町」としての千住」に紹介した『三丁目の角』に、海野弘さんがチョイと長めの巻頭エッセイというかんじで、「三丁目漂流記」を書いている。なかなか刺激的な内容だ。
そもそも海野弘さんといえば、デビュー作の『アール・ヌーボーの世界』からして刺激的だった。いまおれの手元にあるのは、1987年初版88年4版の中公文庫版。何度読んでも、イロイロ新しい発見や手がかりがある、リソースフルな一冊だ。なにせ海野さんの文章は、芸術を語るものたち独特の、うすっぺら知識大股広げ観念的陶酔的大口上大上段大台詞がなく、おれのようなバカにもわかりやすいのがいい。これで、ハハア、いま生きている現代ってのはそういうものなのかと、目からウロコがポロリポロリですよ。
なんという偶然。先日6日病院へむかう駅売店で東京新聞を買ったら、読書欄の「私のデビュー時代」に海野さんが登場していた。もちろん書は『アール・ヌーボーの世界』だ。その最初の単行本は、海野さんが20代の1968年だったのだなあ。文庫入りするまで20年ちかくすぎている。で、海野さんは最後に「私はこの本にもどり、埋もれたもの、失われたものの復活という出発点から現代をたどりたい」と言っている。いいなあ。
ああ、それで、『三丁目の角』に海野さんの「三丁目漂流記」がなかったら、しょもない昭和ガラクタ懐古本だったであろうが、やはり海野さんだよなあ。
「《3丁目》というとなにが浮かぶ?」と友人に聞くところから、それは始まる。相手は「そうね、三ノ輪商店街かな。東京の下町、山谷や吉原に近いところ。私はそこで育ったの」……と答える。
以下、引用……
《3丁目》について語ることはむずかしく、恥ずかしい。だから語られず、忘れられてきた。語らなくてもわかるもの、語る必要のないもの、価値がないものであった。《3丁目》は、下町(ダウンタウン)、路地、横丁、オールドタウンなどに関連している。これらのものは、不思議に聞こえるかもしれないが、発見されなければならなかった。つまり、ことばに出されるまで、見えなかったのである。
《3丁目はどのように発見されたのか。その歴史を少したどってみたい。それには2つの山があったのではないか、と私は考えている。1つの山は1920、30年代で、もう1つは、50、60年代である。そして、3つめの山が今、来つつあるのかもしれない。
……引用、オワリ
こ、これは、では、大衆食も、3丁目ではないか。
そして、この2つの山は、大衆食と大衆食堂の歴史に関係する。つまり最初の山は、「大衆」が流行語になり「大衆食堂」の呼称が生まれる時代であり、そして次のもう1つの山は大衆食堂が急成長する時代だ。別の見方をすると、前者は、日本の食生活がモダンに変化しトンカツやコロッケやカレーライスなどの「洋食」が普及する時代であり、後者は、その変化が定着する時代、ともみえるか。
とにかく、イマ大衆食や大衆食堂を考えること語ることは、ノスタルジーもよいだろう、B級グルメもよいだろう、だけどそれだけじゃないはずだ。おれの場合は、すでに何度も言っているように、近代日本食のスタンダードが発見されなければならない、と、思っているのだが。
では、そもそも「3丁目」とは、なんなのか。海野さんは語っている。
長くなったので、今日はここまで。忘れなかったら、明日につづく。
映画「3丁目の夕日」が公開中だってね。「1丁目」でも「2丁目」でもない、「3丁目」とは、なんなのか。
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