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2005/12/30

さらにロクデモナイ年へ

ナマケモノの節句働きという言葉があったような気がするが、ほんと、そういうやつがいるんだよなあ。正月休みとかになると張り切って仕事をしているところを見せ付けるやつとか。ようするに根性が悪いやつらだ。

ひとが休みのときはちゃんと休み、ひとが呑むときはちゃんと呑み、ひとが働いているときも休み、ひとが呑まないときも呑み、そういうマットウなナマケモノこそオモシロイし、そういう人間がふえれば、世の中マットウというものだろうが、とても、のぞめない。ナマケモノの節句働きのようなナマケモノが、のさばるのだ。

そもそも、ブログなんか休んでノンビリすればよいのに、こういうときになるとかえって、ワタシはまだ休んでないのよシゴトがドッサリあるの、といいたげに、こうしてしつこく書いているロクデナシもいる。ザマアミロ。


来年もロクデモナイ年になるだろうが、そういう時代に生きることをよろこびとし、悪態つきながら新年をむかえよう。クソッタレ! 「おめでとう」はいらない。

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2005/12/29

酒造りの古本

たまった郵便物をあけていたら、なかに松屋浅草 第9回古本まつりのカタログが。ぱらぱら見ていたら、気になる酒造り関係の古本が。

辛口甘口清酒醸造法   大内諒著   明文堂 大正13年
清酒と活性炭   帝國酒醤油新報社 昭和10年
実践 酒造人工必携   日本醸造協社 昭和5年
酒造全書    芝田喜三代著   財務出版 昭和33年
清酒の白ボケについて―白ボケの成因とその対策   蚕白濁研究会 昭和37年

気になるのは、これぐらいかな。全部買うと1万3千円ぐらいか。
うーむ、読まなくても原稿は書けると思うから……買うのやめて、飲んだほうがよいか。

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原生生物・微生物幻想へ

今月はじめ高千代酒造を取材し、さらに来春早々には、醸造に関する取材がある予定だ。そこで、このあいだから、醸造関係の本を読んでいるわけだが、これがオモシロイ。

なんといっても、いままで「生物界」というと、動物と植物しか頭になかったが、生物界というのは「動物」「植物」「原生生物」に大別され、その原生生物は高等微生物と下等微生物とウイルスに大別されるのだそうだ。醸造に関係するのは、この高等微生物なのだが、これがまあ、オモシロイ生物なのだ。動物と植物を中心に世界を見てきたようだが、もっと原生生物のことを、シッカリ見るようにしないといかんな。

「微生物が存在しなかったら、地球は動植物の遺体で埋まってしまうだろう」という言葉もあるらしいが、ふんとだな。動物や植物のことだけじゃなく、もっと微生物に関心もたなくてはな。

微生物の眼を持たなくてはな。しかし、微生物の眼って、微生物には眼はないよな。じゃ、微生物の感覚を持つのか、あいつら感覚あるのか? 微生物様の立場を理解するのか、微生物に立場なんてあるのか?

ああ、微生物になってみたい。微生物の年末って、どんなんだろうか。正月は、どんなんだろうか。酒や味噌のなかで年を越す微生物もいれば、鳥肉やウンコのなかや、男や女の性器で、年を越す微生物もいるんだよな、きっと。微生物にとって、来年は、どんな年になるのだろうか。

そのように、酔いの抜けない頭に、幻想がモワ~とひろがる年末であります。

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2005/12/28

イナゴ幻想

新年は、4日からの営業です。

那須温泉に行ってきた。那須温泉へは、ここ埼玉県の浦和からだと、東京の人が箱根・熱海・湯河原へ行く感覚で行ける。乗り換え時間をのぞくと、2時間かからないで着いちゃうのだ。しかも、気どった東京人のみなさまが利用する箱根・熱海・湯河原と比べると、安い宿がたくさんある。つまりグレード落ちるのですな。たしかに、おれのお仲間ねとアンシンできる、貧乏そうな人たちばかりで、しかも金のなさそうな、都心には住めなさそうな、小耳に挟んだところでは、那須温泉は東京郊外にしか住めない若いカップルが行くところなのだそうで、それらしい連中がけっこういた。しかし、温泉は、いいのだよ。

とにかく、それじゃっ、と近所の銭湯へ行くような気楽さで行ける。とはいえ、余計なカネはつかいたくないし、とくに宿のマズイ酒に高い金をとられるのは、断固いやだから、那須温泉のバス終点近くの酒屋で地酒を買うことにした。

ちかごろ、どこでも、720ml純米酒系が、揃っているのだが、その酒屋もそうだった。ざっとみて、吟醸系は候補からはずし、純米酒3種にしぼったが、どれにするか迷う。そばで棚の整理をしていたオヤジに、オススメを聞いた。その答え方で、オススメを選ぶか、その反対を選ぶか決める、意地悪い腹なのだ。

すると、このオヤジが、「みなさん土産に買うので「那須」の文字がついたのを買って行きますが、わたしはこの酒が好きだ」と、栃木ナマリか那須ナマリで言う。なるほど、そうか、その答えが気に入って、オヤジのオススメにしたがうことにした。オヤジが指差した、ラベルに那須の文字がない一本を買って、宿。

粉雪が舞う露天風呂に、ゆっくり入って。温泉にウルサイひとのためにいえば、ここはかけ流し、近くの有名な源泉「鹿の湯」から引いた湯をそのまま流している湯だ。ま、それでね、さあ、料理が出てきたぞ。どうせ安いのだから、大きな期待をしてはいけない。

それでも品数だけはある。皿の数で勝負する伝統日本料理だ。と、よく見ると、よく見ると、おおおおおおっ、なんと前菜にあたる、よくありますね、チビッとづつ三種の盛り合わせ。その真ん中、よく見るも見ないも、その姿のままのイナゴの佃煮なのだ。いやあ、はあ、これはいったい、どういうココロなのか。

inagoま、とにかく、格式ある伝統日本料理、それも板前が自分の腕をごらんなさいましと、まず酒のツマミに出す前菜に、ご登場というのだから、イナゴの佃煮もキレイな器に盛られ大出世というわけか。そういえば、イナゴの佃煮など、めったにくえるものじゃないからなあ、山の温泉のゴチソウなのか。それとも、伝統日本料理も、イナゴへの偏見をあらためようというのか。いや、イナゴの佃煮ぐらいで、いちいちこのようなことを気にするおれが、いちばん偏見にとらわれているということになるのか。……と、これで、まず買ったばかりの地酒を一杯。うめええええええ・・・・・イナゴじゃなく、酒ね。

ま、このイナゴのウマソウな野生の姿そのままを写真でご覧下さい。クリック地獄で拡大。もちろん、ちゃんと全部食べました。昆虫食は、すばらしい。

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2005/12/27

嗜好と食育と「健康教」「栄養教」

新年の営業は4日からです。

きのうの日記に書いた「談」の原稿は、飲酒に関して強まるお節介についてのものだ。喫煙については、すでに「嫌煙権」なるものが確立したようだが、それは、振り返れば「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」という趣旨から始まっている。いま、これと似た現象が、飲酒についても、始まっている。その現象の特徴や背景について書いた。

嫌煙は、なるほどタバコの問題だが、それだけの問題としてみるのではなく、巨視的にみれば、タバコは嗜好品であるのだから、「嫌煙運動」は人びとの嗜好へのお節介というカタチで始まったのだ。そして、嗜好へのお節介は、酒にまで広がろうとしているし、さらにお節介は「食育」というカタチで、人びとの「口」に入るものすべてに及ぼうとしている。

いつからなぜ、そうなったのかは、「談」に書いたので、3月ごろ発行予定のそれを読んでもらいたい。とにかく、その大義名分は「健康」なのだ。

「健康第一」がアタリマエになる過程で、じつは「幸福第一」が否定されてきた。つまりは、「幸福」ぬきの「健康」がのさばったのだ。健康でありさえすれば幸福という考え、ほんとうにそうだろうか、それでいいのだろうか。というわけだね。

お互いの「幸福」を考えるのではなく、自分の「健康」を考えるようになったとき、他人の幸福を平気で踏みにじる、「殺伐とした社会」が到来した。「こころの健康」などというが、「健康第一」を捨て「幸福第一」に立ち返らないかぎり、「こころの健康」などは望めないだろう。「こころの健康」を主張しなくてはいけない健康こそ、幸福を否定した健康の姿なのだ。

食育で、ますます、お節介がひろがり、不幸がひろがる? アレを止めれば健康によい、コレを食べれば健康によいという短絡に陥り右往左往するだけで、幸福への絵が描けない「健康教」その根拠にある「栄養教」を、いま一度考え直してみる必要がある。

来年は、打倒!ハットリ栄養健康教で暴走したい。

ようするに、気どるな力強くめしをくえ! 力強く酒を飲め! ってことですよ。

関連

11月16日 「メッシュ」な文化
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/11/post_8d24.html

11月7日 マザーウォーター 酒と水の話
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/11/post_18bb.html

今週から、更新がなかったり、コメントやメールの返信が遅れるかも知れません。よろしく~

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2005/12/26

ピッケル

午前中に昨夜書き上げた「談」の原稿をメールで送ると、まもなく佐藤編集長から電話があって「エンテツさん、あんな原稿じゃつかえませんよ、もっとちゃんと書いてくださいよ、このボケ」と言われて目が覚めたら電話が鳴っているので出たら佐藤編集長からでOKの知らせ。やれやれと思ったが、これですべて片づいたわけじゃないんだよな。と、しかしつぎにかかる気もおきず、とりあえず酒を飲んで、酒を飲んで。

若い頃は、いまごろになると血が騒ぎ、まってましたとばかり山やスキーへ行って、山の中で正月がフツウだったのだがなあ。あんな寒い中へよく行ったものだ、いまじゃとても行く気がしないよ。

stubayはて、一番最後の雪山の正月はいつだったか。このあいだ掃除のとき、ひさしぶりにピッケルをひっぱりだして見たら、ピックとかブレードとよぶ頭のほうは、磨いてサビ止めして革カバーをしておいたから、ピカピカのまま(写真はクリック地獄で拡大。ピカピカのおかげで写りこみがあってサビているように見えるけど)。石突とよぶ下のとがったほうは、サビ止めしてなかったから、腐るほどじゃないがサビていた。

これは、たしか高校のころから数えて三本目で、30歳中ごろに買ったような気がするのだが。そのころは、もう木のシャフトは時代遅れになりつつあった。でも、なんとなく木のシャフトから離れがたく買ってしまった。木のシャフトは最初は白木のような色しているけど、アマニ油を塗って使い込むほどにアメ色になっていくのがいいんだよね。これで、何回どこへ行ったか、もう忘れてしまった。たしか使ったのは、40歳ごろが最後かな? そのあとは仕事とオンナが忙しくなってしまって……なんてね、カネとヒマが山までまわらなくなって。あのころの持ち物で残っているのは、若干の本以外は、これぐらいのものか。なんでも、パッパッ捨ててきたけど、これは捨てなかったのだな。

STUBAI NangaParbat Extrem MADE IN AUSTRIA オーストリア製 ナンガパルバット社 スチュバイ ってことだが。どうってことない普及品。でも久しぶりに、これを撫でていると、なんかエエなあ。でも、もう、この寒さのなか山へ行こうという気はおきないね。あったかいところで酒飲んでいたほうがいい。堕落したなあ。

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頽廃か堕落か

ぶはっ、書き上げたぜ、20枚。書き出したのは今朝からだけど。けっこう集中したなあ。途中で酒を飲んだりして。うちにはいま、親戚にもらった新潟の酒が、たんまりあるもので、飲まずにいられましょうか。

この原稿は、「談」別冊の嗜好品シリーズ「酒」のためのものだが、なにしろ、編集長の佐藤真さんは、「あいかわらず、難しそうなことをやろうとしているのだなと思われたでしょうが、あたりです」と、コムズカシイ企画書を送りつけてくるぐらい、バカなのかリコウなのかわからん人でね。

それなのにおれは単なるバカだから、企画全体の解読だけでもてこずり、アレコレ資料見たり考え込んだりで時間をくった。そしてさらに自分が書くことについてアレコレ考え、原稿の資料を集めて読むだけでも、すごい量になってしまい、もう頭が暴発しそうだよ。

まだ100枚ぐらい書けそうなぐらい、頭になんか詰まっているかんじ。ぐはあああああ・・・・・、発狂しそうだああ・・・・・って、夜中の2時ごろに、パソコンにむかって叫ぶ。

でも、片づいた。ということにしよう。年末締め切りに悠々セーフ。拙速人生だからね。
寝ておきて、もう一度見直して送ってしまえば、もう全部忘れるだろう。

「談」別冊の嗜好品シリーズ「コーヒー」
http://www.dan21.com/backnumber/extra_coffee/index.html
同「たばこ」
http://www.dan21.com/backnumber/extra_tabacco/index.html

頽廃か堕落か、となったら、躊躇せずに堕落を選ぶべきだね。
しかし、年末価格のうえに、寒波と雪の影響か、野菜や魚が高い。クソッタレ。

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2005/12/24

もちつき

いま、どれぐらいの家でもちつきをやるのか。

この秋、年寄りが手術をしたので、早く帰り、もちつきや神飾りを手伝うように言われているのだが。はて。都会生活でナマクラになった身体で、もちつきや神飾りなど、そう簡単にできるものではなし。

しかし、このつきたてのもちを、大根おろしで食べると、うめえんだよなあ。

ザ大衆食「消えゆくのか、もちつき風景」がある。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun/motituki.htm

これは春の節句のもちつきだから、まだ温かくてよい。
もちごめを蒸すカマドは、外にあるから、暮れのもちつきは寒い風通しの中でカマドにむかう。ま、それはそれで楽しいが、トシとると寒さが身にしみるからなあ。そこに住んでいるひとは、慣れているから平気でも……。

ぶつぶつぶつ、考えるほど後ろ向きになるのだ。

もちつきをたやさないためにも、早く帰って、もちつきをやるか。しかしなあ、身体がもたないだろうからなあ。このあいだも、ちょっとキネを持って、振り上げ下ろす動作のうちに、腰がふらふらする有様で、すぐ息が上がる有様で、われながらイヤになっちゃうね、だったのだ。

ぶつぶつぶつ。

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2005/12/23

温泉たまご

このあいだ、読者のひのこさんからいただいたメールに、温泉たまごをめしにかけて食べる話があって、アレはたしかに、だし汁と一緒だから、めしにかけて食べるにはいいのだ。

そして、どうも気になるのだが、旅館などに泊まると、朝食に定番だった生たまごより、温泉たまごが出ることが増えているような気がするのだ。

コンビニにも温泉たまごが売っているから、旅館などの温泉たまごは自家製ではなく、仕入れたものだと思うが。コスト的には、生たまごのほうが安上がりのような気がするが、どうなのか。いま、温泉たまごのほうが、客に人気ということなのか。ブームなのか? はて、な、よくわからんな、と、とりあえず気になるから、「温泉たまご」をグーグルで検索してみたら、たくさんヒットして、おどろいた。

しかし、生たまごぶっかけめしと、温泉たまごぶっかけめし、どちらがうまいのか、判断は難しいなあ。

Wikipediaにもあるぞ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%94

節約レシピ 温泉たまご
http://repiko.yakan.net/onsentamago.html

熱の実験室 たまごの実験 その2
http://www.hakko.co.jp/expe/expe1501.htm

城崎温泉元湯案内 温泉たまご
http://www.kinosaki-motoyu.com/frame.php3?Mode=show_open_thread&Form%5Bcate_id%5D=158&Form%5Busername%5D=a_chaya

温泉たまごの製造工程2
http://homepage3.nifty.com/takakis2/takii.htm

温泉たまご イセデリカ
http://www.isedelica.co.jp/product/syohin4.htm

温泉たまご器
http://www.natoriya.co.jp/goods/goods11404.html

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レモンクラブとラーメンの諸問題

ただいま発売中の「レモンクラブ」1月号が送られてきて、見ていて気がついた。ってことは、いままで気がつかなかった。南陀楼綾繁さんや山崎邦紀さんの文章の見出しは、内容に関係なく、というか内容を塩山芳明編集長が勝手に飛躍させてつけているのだなあ。

今回の南陀楼さんの「物好き 南陀楼綾繁 の活字本でも読んでみっか?」では、ちくま文庫の杉作J太郎著「男の花道」を取り上げて、これがまあいかにも杉作J太郎本らしい、ムチャクチャぶり?を紹介している。この見出しが「ここまで落ちたか ちくま文庫!!」だ。

「エロ漫画監督 山崎邦紀 の初老男のボッキ時」は、山崎さんが「今年2本目のピンク映画の撮影が終わったところである」と、デブフェチや掃除機マニアについて書いているが、その見出しは「赤貧監督に文化庁は生活費を!!」だ。

あははは、内容と無関係で、そんなこと書いてねえよ、と言いたいんだが、まあそういうことでもあるよなあと笑える見出し。

ほかのものも一緒に並べると、こうだ。
「30うるみ眼男 伊藤岳人 の全老人家畜論」は、少子化は悪くないというオハナシだが、見出しは「エロ本屋にも死活問題なんだヨ」
「トッチャン坊や ムラムー の歌えばパラダイス」は、遠藤賢一の音楽映画「不滅の男 エンケン対日本武道館」を見てきたオハナシで、見出しは「爺さん婆さんだけが元気な日本」、これはまあ内容から、それほど飛躍はないが。

ところで、このエロ漫画誌の表3広告は、日本出版社の「噂のラーメン」だ。ここにも、ラーメンブーム、ラーメングルメというかんじだが、こうして見ると、なかなかラーメンの本質があらわでよいね。元来、ラーメンは、即物的なものなのだ。その即物性をこそ、貧乏人は愛すべきなのだ。

しかし、即物性は卑下され、即心性が敬われ。ちかごろ、やたら「感謝」だの「こころに気持ちよいこと」だの、歯が浮きそうな即心的な、とりわけ「エッセイ」なんてものは、そういう言葉の羅列で、貧乏人が貧乏人に感謝したり、哀れんだり、同情したり、優越感もったり、それじゃあ、しょうがないだろ。貧乏人が、ワタシこんなにがんばっています、学歴なくて苦労しても希望があります、なんて、アタリメエだろう、そんなこと言って同情がほしいのか。文章書いたぐらいで、貧乏人がこころの持ち方ひとつでナニモノかになれるかのような気分でいるやつがいるが、そういうなかでエロ漫画の即物性は潔く、また癒される。と、「癒される」って言葉は、こういうふうに使うものだよな。

しかし、この「レモンクラブ」って、まったくボッキしないな。トシのせい? 塩山さん、どうか、おれがボッキする漫画を載せてくれ、頼む。

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2005/12/22

はたして、ゲロめしの写真は?

きのうは、なんだかバタバタすぎたなあ。午後から週刊朝日の取材、午前中にアレコレ片付けて、待ち合わせの竹屋食堂へ。

想定外のことが二つあって。一つは、写真撮影があるというので、喋っているか食べているところをスナップ的に撮られるのだろうと思っていたが、ちゃんとカメラマンがセッティングして、テーブルにむかっておれがゲロめしをつくり食べる一連を撮影することになった。これは、なかなかおもしろかったが、はたして、週刊朝日にゲロめしが写真で載るのかどうか、うーむ、週刊朝日にゲロめし、イメージじゃないだけに実現したらオモシロイ。しかし、つくる前はともかく、できあがりを写真にすると、ほんとゲロそのものだからなあ。ちょうど、竹屋食堂へ行く途中の道路に、ゲロがドバッと吐かれていたが、あれとそっくり。いやあ、ははははは、たまんないね。

もう一つの想定外は、午後二時すぎの時間帯なら、竹屋食堂には誰も来ないだろうと思っていたら、常連たちが三人も来る「混雑」。平日の午後なのにだ。酒飲みながら碁を打つ。となると碁好きのオヤジも興奮して騒ぐから、狭い店が騒々しく取材に集中できない事態となった。ま、それはそれで、「らしく」てよかったのだけどね。はたして、編集サイドが意図していた取材ができたのかどうかは不明。『汁かけめし快食學』についてオシャベリし、ワイワイどたばたと、ぶっかけめしのごとく、終わったのだった。

それから、すぐ帰って原稿書き、なんてことはできるはずなく、常連たちと飲んでしまった。

ゲロめしは、やっぱりウマイ!ということで、ザ大衆食の「断固オススメ、ゲロめし」であります。この写真は、つくる前のゲロになってない状態だよ。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/geromesi.htm
あと「卵かけご飯のシアワセ」も話題になったね。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/tamagomeshi_nippo.htm
「ねこまんま騒動」についても話題になったね。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/nekomanma1.htm

来春の週刊朝日で、汁かけめしの記事が見られるか? そこにおれとゲロめしが登場するか? はたして?

そして、あとわずかの年末の一日が終わったのだった。

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2005/12/20

アルコール添加の清酒

清酒の原材料表記に「醸造アルコール」があるものを、「アル添酒」という。これは、純度の高い醸造アルコール、無色無臭の甲類焼酎のようなものと思えばよいと思うが、それを清酒の製造過程で10%以下の割合で添加したものだ。たとえば、原材料名に「米・米こうじ・醸造アルコール」とあるのがそれで、「米・米こうじ」だけの「純米酒」と区別される。正確には、「純米酒」の原料米は、精米歩合が70%以下、つまり玄米の外側30%を削り落として精米したものでなければならない。また「アル添酒」は、糖類などを添加したいわゆる「三増酒」とも区別される。

アル添酒は、最近の純米酒ハヤリの傾向のなかで、あまり評判がよくない。純米であればよい、アル添はニセモノという風潮もある。ここにも短絡日本人の知ったかぶりが露呈していると思うのだが、ようするに大部分は、よくわからない急ごしらえの「純米酒派」なのであり、そのことについては、今日はふれない。おれは、三増酒については清酒からはずして「混合酒」「混成酒」「合成酒」など、つまり清酒風飲料酒が妥当であり、アル添酒については清酒でよいと思っている。

このことについて書いていると長くなるのだが、マニアックな仔細にこだわった分類は、現実的ではない、つまり生活においては意味がないということだ。ところが、近年の傾向だと思うのだが、狂いウシ病モンダイにしてもそうだが、仔細なマニアックな情報だけが飛び交い、それでYESかNOを決めたがる。では、その仔細さに応じた総合的な生活的な判断力が育っているのかというと、そうではない。ただただ仔細な情報にはまり振り回され動きがとれなくなる、隘路をほじくるようなマニアックなオシャベリだけが活発なのだ。そして時間が過ぎていく。そこには、あたかも、絶対美味があるかのような、絶対ホンモノ、絶対安全があるかのような、現実離れした生活感覚が存在する。生活に関してまで、生活感覚を捨て、マニアになっている人たちがいる。牛肉情報マニア、食育情報マニア……そこにあるのはマニアックな情報であって、生活ではない。それは、過剰な余剰人員化した高学歴知識層と、過剰な余剰化したメディアによって、もたらされたのではないかと思う。

おっとととと、このことは今日はいいのだ。資料を見ていたら、アル添酒の歴史について、学者のあいだにもくいちがいがあるのだ。そのことをメモしておきたいだけなのだ。

1991年発行の吉澤淑さんの『酒の文化誌』(丸善ライブラリー)によれば、アルコール添加の方法は、「酒質の軽快化と雑菌汚染防止にあり、江戸時代に既に開発された優れた方法であることにご留意いただきたい」である。アルコール添加については、「増量」が主眼ではないと見ている。

1992年発行の小泉武夫さんの『日本酒ルネッサンス』(中公新書)によれば、「「アル添酒」はまず日本酒を造っておいてから、これにアルコールと水を加え増量するものである。この方法はすでに昭和17年、もろみに商工省燃料局生産のアルコールを添加することが承認されていたのが(戦後)よみがえったもので、終戦直後から全国の酒造業者の間に少しずつ広まり、昭和23年には大半の酒造家が取り入れた」。また「アル添酒、三増酒が日本酒の堕落につながるのか、また将来にわたっても存在する必要があるかどうかについては意見の分かれるところであるが、少なくとも始められた理由が戦時物資欠乏による統制のためであったことを考えると、今日すでにその目的は完全に達せられたのであるから、ここは一度振り出しに戻って、消費者が納得できる方向に修正すべきであろう」とアル添酒も三増酒も一緒に論じられている。

吉澤淑さんは、1933年生れ。東京大学農学部農芸学科卒業、1989年より東京農業大学農学部醸造学科教授。農学博士。

小泉武夫さんは、1943年生れ。東京農業大学卒業、農学博士、東京農業大学教授。専攻=醸造学、発酵学。

ついでに、最近まで純米酒は高級酒であったし高級酒であるが、紙箱入りの普通酒なみ価格のものも多く出回るようになった。

アル添酒がモンダイになっても、古米でつくられた「新酒」はモンダイにならない。狂いウシ病をモンダイにし、タバコの煙をモンダイにし、食育をウンウンしても、アスベストの追求はされないし、死人が出るまで松下の温風暖房機はホッタラカシ、年に1回の年末掃除をしてみれば、発がん性煤煙がベッタリ、層をなしている。そんなもんだべ、日本は。

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2005/12/19

はいつくばって生きていく者たちへ

古いテキストの保存倉庫から、こんなのが見つかった。2001.12.26の日付だから、パソコンを買いインターネットを始めて一年ぐらいのころだ。おれのホームページを見てメールをくれた、はいつくばって生きている男がいた。その彼が教えてくれたのが、はいつくばって生きている調査マンが管理人の掲示板で、はいつくばって生きている者たちが集まって遊んでいた。そこでおれも遊ぶようになり、年の暮れに、このようなご挨拶をしたのだった。ここでは、なぜか、おれは「エロテツ」とも呼ばれた。エロに関して哲学的に語ることが多かったからか? んなわけないな、ただのエロ爺だからだろう。

きのう、はいつくばって生きていく者たちと年賀状を話題にしたばかりだから流れとしても、ちょうどいいや、転載しよう。このころは、いまとくらべると体力もあったから、夜中に酔ってパソコンに向かい、こんな遊びもできたのだが……。

これだと、この年は、12月26日まで営業で翌日から休みになっているな。グウゼンだが、今年も、その予定で、いま最後の追い込みに入っている。そりゃあ、あと1週間で20枚、書くぞっ!

では、以下、転載です。


地面にはいつくばって生きていくさ
ダニのように毛嫌いされても
それがいったいどうしたというのだ
糞をまきちらし顔をそむけられ
同情されることなく
暖かくむかえられることなく
優しい言葉ひとつない
罵詈雑言をあびても
はいつくばって生きていくさ
自分の人生だ
文句あるかクソッタレ
文句あるやつは前にでろ
屁をかけてやるわ

ということで、今年もおわりです。
わたくし遠藤哲夫ことエンテツことエロテツは、
本日をもって今年の営業を終了します。
来年の営業開始は1月3日からです。

来年の世情はさらに悪くなると思いますが、
そういう時代に生まれたことを喜びとし、
どうかみなさまよい年をお迎えください。

2001.12.26

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2005/12/18

年の瀬、今年の年賀状、来年の年賀状

まあ、年の瀬で、いろいろな年の瀬があるわけだけど。きのうは、チョイと用があって出かけた先で、ときどき一緒に飲む東京下層労働者たちとグウゼン出会って飲んだが、どいつもこいつもツライ年末なのに、まあいつもどおり陽気でなあ。懲りない連中といえば懲りない連中。

内装職人はC型肝炎で入院のち退院後治療中、一ヶ月の注射代とクスリ代に7万かかる。タクシー運転手は、まもなく失明の病気、もう仕事は休んでいる、できない。もちろんどちらも酒を飲んではいけないのにガブガブ飲んで。製本職人は、毎日午前8時から午後10時までの肉体労働で疲れ果てうつ病に、休んでいるが復帰はむずかしいから、まもなく辞める。20年以上つとめたところだが、会社自体もアブナイらしい、退職金もらえるうちに辞めなくては。そのあとはどうなるかわからない。牛乳配達男は、もう転々としたあとで、これを辞めたらあとがない。ホームレスしかないからなんとか続けているようだ。そういや彼が牛乳配達をやり始めたとき、このブログに書いたと思うが、ワレワレは彼が何日間続くか賭けたのだった。最長で一ヵ月、おれはたしか20日ぐらいに賭けたのだったかな? みんなハズレ。

ま、それでも、正月は来る。

今年の初めの年賀状もどきで、年賀状やめた宣言をしたので、このクソ忙しい時期に、年賀状のことを考えなくてよいから気がらくだ。

では、今年の年賀状は、どんなものだったか。昨年末すでに年賀状は買ってあったので、その年賀状を使って、「謹賀新年」とはせずに「エンテツ年頭消息」として出したのだった。こんな文章でね。

エンテツ年頭消息   2005年正月号

元気一番。今年から「年賀状」は、やめることにした。もともと年賀にかこつけて一年に一度ぐらいは、生きているぜ、こんなアンバイだぜ、と自分の存在を押し売りアピールするのがタノシミだったのだ。この新スタイルなら年末年始の飲酒繁忙期に、年賀状づくりを気にすることなく、思いきり酒を楽しめるからね。それに年賀状につきまとうメンドウがなくてよい。という万事自分の都合が最大の理由。怠惰は創意の基。でも今回は年賀はがきを買ってしまったから、移行措置として、こうなった。さて、昨年は7月にちくま文庫から『汁かけめし快食學』、それがキッカケで初めてTBSテレビ「はなまるマーケット」出演など、イロイロな初体験が重なった。故郷の六日町はマサカの大地震に襲われたし、このトシになっても、初体験はまだまだある。かくて、いろいろ感慨を覚え発見も多かったが、じつは、おれは何も変わらなかった。今年はどうなる? トシをとる。 天国か地獄か。


ということだったが。ところが、これを見たやつから、おもしろいから、これを続けてくれという要望があった。フン。ま、たぶん、やるだろう。ただし、年賀状は買ってないから、年が明けてからゆっくりやるさ。

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2005/12/17

おれは「暴走ジジイ」だ!

いやははは、きのう紹介の『食品商業』1月号だが、おれは編集後記を先に目を通すなんていう「通」じゃないから、前から順番に読んでいたのだが、そしてこれがおもしろい、広告もね、自動で海苔巻きをつくってしまう機械とか、自動でチャーハンつくってしまう機械とかあって、へえホウほうと見ているとあきない、それで遅ればせながら編集後記を見たら、なーんとオモシロイ『汁かけめし快食學』の紹介とあわせて、連載の紹介がある。次回、2月号の予告もある。2月号のテーマは、「必然か おせっかいか 食育基本法」だ。いま、手元にゲラがあって、月曜の午前中にもどすのだな。うふふふふ、次回は、次回も? 食育基本法クソクラエで過激に書いている。そうだ、おれは暴走者なのだ。

以下、編集後記から引用。というより、勝手に転載か?

■『汁かけめし快食學』というタイトルといい、表紙のイラスト(ぜひ、書店でご覧になってください)といい「何かマガマガシイ本だなあ。どうせ、キッチュな感じの軽い読み物だろ」と思いながら手に取ったのですが。■これが面白い。庶民の食、ときに貧困の食という、ものすごく深いテーマ。米とその他の穀物まで含めた「飯」を軸に、中世から現在までの食の民俗を描く。荒野をオフロードバイクで暴走しているような文体。急カーブ切り放題。休憩取り放題。■そこに汁気のあるウマイものがあれば、飯にかける。米食、いや、雑穀飯も含めた飯食の宿命である。カレーライスはインドから大英帝国を経て到来した「カリー&ライス」の子孫ではない。暴走の果てに、そう喝破している。■そういうわけで遠藤哲夫さんに登場願いました。生産者、販売者、消費者、三者の立場で、同じテーマを論じてもらいたい。販売者なら、ここは絶対、ライフコーポレーションの清水代表にお願いしたい。■2月号からは、生産者の書き手の方にも加わっていただけそうです。テーマは「必然かおせっかいか食育基本法」。乞うご期待。(近藤昌)

引用オワリ。

近藤さんは担当の方です。よろしく。ま、おれの本は、内容もそうだが、文章というか文体というか、批評がむずかしいだろうと思う。そこんとこを、上手に片付けていただいて、うまいなあ、こういうふうに書くものなのね。勉強になった。

60過ぎても、まだまだ暴走する暴走ジジイ。どうかみなさま、2月号を、お楽しみに。まず、イイ子ぶっていないで、1月号を読めよ。

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2005/12/16

連載開始「食品商業」そして「韓国広場」サナギのココロ

syokunin_syogyou1(写真はクリック地獄で拡大)

以前お知らせしたように、今月15日発売の月刊『食品商業』(商業界)1月号から、連載が始まった。「食のこころ こころの食」という通しタイトルのもと、毎号編集部からテーマをいただき、3人が書く。初回は、生産者の執筆者が決まるのが遅れ、おれと清水信次さんで書くことになった。

清水信次(しみずのぶつぐ)さんは、1月号に掲載のプロフィールからそのまま引用すると、「1926年4月三重県津市生まれ。43年12月、大阪貿易学校卒業。45年9月、清水商店設立。56年9月、㈱ライフコーポレーション設立、代表取締役社長に就任。88年、代表取締役会長兼社長に就任。99年7月、日本スーパーマーケット協会初代会長に就任(現任)」という方だ。個性的、アグレッシブな経営者が多いスーパー業界でも、清水さんは、とりわけ個性的でアグレッシブな方だ。60過ぎのおれも小僧みたいなものさ。このような方と一緒に書けるなんて、オソロシイというか、光栄というか。

届いた掲載誌をあけると、最初のほうに、オオッ、なんとまあ、写真のごとくドカーンの扉で登場。第1回のテーマは、「「食の豊かさ」ってなんですか」だ。おれと清水さんが、それぞれ見開き2ページとつかって書いている。なかなか読み応えがあるよ。

ところで、この写真の右ページはグラビアで、「流通革命者を偲ぶ23人のメッセージ」というタイトルで、去る11月20日の「中内功氏を偲ぶ会」の記事が載っている。中内さんは、まさに「流通革命者」らしいシゴトをした。そして、先を走るものは、とかく不運悲運にみまわれやすいが、中内さんも例外ではなく、晩年はさみしかった。中内さんの経営者としての責任モンダイはあったにせよ、日本の財界独特の商業蔑視(士農工商)の思想が、中内さんの晩年をさらに不幸に追い込んだと、おれは思っている。中内さんは最後は私財を投げうって、自らの責任をとった。トウゼンとはいえ、それにくらべ不良債権山積みで国民にまで迷惑をかけた銀行やゼネコンなどの幹部は、どうだったであろうか。その連中は、まだ生き残りのさばっている。

で、だね、その右ページの上に缶詰がのってますね。韓国語で書かれたの。これは韓国の缶詰で、きのう、というか、正確には今日の午前1時ごろ、歌舞伎町の「韓国広場」にいて、そこで買ったのさ。チョイとわかりにくいかも知れないが、これは、「さなぎの缶詰」。うへへへ、かいこのサナギの醤油煮だね。うへへへ、このパッケージの写真を見ちゃったら、食べるに勇気がいりそうだが、イチオウ食べるつもりで買ってきた。

であるからだよ、午前1時に歌舞伎町にいたということは、もう電車がない時間だからな。なぜ、そうなったかというと、新大久保で韓国料理を食べるというので、下北沢を10時近くに出て、新大久保のその店に着いたのが、もう10時半だもんね。もうそれから、きのうは、えーと、太田尻家と野崎家とイナガキさんで、この店はイナガキさんオススメなのだが、もうガンガン食べたね。いやあ、飲んだことは飲んだけど、力強くガンガン食べた。やはり、これぐらいの人数だと、イロイロ食べられて安上がりだからね。はあ、そして、それから「韓国広場」へ行った。ウワサには聞いていたけど、この韓国広場のスーパーはすごい!大きい売場に、生鮮のごまの葉まであって、ようするに韓国食材がドカーンとある、酒もある。見ていて飽きない。たまげた。また行きたい。

んで、太田尻家に泊まって、今朝小田急線祖師谷駅からトコトコ帰ってきたのだが、ずいぶん旅行した気分だ。

韓国広場
http://www.kankokuhiroba.co.jp/

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2005/12/15

こんなに違う増税報道

ついでにネットの今日のニュースから、増税関係を見ると、全国紙と地方紙では、こんなに報道の仕方が違うのだ。なんだろう、この毎日新聞の報道の仕方は。全体の増税路線にはふれず、たばこ増税は児童手当拡充のためのような(たばこ税は、児童手当のための目的税なのか?)報道、「欧米と比べると」という例の論調で、日本国民の実態は無視。けっきょく、嫌煙者が増える中、ビンボーな喫煙者の多いたばこ増税から与党の増税路線への道を拓こうという姿勢がアリアリ。毎日新聞は与党・政府増税広報下請け新聞か。大マスコミにだまされないようにしよう。ビンボー人たち、それでも、大マスコミ、与党・政府の増税路線を支持するのか。と、ここでいっても、ブログやっている連中は、ゆとりの人たちだから、あまり意味ないか。

<たばこ増税>児童手当拡充で、1本1円値上げ 来春から

 政府、与党は14日、児童手当の支給対象上限を小学3年生から小学6年生へ引き上げるとともに、親の所得制限も緩和する方針を決めた。夫婦と子供2人の世帯で、給与所得者は現行の780万円未満から860万円未満に、自営業者は596万円未満から780万未満にそれぞれ引き上げる。来年4月から実施する。現在、児童手当は0歳~3年生の子どもの85%に支給されているが、年収要件の緩和により1~6年生の90%が支給対象になる。必要財源は約2650億円。
 児童手当は現在、第1子、第2子に対しては月額5000円、第3子以降には同1万円が支給されている。
 政府・与党は同日、06年度の政府予算編成で、基礎年金の国庫負担を05年度比で2200億円積み増す方針も確認した。
 児童手当の支給対象拡大で政府・与党が合意したのを受け、自民、公明両党の税制調査会は14日、財源確保のため、06年度からたばこ税の税率を1本1円引き上げることを決めた。国・地方合計で約1700億円の税収増となる。たばこ税の増税は03年7月以来3年ぶりとなる。
 現在のたばこ1本あたりの税額は約7.9円で、05年度の国と地方を合わせたたばこ税収は約2兆2000億円。代表銘柄のたばこの小売価格は、マイルドセブン1箱(20本入り)が270円(たばこ税157円)で、欧米と比べると、英国982円(同611円)、米ニューヨーク市736円(同370円)と日本の安さが突出している。引き上げ後のマイルドセブン1箱の価格は290円となる。【吉田啓志、三沢耕平】
(毎日新聞)

増税路線、一段と鮮明に 与党、午後に税制大綱

 自民、公明両党は15日午後、2006年度の与党税制改正大綱を決定する。所得税と個人住民税を年間最大で29万円軽減している定率減税を07年に全廃。企業向け減税を大幅圧縮する上、たばこ税引き上げや「第3のビール」増税も盛り込む。
 たばこ税は1本当たり85銭引き上げる。販売価格引き上げ分一円(1箱20本入りで20円)との差額は、増税に伴う消費税のアップ分と販売店に支払われる手数料の増加分とみられる。「第3のビール」は350ミリリットル缶で3・8円引き上げる。
 景気回復を理由に過去に導入した減税措置を整理し、来年以降に議論が本格化する消費税を含めた税制の抜本改革の土台固めをする。来年度改正は国と地方合わせて2兆円超の実質増税となる見通し。家計にとっては、新規の減税項目は住宅の耐震改修減税など小粒にとどまり増税色を一段と強めた改正となる。
(上毛新聞:FLASH24:主要ニュース から)

たばこ1箱20円値上げ 2兆円超の実質増税

 自民、公明両党は14日、2006年度税制改正で1本当たり約7・9円のたばこ税を85銭引き上げることで合意した。販売価格は1箱(20本入り)20円引き上げる。約1700億円の税収を児童手当拡充の財源に充てる。早ければ来年4月にも引き上げる方針。たばこ増税は03年以来、3年ぶり。
 自民党税調は同日、たばこ増税を含む所得税・個人住民税の定率減税全廃や企業減税の縮小を柱とする2006年度税制改正の最終案で合意した。自公両党は15日午後に与党税制改正大綱を正式決定する。
 郵政民営化に伴い発足する民営化会社間の取引に課される消費税の減免措置は認めないことが決まった。環境省が提示していた環境税の導入は見送る。自民税調幹部によると、消費税については「07年度をめどに、消費税を含む税体系の抜本的改革を実現」との昨年の与党税制改正大綱の表現を踏襲する。
(室蘭民報:FLASH24:暮らし・話題 から)

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フシギな人種

ときどき、わが同胞の日本人をフシギな人種と思うことがある。

与党が税制改正大綱を決め、税制が大幅に変わる方向へ動いている。ま、ビンボー人には、かなり負担になりそうな動きであるが、みなあまり関心がないようにみえる。フシギだなあ。みなそんなに裕福とは思えないが。

ブログをやっている人たちは、やはり余裕の人が多いのだろうか。税なんて、イチバン生活に関係する一人一人のモンダイだと思うのだが、いくらでも払うカクゴをしている人たちが多いのだろうな。すごいなあ。

こんなに税制「改革」が気になるおれって、よほどのビンボー人なんだな、やっぱし。そうだよなあ、テレビも新聞もないかわりに、ネットとつきあっていられるのだし。増税はんたーい、酒税をタダにしろ~、と、小さな声でつぶやいておこう。ああ、孤独だなあ。みな、増税なのに、たのしそうにしている。いくらでも払うカクゴさえあれば、たのしくしていられるものな。おれだけビンボーなのね、しくしくしく。

アアッ、そういえば、地方税の督促がきていたのだった。つまらんことを思い出してしまった。

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2005/12/14

巻機の水

muikamati_ta2_30518写真は03年5月撮影。クリック地獄で拡大。魚沼コシヒカリの田植え風景。中央奥の高い山が巻機山。

まだまだ高千代酒造の話。高千代の酒は巻機山の水でつくる。
巻機山は、おれという人間をつくったような山で(というと巻機に怒られるかもしれないが)、ザ大衆食「巻機山」に書いている。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/makihata.htm

しかし、この山の水のことは、あまり書いてない。でも、まったく書いてないわけではなく、10月6日「ジャム&マーガリンは青春おげおげ」に書いたね。高校1年山岳部夏山合宿のとき、2合目で、食パンにジャム&マーガリンを食べながら飲んだ水が巻機の水だ。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/10/post_0aab.html

この水は記憶に残る水だし、巻機の水は何度も飲んでいるから覚えている。その伏流水が、高千代の酒造りに使われている。これは「超軟水」に分類されるのだが、高千代は、最近この仕込み水を売り始めた。ふつうは酒蔵で水を売ることはやらない。

おれは、ここの水は大丈夫なのか聞いた。いろいろモンダイがあるところが少なくないからだ。すると、「おかげさまで、山にはスキー場一つできなかったから、いい林が残っているし、水は量質とも、まったく心配がない」という返事が返ってきた。

それで思い出したが、巻機は深田久弥百名山の一つだし、春の残雪期にはスキー登山でにぎわうところで、ここにスキー場をつくる話しは何度もあった。たしかリゾート法のあとバブルの頃は、かなり話がすすんでアブナイ状態になったような気がするが、森林組合やたくさんの人々によって巻機は守られ、そのまま残った。

はあ、そういうことがあったよなあ、よかったよなあ、とシミジミ思うのだった。

高千代酒造では、シャレたびんからその水を飲み、そしてさらに醸造所の前に湧き出るその水を飲んで、わが青春の山、巻機のある方角を仰ぎ見たが、雪雲のなかだった。

この超軟水をつかった高千代の酒造りの話は、3月に発売される「談」別冊「shikohin world/酒」に掲載予定なので、ごらんくださいよ。


高千代酒造の超軟水   おれとはちがって、やさしい肌理のこまかいなめらかな舌触りだよ。
http://www.takachiyo.co.jp/mizu-.htm
高千代酒造が、米からつくった酒、「純米 にごり酒 高千代 石ばかち」 いままさにできたて発売中。おれも買ってきた。
http://www.takachiyo.co.jp/kisetu-nigori.htm
ザ大衆食「六日町 大阪屋 高千代酒造 満足泥酔紀行」
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun/muikamati_oosakaya.htm

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2005/12/13

酒粕と粕汁

051212_takatiyo_sakekasu11日夜の万盛庵では、粕鍋が出た。ま、粕汁であるが。タラを一匹内臓ごと丸切りし、鍋にほおりこんで煮た、野趣あふれる鍋だ。タラの内臓が、うまい。酒のツマミに最高。わざわざ高い金だして、アンコウの肝を食べることはない。

万盛庵が粕鍋につかう酒粕は、高千代の酒粕だ。高千代の酒粕は、伝説的な評判を生みつつあるようだ。たとえば、ある人は、高千代の酒粕を見ただけで、高千代の酒のよさがわかる、それぐらい高千代の酒粕はちがうのだという。それも素人の話ではない、全国をまわっている酒醸造の機械メーカーの営業の人が、高千代の酒粕を見て、ここはいい酒をつくるところだと言ったという。高千代とは関係ない六日町の町中の人のあいだで、そういう話を聞いた。

12日は、高千代でも粕汁を食べさせてもらった。これは、野菜を入れただけの粕汁である。粕汁というと関西のイメージがあるが、むかしから酒蔵のある町で、冬の粕汁はアタリマエなのだ。野菜がタップリ入った粕汁を食べて、ガキのころを思い出した。

高千代の醸造所のなかを案内してもらっていると、「搾り」という工程で、仕込んだ原料酒が搾られ清酒と酒粕に分離するわけだが、その機械のそばに袋詰めされた酒粕が置いてあった。最近は、酒の生産量が落ちているから、酒粕は品薄になっている。そこへ、みのもんたがテレビで、酒粕は健康によいと言ったとかで、さらにこの冬は品薄になっているとのことだ。

値段も上がっているらしいが、高千代さんは、うちは酒粕で商売する気はないので、そのままです、と言った。おれは、小さい酒蔵が生き残っていくためにも、儲けてくださいよ、と言った。でも、そうはできないのだよなあ。

消費者は、生産者の善意に惨い仕打ちをすることが、めずらしくない。有名人の言葉にふりまわされたり、見た目のイメージで商品を選ぶ。最近は、酒粕をよく見せるために、漂泊し白くして売っているところもある。みのもんたの話で酒粕を買うような人たちは、白い色にだまされて買うような気がする。

腹の底からしぼるように出た声が聞こえる。「見た目だけで、ラベルだけで選ばれるなんて、おかしいじゃないですか、悔しいです」

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高千代酒造へ

051212_takatiyo12日早朝から、故郷の新潟県南魚沼市の高千代酒造を取材のため、11日に出かける。「談」編集長の佐藤真さん、編集者の斎藤夕子さん、カメラマンの武井メグミさん。斎藤さんと武井さんは、日本酒好きのオンナ。ほんと、すごい呑む。

越後湯沢に着いたら、雪が降っている。ときどき吹雪く、かなり積もりそうな雪だ。乗り換えの上越線は遅れがでていた。

宿泊は六日町町内の温泉旅館だが、民宿のような商人宿のような越前屋。朝食付一泊で頼み、夕飯はいつもの万盛庵へ。いやははははは、飲んだ飲んだ。地元の酒、高千代、八海山にはじまり、万盛庵のセガレもトウチャンも加わって、はて、何種類の酒を飲んだか。

翌朝、小ぶりになっているが、まだ雪は降っていた。一晩で数十センチは積もったかんじ。8時半に越前屋を出て、タクシーで高千代へ。

写真は、ビデオからおとした、クリック地獄してちょうだい。高千代の酒蔵の前から社長宅を撮ったのだが、最近の屋根は、雪が積もらないで、すべり落ちるようになっている。積雪は50センチぐらいだろう。これからどんどん降って、3メートルぐらいになる。雪が降って、スキー客が来ると、酒も売れる。雪は、酒づくり欠かせない豊富な水をもたらし、そして酒を買う客を呼ぶ。

いま酒蔵は仕込みの最中で、もっとも忙しい。ふつうはなかなか入れないのだが、今回は高千代さんのご好意で、仕込み中の様子をじっくり見させてもらった。やはり、実際を見ながら説明を聞くと、よくわかるね。高千代の考え方も、よくわかったし。いい記事を書けそうだ。

帰り、きのう、ほかのメンバーは一足先に帰京、おれはまた万盛庵へ行き、クボシュンや万盛庵のオヤジと飲んでから帰宅。

って、ことで、とりあえず、そういうこと。

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2005/12/10

細木発言問題:フジテレビ「事実誤認」と謝罪 養鶏協会に

11月30日に「この細木数子の発言はジケンではないのか」を書いたが、フジテレビは「事実誤認があった」と謝罪したらしい。

 フジテレビのバラエティー番組で占師の細木数子さんが鶏卵について行った発言について日本養鶏協会など養鶏業界団体がフジテレビに抗議した問題で、フジテレビは8日、同協会に「事実誤認があった」などと謝罪し、今後の対応などについて協議した。
毎日インタラクティブより

この様子だと、フジと養鶏協会のあいだで、「事実誤認」を清算してオワリということになりそうだが、それでよいのか。

細木の発言は三菱や松下が欠陥商品を売るのと同じ、欠陥発言ではないか。しかも影響力のある人物なのだから、大欠陥もいいとこだ。

いまや「食育」が言われ、食品に関する正しい知識や情報について、ワザワザ食育基本法なるものまで制定し取り組んでいるというのに、このような発言者を許していたら、穴のあいたバケツに税金をつぎこんでいるようなものだ。風評被害の元凶となったタレントに対しては、厳しい処遇で臨むべきだ。こういう大物の発言をピシッと片づけられないようじゃ、インチキ言っても平気じゃ、子供たちにもしめしがつかないだろう。そうではないかね、「食育派」の諸君。それとも、庶民や子供を悪者にして偉そうにしても、強者には腰抜けか。それでは、テレビ局や細木とおなじ、頽廃というものだよ。もっとも「食育派」による、このブログへのトラックバックのマナーの悪さ、エロブログなみだよ。頽廃だね~。そういえば、この細木のインチキ発言は、自然食崇拝の「食育派」の言論に似ているなあ。まず、「正しさ」より「正確」な知識や情報にもとづいて発言するよう、お互い努力しなくてはね。

そうそう、いまパラパラ見ていたのだが、開高健著『新しい天体』に、あるね。「空中に発射している映像の低能さかげんにくらべると、あらためてヘェといいたくなるような、巨大で威圧的なテレビ局の建て物」だってさ。

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必見! 台所をみつめてみよう

きのう、「[書評]のメルマガ vol.241」発行。おれの連載、「食の本つまみぐい」が載っている。
http://back.shohyoumaga.net/?eid=320262
         
「台所を見つめてみよう」というタイトルで、「栄久庵憲司+GK研究所『台所道具の歴史』柴田書店(味覚選書)、1976年」の紹介だ。

「これまで紹介の本は、最初の江原恵『庖丁文化論』をのぞくと、食文化の表層つまり風俗に近い部分を概観する趣旨のものが多かった。まだ連載は続けられるようなので、食文化の表層から、骨格の部分へ入ってみたい」とね。これからが、オモシロイのだ。

まずは、ご覧下さい。

参照=当ブログ
12月1日「台所道具の歴史」
12月2日「台所道具の歴史 もくじ」

ああっ、あと正味2週間ぐらいか。うへへへへへ

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2005/12/09

赤玉ポートワイン

忘れないうちにメモしておこう。おれが比較的よく利用している3軒のスーパー、1軒はボックスストアだが、そこの赤玉ポートワインの陳列面積が増えている。一か所は、1列しかなかったのがイキナリ3列だ。いま行ってきたスーパーは、1列だったのが2列になっている。売れゆきが伸びているのだろうか、それとも、まさか、クリスマス・セール? いずれにせよ安酒なのだから、はて、気になる。

おれがガキのころは、若い健全な男女が、赤玉ポートワインでクリスマスなんてやっていたよ。ただコタツに入って赤玉ポートワインを飲むだけだけどね。その爺サン婆サンが赤玉ポートワインでクリスマス、なんてことはないだろうな。クリスマス・イブは入れ歯をはずして、赤玉ポートワインに汁かけめし、なんてね。

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『庖丁文化論』信長と料理人坪内 2

12月7日の「『庖丁文化論』信長と料理人坪内」の引用は、最後のほうを略してしまったが、こういうふうに書いて終わっている。

以下引用。

 しかし不幸にして信長は中途で亡んだ。
 あとを受けて天下の覇者となった秀吉は、典礼故実に関しては室町将軍家の流儀を踏襲した。京都に聚楽城を営んで、公家社会に同化しようとした。坪内のように庖丁故実に通じた料理人は、登用される機会がますます多くなってきたであろう。坪内があえて信長をわらったのは、そうした時代のムードに便乗しての、思い上った発言だったのではないか。
 四条流の秘伝であるという包焼についてはすでにふれたが、同じ『四条流庖丁書』のなかに次のような一条がある。

美物上下ノ事。上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物、但シ定リテ雑定事ナリ。河ノ物ヲ中二致タレドモ鯉二上ヲスル魚ナシ。乍去、鯨ハ鯉ヨリモ先二出シテモ苦シカラズ、其外ハ鯉ヲ上二置クベキナリ。鮒又ハサコ以下ノ河魚ニハ海ノ物下ヲスベカラズ……(遠藤、以下略)

 鯉は魚の最上位だが鯨は鯉より先に出しても苦しくない、鷹狩でとった鳥は最上位で焼物より他の料理はしない、また他の肴と組付にしない、白鳥も鯨も組付にしない……という今から見れば何のことやら、全くナンセンスとしか言いようのないこれらの庖丁故実が、大草左衛門尉や、進士美濃守や、同じく美作守や、坪内石斎や、大坂城の料理人長だったという西川九郎兵衛など当時の庖丁人・料理人たちにとっては、門外不出の秘儀秘伝だったのである。
 ここらあたりに、庖丁文化に伝統的に流れきたった、日本特有の観念主義のみなもとがあるのではないか、とわたしは考える。調理師という近代的名称に変ったからといって、われわれは、これらを過去のこととして軽く見過すわけにはゆかない。

引用オワリ。

江原恵さんは、「自分も一個の料理人としての立場から」、「観念的伝統主義が、日本料理業界のリーダーシップをにぎる大部分のものたちの金科玉条となっている現実を」とくに強調しているのだが。その現実が、どこからきたか、四条流や庖丁式を例に検討を加えたのち、そのまとめのように、この8章「信長と料理人坪内」を書いている。

『庖丁文化論』は、ときどき誤って理解されるが、本書がいわんとしていることは、とどのつまり日本料理の伝統というのは「庖丁文化」しかないということなのだ。味覚文化が欠落している、とはいわないが、「庖丁文化に伝統的に流れきたった、日本特有の観念主義」のもとで「味覚文化」は観念的なものになってしまった。たとえば、鯉が「美物」の上のものとなったのは、鯉がうまいからではなく、それを「上」とする庖丁文化の伝統によるのであると。そして、それが「日本料理の敗北」をもたらしたのだ。という主張である。

このあと9章「懐石と煮端(にえばな)」で、江原さんは、こう書いている。「前章までのところわたしは、庖丁文化の否定的な面ばかりを強調してきたけれども、伝統主義者たちが自讃しているすぐれた美点を、故意になおざりにしているわけではない。しかし、日本料理を他から際立たせているすぐれた美点は、同時に自身を敗北に追いやった両刃の剣でもあったのだ」

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2005/12/08

愛、歌、食

ここんとこ原稿を書くので、酒と食育の資料に埋もれているのだが、なかなかオモシロイことになっているねえ。なんか、オモシロクナイことも含め、イロイロありそうだなあ。

それはともかく、知らなかったが、食育基本法に反対する民主党の岩國哲人さんは、国会質問で 「西洋文化の原点であるイタリア人が大事にするもの。アモーレ(愛)、カンターレ(歌)、マンジャーレ(食)。この3つにはどんな国家権力も介入したことがない」。「このままいくと恋愛基本法なるものまでできてしまう」とか発言したらしい。

それへの反論になっていない反論も含めて、こちら「食育基本法の国会議論――食へのこだわりをもとう」に載っている。
http://www.nca.or.jp/shinbun/20050506/syuchou050506.html

岩國哲人さんは自分のホームページで、こんなことを書いている。「「愛と歌と食」縛るな」だってさ。国会議員のいうことにしては、シャレてるねえ。
http://www.1892.jp/html/etc/s05/050411.html

この「食」には、タバコと酒は入っているのかな?

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地球という地域で暮すことになったら

モノゴトは、いろいろな見方があるもので、カナダ・アメリカ産牛肉の輸入再開にあたっての世論調査だ、朝日新聞は「米国産牛肉輸入再開に「反対」67% 本社世論調査」と報じた。反対が67パーセントもいるぞ、ということだろう。

おれは、それより、その記事で21パーセントも賛成がいて、輸入されたら「食べたい」が23パーセントもいたことにおどろいた。ま、けっこう健全な日本人がいるね、と思った。

毎日新聞のばあいは、「回答者の54%が再開に反対し、購入については約3分の2が「買いたくない」か「あまり買いたくない」と否定的または慎重な意見だった」という表現である。この「あまり買いたくない」というような、「どちらかといえば」式の中間的な回答項目を用意し、その結果を報道側が都合のよいようにまとめて記事にするという手口は、よくあるのだが、それにしても3分の1が肯定的ということは、おれにとっては、おどろきである。心強く思った。

もちろん、おれも食べるよ。でも、これまでだってそうだが、おれが一年に食べる牛肉の量はたいしたことないし、いつも輸入牛とはかぎらない。とにかく小さな家計のやりくりでは、少しでも選択肢が多いほうがよい。

しかし、「反対」67%、あるいは否定・慎重をあわせて「約3分の2」と報ずるやり方は、あとの3分の1は「少数派」として遇し、その食べたいという希望は無視してもよいかのような報道ぶりだし、また一貫して「食べたい」という主張は報道において無視され、「100万署名」などは冷笑を持って迎えられた。

もっとも、この新聞報道は、あるいは、よくマスコミがやる手口で、流れとして輸入に向って動き出したとき、その通過儀礼として国民の意思を問うかたちをとって、政府の政策は容認するが世論はこうであると、イチオウ書いておこうというものにすぎないのかも知れない。そもそも、いつまでも輸入禁止を続けることができない現実を、マスコミの関係者なら承知していたはずだ。

このモンダイの政府対応のマズさは、まさに日本政府の能力の低さを露呈したものだった。マスコミも同様だね。日本人は「地球という地域で暮すことになった」という、近年の大きな環境変化の現実のなかで考えられ対処されなくてはいけなかったのに、そのことについてはなんの進展もなかったといってよいだろう。

だけど、現実は現実的にしか、進まない。現実的にしか進まない現実を判断して、手を打っていくことが、「リスク管理」であるはずなのに、「科学的」知見にリスクの判断をゆだねてしまった。「科学的」知見は、また今回、それが万能ではないことを露呈し隘路にはまった。まだ何度かアヤマチを繰り返すことになるか。

「地球という地域で暮すことになった」という現実は、宇宙から地球を見るほどロマンチックではない。大多数の平民にとっては、生きていくための厳しい選択が続くのだ。不安があるひとは、買わないか、安心のために高いカネを払う。これまでだってそうだったし、これからは地球規模で、そういうことなのだ。

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2005/12/07

『庖丁文化論』信長と料理人坪内

きのうの記事にある、ヤマザキさんのコメントは、記事に直接関係するコメントではないが、まったく関係ないわけではない。

とにかく、そのコメントの話にある、信長と坪内某のエピソードは、とてもオモシロイ。よく食談義に登場する。そして、『庖丁文化論』のこの部分は、著者の江原恵さんも述べているように、「これが本書におけるテーマの最も重要な部分」なのだ。多くのみなさんに知っておいてほしいので、長くなるが引用する。

ようするに本質からはずれて、はびこる栄養学の権威が、そしてはびこらせる権威主義が、じつは日本の食文化の歴史をゆがめ混乱に導いてる。それは、ここで江原さんが述べている、日本料理を衰退させた権威主義の構造とおなじなのだ。あるいは、コンニチのブンガクの衰退も、おなじことなのかもね。

以下引用。(『庖丁文化論』江原恵、講談社1974年。p52「信長と料理人坪内」より)

 庖丁文化の担い手たちの意識は、いつの時代も歴史的水準のコムマ以下であった、という考えが生まれざるを得ない根拠を示す実例をあげておく必要があろう。変革期における今日のそれは後章で取り上げるとして、草創期の顕著な一例に織田信長と料理人坪内某(一説に坪内石斎)の有名なエピソードがある。
 料理談義にはつきものの広く知られた話ではあるが、念のために紹介しておこう。永禄十一年信長が上洛して京都の治安を始めたとき、信長の軍に降服した捕虜のなかに、三好家の料理人坪内がいた。かれは牢に入れられていた。
 「この者は長年公方家の御用なども勤めて、鶴・鯉の庖丁はいうに及ばず饗膳の儀式についてもくわしいから、命を助けて庖丁人として召抱えたらどうか」  
 と執成す家来の言を入れて、それでは明日その者の料理を試食してみて、その塩梅によっては助けてつかわそうと信長は言った。翌日さっそく作らせたところ、水っぽくて食べられない、殺してしまえと信長は怒った。そこで坪内がもう一度だけと願い出て料理したところこんどは信長の気に入って召抱えられたが、坪内は後日ひとに最初の料理は三好家の家風に合った京都第一等の味、二番目のは田舎風の第三等の味であるといって信長を●(言+幾 そし)ったという挿話である。

 永禄十一年といえば、将軍義輝が松永久秀に殺された三年後に当り、久秀が三好長慶とともに立売北道の三好邸に義輝を迎えて供応したのは更にその四年前のことであった。前述した三好亭饗応の料理番として、進士美作守の配下となってこの坪内も大いに腕をふるったに違いない。
 かれの助命と採用を言上した信長の庶務係菅屋九右衛門(と菅屋に坪内の助命を依頼した信長の賄頭市原五右衛門)の言い分は、坪内は鶴鯉の庖丁の技に長じているばかりでなく、七五三・五五三の饗膳の儀式にも通じていて、殺すには惜しいではないかというのである。それに対して信長の言い分は、料理のあんばいによって召抱えようということである。そして当の坪内本人は信長の舌は第三等の田舎者の味であるというのだ。このエピソードはわれわれに、三者三様のばらばらの思惑噛み合わない歯車の虚しさのようなものを語りかけている。そしてそれが歴史を動かしている現実でもあろう。

 わたしはここで信長の考え方だけがまっとうなのだなどと、この一代の英雄にこびるつもりはない。がこの話題に関するかぎり、虚飾がなく、したがって卒直にものの本質に向き合っているのは信長の言い分だけではないのか、と言いたいのだ。庖丁文化の「場」を軸にしていえば、信長が場の外側に立って発言しているのに対して、他の二人は場の内側から発言しているのである。つまりそういう場の頂点に絶対的権威があるという概念が、かれらには先入観として潜在しているのだ。
 すこしくどいようだが、問題点をはっきりしておこう。今ここにひとつの円錐体があるとする。それを上中下に三等分に切断すれば、最上段の体積が一番少ないことになる。そのいちばん少ない層が坪内のいう一流であって、体積の一番大きい最下層が第三等なのである。自分は上段の頂点つまり絶対的権威にもっとも近いところにいるのに較べて、信長はもっとも遠い下段にあって、頂点に対して自分よりはるか低いかなたにいる、すなわち自分は第一流なのだという自我意識をひけらかしているのだ。そして、ひとは誰でもその頂点を指向しているのだという権威主義的概念が、かれには疑うべからざる既定の事実としてあるらしいのだ。

 絵や書に一流二流があるように「味」にも一流二流があるという考え方である。京風の食生活になじんでしまった三好家の味が第一等で、濃厚な、京風にあらざる信長好みの味は第三等の味である、やはり田舎者は田舎者であると言いたいのであろう。しかし「舌」に対する評価の仕方としては、かれの言は正鵠を射た批評にはなっていない。問題意識の焦点がずれているのである。もし食事行為に一等とか三等とか位付けできる芸としての個人差のようなものがあるとすれば、それはその人が美味とするものをどのように欲し、またその美味に対してどのような代価を払うかということであろう。それからまたどういう環境でどんなふうにして自分の食欲を満たしたかという点においてであろう。それは個性でもある。

 食べ方には芸があるが、味そのものには芸はない。芸術が人種を越えて感動をつたえてくるのは、かれの芸術(思想)と一体となった個性(芸)の深さにおいてであって、作品がどれだけ権威に近付いたかによってではない。芸術は主観であると同時に客観である。しかし「味」を味覚する「舌」には思想はない。したがって客観もないのである。美味・不味を判定する舌のものさしは、かれが食生活から得たところの直接の経験の集積による主観であって、たとえは甲という詩人の作品に感動した江原恵が、甲が美味とする料理もまた美味であるとするいわれはない。事実そういう場面に遭遇して美味とは感じなかったのである。

 もし坪内が信長の舌を第三等であるとした評価が許されるとするなら、それは信長の舌を通した坪内自身の料理についてであろう。昔、政治と料理とは同義語に使用されていた。すなわち料(はか)り理(おさ)めるのが料理なのである。溶鉱炉の重労働から解放されてきたばかりの工員に、連日料亭に入り浸っている役得政治家が美味とするものを出したとして、果してそれが「はかり・おさめ」た行為といえるかどうか。すくなくとも親切とはいえないだろう。酒飲みが美味とする酒盗和えは、ある子供にとっては三日前のコッペパンよりもまずいのである。
 味にはその個入だけにあてはまる主観内の一等二等はあっても、客観的に共通する一等二等はない。あるのは、そういうものがあるという観念架空の概念だけである。このことをくどくどくりかえしたのは、これが本書におけるテーマの最も重要な部分だからである。

 信長と坪内某のエピソードをとりあげて、「この勝負信長の負けである」などと知ったかぶりを振り廻して得々としている料理評論家なる文化人の食通談義をきいたことがある。しかもこの文化人はある栄養短大の助教授だか講師だかの職にあるのだ。偽物はトマトとキュウリだけで持て余しているのに、魚の他にもこういう偽物が現われたのでは、料理人たるもの、舌かみ切って死んで見せる手段しか残されていないではないか。
 鯉の切形・鶴の切形にくわしい坪内は、庖丁に関しては当世風にいうならさぞ一流の名人上手であっただろうと思われる。それに加うるに、七五三・五五三などの饗膳儀式に通暁していれば、天下統一成った後の京師(に居城を構えるとして)における信長の支配者としての格式を張るために、足利代々の将軍たちがそうしてきたように、武家故実を正しく踏まえた饗応儀礼を通じての権威づけに坪内は大いに役立つであろう、という忠義心の動機から助命をとりなしたであろう信長の家来たちの善意は、それなりに純粋ではあるのだが、そういう虚礼虚飾の必要を感じていなかったらしい信長の純粋さは、家来のそれとは全く異質の価値であったと考える。

以下略。引用オワリ。

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2005/12/06

「不安」という文化

戦後の食の不安というと「食糧が手に入らない」ということだったのだろう。おれの体験としては、そういう不安はなかったが、おれの周辺に、ごくフツウにあった不安は、死に至る病気への不安で、それが食と関係していた。

生ものを食べたり生水を飲んだりすると病気になりヘタすると赤痢や疫痢から肺炎を併発して死ぬ。これは、ペニシリンが普及するまで、ごくフツウの日常的な不安だった。おれの兄と弟は、実際それで死んでいる。だから親たちは、それにおびえ、アイスキャンデーなどには、とても神経質だったが、でも、みな生水をガブガブ飲み、アイスキャンデーを食べた。法律で、それを禁止しようという動きなどなかったと思う。

中学のとき、すでにペニシリンは普及していたので死者はでなかったと思うが、町では生水が原因で集団赤痢が発生した。町民全員が、直接検便の対象になった。

またおれの母親もそうだったが、肺病は、死ぬ確率が高く、それは医療や薬のモンダイもあったが、食べ物のモンダイが大きかった。ようするに、伝統的な「日本型」食事では、肺病になりやすく、またいったん罹ると回復困難で死に至る可能性が高かった。母親の姉は、それで死んでいる。

古きよき時代といわれる昭和30年代は、人生50年といわれ、とくに男の場合は、おれの周辺でも40歳代の死亡が多かった。おれのオヤジも、40歳代になると、占い師に見てもらい、「どうやら48までらしい」と言っていた。実際は84まで生きたが。

ようするに「不安な状況」は、絶えずあった。しかし、大騒ぎパニックになることはなく、みな「寿命」という観念のなかで、懸命に生きていた。ように思う。

あのころといまと比べると、イチバン大きな違いは、不安を煽る情報は過剰な状態になり、一方で不安を環境として生きるカクゴは不足している。というかんじかな? 人生70になろうが80になろうが、いつかは死ぬ。いくつまで生きるかは結果である。というカクゴ。昭和30年代にノスタルジーするなら、モノより、そのカクゴに、ノスタルジーしたほうがよいのではないか。

しょせん科学技術は万能ではない。もともと、それは特別なものでなく、庖丁やハサミのように使いこなすものだった。それが、その万能ではない科学技術が進んで、以前は見えなかった細部まで見えるようになって、不安に陥る、パニックする。これは科学技術のモンダイではなく、「不安」という文化のモンダイだろう。

世界全体を見れば、いくら科学技術が進歩したといっても、殺し合いや飢餓死は絶えたわけでなく、人間は、つねに0(ゼロ)以下の選択、つまりマイナスのなかで選択しているのだ。少々の科学技術の進歩や経済成長に有頂天になり、0以上の安心や安全が存在するかのような錯覚に陥った結果の「不安」こそモンダイだ。

不合理不条理が存在するから、科学技術を庖丁やハサミのように使うのだ。それ以上の期待は、科学技術に必要ない。日本人のDNAからすると、伝統食が正しい食生活、なんていう「科学的」な栄養学など、いらんよ。

もっと、しっかり日常的な死をみつめ、力強くめしをくい、生きなくては、な。

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2005/12/05

歌舞伎町でおろろんばい

きのうの「池林房27周年 元気! 大パーティー」は、「歌舞伎町クラブハイツ」という、むかし風にいうと「グランドキャバレー」ということになる、その数少ない生き残りだ。グランドキャバレーというと、風林会館のとなりの、名前忘れた、おかまちゃんがエレベーターボーイをやっているところへ、よく行った。最後に行ったのは、1990年ごろかなあ。もちろん、一回として自腹を切ったことはないよ。あのおかまちゃん、けっこうなトシだったけど、どうしているんだろう。

でも、「歌舞伎町クラブハイツ」は初めて入る。ここは、コマ劇場の正面左隣にある東宝会館の8階。このビルの3階だったかな?に、むかし、そうねえ、70年代ね、デカイので有名なディスコがあって、ここにもよく行ったね。これは、オンナの子が一緒で、いつも自腹。コマの向かい側の角のビルには、なんていったかな? 有名なディスコがあって、そっちはチョイとマニアックというか、かっこつけた連中が多かったので、おれはダサイ若い健全な勤労者だらけの東宝のほうが好きだった。そんな話しは、どうでもいいや、しかしまあ、やあ、まさにグランドキャバレーだ、広いフロアー。

その広いフロアーが貸切、ひとで一杯、もうすごかったね。埋めつくしているのは、なんだかアレコレ有名人ばかり。内田春菊さんなんか、3人のガキを引き連れて華々しく。一方、巻末の編集日記に、ときどき池林房のことを書いていた、某有名引退編集長ですらカゲ薄く孤独をただよわせながら酒を飲んでる有様で。活字系は地味だねえ。

んな、なかで、やはり、山崎ハコさんだよなあ。ひさしぶり、って、かれこれ池林房ができたころに生を聴いて以来の生だかねえ。しかし、かわってないねえ。「わたしは、こういう祝いの席にはふさわしくないんだけど、ボソボソボソ……」というかんじで言葉すくなにボソボソボソで、歌うと、その声そのギター、ややややや圧倒的、ほんと、このひとは見かけからは想像つかないって。もう、ほかの連中は、完全にかすんだね。山崎ハコさんがいなかったら、ばかみたい、というかんじだった。どうもちかごろの、ソングライターという連中は、歌より「愛」だの「優しさ」だのと説教くさいことばかり言いおってな、カンチガイだよ。そこへいくと、山崎ハコさんは、はっきりギターと歌だ。おろろんばい。そういえば渡辺勝さんもな。最近なってるハウスにいってないなあ。

ああ、それから、印象的だったのは、幻燈社のカワカミさん。かわってないねえ。その姿を、やはり20数年ぶりに拝んだぞ。幻燈社の、当時はまだ助監督だった、東陽一さんには、CM制作でお世話になった。前田さんにもな。懐かしいねえ。みんな池林坊の客だったんだなあ。そういや、無名から有名になるあいだの、烏丸せつこさんも池林房に来ていたな。

だけど、おれなんか、いつもちゃんとカネを払っていたが、ビンボウ映画関係者やビンボウ演劇関係者は、どうだったの。きのうわかったことだが、池林房は、出来て一年目ぐらいは、首がまわらなくて、某さんに借金申し込んで断られたそうじゃないか。あの広くてガラガラだった店、たまにいる客は芸術家を気どったビンボウ人たちじゃ、まっとうにカネ払って飲んでいたのは、会社の接待費をバンバン遣って貢いでいたおれたちじゃないのか。でも、いつごろからか、すごく混むようになった。ま、トクサンは、よくやった。ということにしておこう。

「いいちこ」を知ったのは、池林房でだった。鳥のからあげとかピザとかが、ツマミとして定番化する時代だね。

あははは、まあ、どうでもいいや、イロイロ思い出したってこと。とにかく飲みすぎて、まだ酔ってら。酔ってる勢いで、今日締め切りの「書評のメルマガ」の原稿を書いて送った。今月中旬発行予定だからね、よろしく~。ああ、おろろんばい、おろろんばい。

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2005/12/04

燗酒とにこごりモンダイ

いやあ、おもしろい! って、ひとりでおもしろがっていてもしようがないから書こう。
↓きのう「王子の大衆酒場、山田屋」の最後に、にこごりの話をしている。あたたかいめしに、にこごりをのせて混ぜて食べるとうまい話。
そこに、pfaelzerweinさんからコメントとトラックバックをいただいている。
トラックバックの記事「厚切り咬筋と薄切り肝臓」は、なんと燗ビールとにこごりを食べる話なのだ。それも熱いジャガイモとにこごりを一緒に食べる。つまりあたたかいコメのめしとにこごりを一緒にたべるようなものだな。そして燗ビール!

それで、おれは、pfaelzerweinさんのその記事に、このようにコメントを書いた。

燗酒とにこごりは、日本だけの美味かと思っていたので、おどろきました。 寒くなると、煮物や鍋の残りが、ナベの底でにこごり状態になったのを食べるのが楽しみです。暖房完備の台所では、そうはいかないでしょうが。

すると、pfaelzerweinさんの返事のコメントが 「「付け合わせ」と「偽って」の礼儀習慣」というタイトルで、こうなのだ。

私も驚きでした。米の飯と焼きジャガイモがここでは全く対応しています。上のレヴァーの料理も実はそうです。西欧料理では、パエリアやリゾットのなどの一部を覗けば米がメインになることは少ないと思うのですが、ジャガイモが「付け合わせ」と偽って殆んど同じような意味を持っていることが多いです。ヌードルもしばしば其れに近いです。

何時も話題のご飯の上におかずを乗せない日本の礼儀習慣も、この「偽って」の礼儀習慣に似ているような気がしました。このとき必ずジャガイモやヌードルはどっさりと別の皿に出てきます。おかわりも出来る!

いやあ、おもしろいなあ。おなじようでちがい、ちがうようでおなじ、ってことたくさんあるよなあ。それに、この「「偽って」の礼儀習慣」てのも、あるよなあ。人間、おなじようなこと考えるということなのか、おなじようなことを考え風土によってあらわれかたがちがう、ということなのだろうか。とにかく、こういう話しは、刺激的でおもしろいね。酔眼が、パッとさめるかんじ。これ、ブログのおかげか。さっ、酒を飲まなくては。

とにかく、pfaelzerweinさんの「厚切り咬筋と薄切り肝臓」をコメントまでごらんあれ。
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/3d744b55fedffc6b8322086b786f05de

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2005/12/03

王子の大衆酒場、山田屋

↓先の記事に書いたように、きのう王子の山田屋へ行った。ここは有名店で、たくさんの方が書いているから、ここに詳しく書く必要はないと思うのだが、チョイと気になることがあったので、忘れないためにメモしておく。

一緒のスズキさんは、よく食べるひとで、ツマミをいろいろとった。クジラ刺身、煮込み豆腐、煮物、カキフライ、ハムカツ、カレイ煮付け、にこごり、半熟たまご、あと数品、思い出せない。とにかく、ここの料理は、調理や盛り付けに、いわゆる「関西風」の洗練をかんじさせるのだ。煮物、にこごりなどは、ハッキリ「関西風」をかんじた。ハムカツにしても、ロースハムをかなり薄く切って揚げてあるが、チョイとちがう初めての味であり盛り付けだった。東京の古い安酒場では、めずらしい。

しかし、関西でハムカツを食べた記憶がないから、関西のハムカツがどんなものか知らない。関西にハムカツはあるのか? 関西のハムカツ、気になったので、「はくぶんのぶんせき室」の「ハムカツを集めてみました」をみたが、とくに関西風というのは見当たらない。

カキフライ、上手で、うまかったなあ~。にこごりは、酒のつまみによいね~。にこごりは、あったかいめしにかきまぜながら食べてもうまいんだよなあ。ってこと。

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王子のたぬき

ouji_tanuki(画像はクッリクすると大きくなるよ)

おれは酒は好きで飲むけど、それほど酒に詳しいわけじゃない、おれより詳しいひとはたくさんいる。だけど、なぜか、このブログでも飲んだ話をしているせいか、酒が好きで酒にくわしいと思われてしまことがあるらしい。ま、それで、酒がらみ企画で相談にのって、という話がときどきある。きのうは、そういうわけで、北区の王子を飲み歩きながら、アレコレ酒について、酔っぱらいながら話した。うふふふ、これは、いいシゴトの話になりそう。

10月20日「王子、柳小路とさくら新道」にも書いたが、王子は好きな町のひとつだ。好きだけど、なぜ好きなのかよくわからない、なにしろしょもない町なのだ。だから行くたびに、ナゼおれはこの町が好きなのか考える。

きのうは、相手のスズキさんが山田屋という有名な下町大衆酒場にも行ってみたいというので、まずそこから始めた。そして、お決まりの柳小路の福助、さくら新道のリーベ。もう一軒いや二軒か、さくら新道で寄りたかったが、そんなに飲めねえよ、飲み疲れて帰って来てしまった。トシだなあ。

ようするに、王子は労働者の町なのだ。しがないサラリーマン、しょもない零細業者の町で、ここにはブンガク的芸術的虚飾はないし、最近すこし変わってきたが、マーケティング的虚飾も目立たないほうだ。しょもない人間のしょもない町ってところがいいんだなあ。あと気がついたのだが、あまり密集感がないのがいいのだなあ、坂があって空が広く見えるせいだろうか? 言い方をかえると、バラバラっとした締まりのなさが漂う、緊張感ナシ、おおらかだね。

でも、地下鉄南北線が通ってから、変わりつつある。が、イキナリ巨大な再開発ビルができるわけじゃない。古い建物が同じ敷地のまま建て替わり、古いビルが改装して新しくなる、このていどの変化はトウゼンだろう。

スズキさんは若いから、福助やリーベのように、昭和20年代からやっている建物も古いが人間も古いババアとオシャベリしながら飲むのが、いたく気に入ったようだ。かれに言われて気がついたが、そういう機会というのは、あまりないらしい。なるほど。福助のババアは背中がまがったが80歳で記憶はしっかりしているし、リーベのババアママは80過ぎで背筋はしゃんとして、しゃきしゃきシャベル。彼女たちの、戦前戦中戦後これまでの生涯の話を直接きくのは、本で読むのとはちがうものがある。

おっと、前置きがながくなった。それで、きのうは王子へ行ったついでに、まだあるかどうか気になっていた食堂があるんで、早めに行って確かめた。写真は、97年ごろの撮影で、小さな看板に「甘味喫茶 たぬき」とある。ごらんのとおり、相当ふるい建物。外からは、入口のところに洗濯物がぶら下がったり、もう営業しているかどうかわからん状態だったが、ちゃんとめしがくえたのだ。

やはり、この姿は、なくなっていた。でも、建て替えて3階建ての個人の家であり、1階は「狸」という居酒屋である。これが「たぬき」の名残りだろう。王子駅北口から川のある山側へ出て、ラブホの前の道を行き最初の交差点を左、坂を上りすぐ右側になる。駅から5分かからないところ。このあたりは、大きなビルになることなく、このように少しずつ変化している。しかし、飲み屋が多くなった。

「たぬき」という名前は、「王子のキツネ」という有名なハナシをひねったのかな? そうそう最初に入った山田屋には、おれの故郷の小さな酒蔵、高千代の辛口がおいてあった。都内で、この酒がある酒場に入ったのは初めてだ。うれしかったね。

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2005/12/02

台所道具の歴史 もくじ

きのう書いた、『台所道具の歴史』のもくじ

まえがき

序 台所のドラマ

台所道具の通念
さまざまな食事活動
台所空間
台所の変貌
台所の水準をきめるもの

一 調理の起源とその場所

土器の出現―万能の煮沸具
調理器の原型―ツボ、カメ、ハチ
かまどの伝来と普及
須恵器の出現、土器との共存
竪臼と竪杵―穀物の調理具

二 二つの源流―農民と貴族

唐風模倣
むさ苦しさの追放―貴族
貴族の病弱と食事観
ワンルーム住居と五徳―農民の食生活
名主、長者の食生活
古代の台所道具―庖丁・俎・箸・匙

三 火と水

火と水
私的な火、公共の火
囲炉裏と竈
囲炉裏の鈎(かぎ)と鉄輪(かなわ)
川、井戸、筧、水道
水運び、ハゲと手桶
水の始末、ふね、流し、下水
木の変容―くりもの、まげもの、おけ
竹と漆

四 日本食の成立と台所の整備

武士の進出
庖丁師

臼の系譜(1) 横臼、擂鉢、土磨臼(どするす)
台所の成立
茶人のデザイン
環境問題―京の発展と松茸

五 家庭の台所と都市

「公共施設」―市場と水道
物売り
飲食店の繁栄、外食と奢(おご)り
臼の系譜(2) 石臼
樽買その他
割箸

六 さまざまな台所

武家の台所
料理屋の台所
農家の台所
商家の台所
箱膳―食卓のプライバシー
仕舞屋(しもたや)、都市細民の台所
台所道具づくし

七 台所の画一化

洋式の形成に向って
鍋から釜へ―米飯主食の成立
米飯の周辺
「奥様」の急増
料理学校、二枚のふきん、割烹着
計量カップ
立働式台所の普及
「ひいてくるもの」水道、電気、ガス
台所の理想像
釜へのこだわり

八 台所炎上、そして再生

新時代のプレリュード
台所炎上
ダイニング・キッチンと家庭電化

あとがき

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2005/12/01

台所道具の歴史

「書評のメルマガ」に連載の「食の本つまみぐい」は、こんど12月中旬ごろ発行の号の掲載になる。これから原稿を書くのだが、つぎは、栄久庵憲司+GK研究所『台所道具の歴史』柴田書店 味覚選書、1976年。

料理は食べればなくなるので、イチバン近い物的証拠あるいは料理や味覚の手がかりというと、台所と台所道具なのだ。料理は、その条件にしばられる。拙著「汁かけめし快食學」にも書いたが、たとえばフライパンの普及がないのに、フライパンでルーをつくる「西洋料理式」のカレーライスが普及するはずはない。ま、とにかく、料理や味覚を語るなら、台所道具の歴史ぐらいは知っておいたほうがよいね。

とくに「食育」を掲げエラソウにしている人たちは、細木数子さんのように、誤った情報でものをいわないように、ちゃんとベンキョウしましょうね。かなりイイカゲンなことを言っているひとが少なくないよ。食に関するイイカゲンな誤った情報を流して「食育」じゃあ、そりゃおかしいよ。

ということで、あとは、「書評のメルマガ」を読んでもらうとして、著者の話に、まだ十分な検討がされてない注目すべきオモシロイことがあったのでメモしておく。

著者は、「四 日本食の成立と台所の整備」で、このように述べる。「つまり鎌倉時代の食生活には三つの潮流があったわけである。しかし、武家の肉食は公家にも影響を与え、精進料理は寺院外に浸透する。そしてこの三者の融合の中に日本食が成立する。」

三つの潮流というのは、「不労階級」である公家の古い有識故実の伝統にしばられた食事、田畑を耕し狩猟をし戦をする肉体労働者である武家の食事、新しく渡来の寺院とくに禅寺の食事。そして公家と武家に共通しているのが酒宴で、その酒宴から発達したのが庖丁。「酒宴の魅力は大きかった。魅力が大きい食事の仕方は、道具を進化させる。宴席が育てた台所道具の代表が庖丁である。」と。これは、オモシロイ見方だ。

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