きのうの記事にある、ヤマザキさんのコメントは、記事に直接関係するコメントではないが、まったく関係ないわけではない。
とにかく、そのコメントの話にある、信長と坪内某のエピソードは、とてもオモシロイ。よく食談義に登場する。そして、『庖丁文化論』のこの部分は、著者の江原恵さんも述べているように、「これが本書におけるテーマの最も重要な部分」なのだ。多くのみなさんに知っておいてほしいので、長くなるが引用する。
ようするに本質からはずれて、はびこる栄養学の権威が、そしてはびこらせる権威主義が、じつは日本の食文化の歴史をゆがめ混乱に導いてる。それは、ここで江原さんが述べている、日本料理を衰退させた権威主義の構造とおなじなのだ。あるいは、コンニチのブンガクの衰退も、おなじことなのかもね。
以下引用。(『庖丁文化論』江原恵、講談社1974年。p52「信長と料理人坪内」より)
庖丁文化の担い手たちの意識は、いつの時代も歴史的水準のコムマ以下であった、という考えが生まれざるを得ない根拠を示す実例をあげておく必要があろう。変革期における今日のそれは後章で取り上げるとして、草創期の顕著な一例に織田信長と料理人坪内某(一説に坪内石斎)の有名なエピソードがある。
料理談義にはつきものの広く知られた話ではあるが、念のために紹介しておこう。永禄十一年信長が上洛して京都の治安を始めたとき、信長の軍に降服した捕虜のなかに、三好家の料理人坪内がいた。かれは牢に入れられていた。
「この者は長年公方家の御用なども勤めて、鶴・鯉の庖丁はいうに及ばず饗膳の儀式についてもくわしいから、命を助けて庖丁人として召抱えたらどうか」
と執成す家来の言を入れて、それでは明日その者の料理を試食してみて、その塩梅によっては助けてつかわそうと信長は言った。翌日さっそく作らせたところ、水っぽくて食べられない、殺してしまえと信長は怒った。そこで坪内がもう一度だけと願い出て料理したところこんどは信長の気に入って召抱えられたが、坪内は後日ひとに最初の料理は三好家の家風に合った京都第一等の味、二番目のは田舎風の第三等の味であるといって信長を●(言+幾 そし)ったという挿話である。
永禄十一年といえば、将軍義輝が松永久秀に殺された三年後に当り、久秀が三好長慶とともに立売北道の三好邸に義輝を迎えて供応したのは更にその四年前のことであった。前述した三好亭饗応の料理番として、進士美作守の配下となってこの坪内も大いに腕をふるったに違いない。
かれの助命と採用を言上した信長の庶務係菅屋九右衛門(と菅屋に坪内の助命を依頼した信長の賄頭市原五右衛門)の言い分は、坪内は鶴鯉の庖丁の技に長じているばかりでなく、七五三・五五三の饗膳の儀式にも通じていて、殺すには惜しいではないかというのである。それに対して信長の言い分は、料理のあんばいによって召抱えようということである。そして当の坪内本人は信長の舌は第三等の田舎者の味であるというのだ。このエピソードはわれわれに、三者三様のばらばらの思惑噛み合わない歯車の虚しさのようなものを語りかけている。そしてそれが歴史を動かしている現実でもあろう。
わたしはここで信長の考え方だけがまっとうなのだなどと、この一代の英雄にこびるつもりはない。がこの話題に関するかぎり、虚飾がなく、したがって卒直にものの本質に向き合っているのは信長の言い分だけではないのか、と言いたいのだ。庖丁文化の「場」を軸にしていえば、信長が場の外側に立って発言しているのに対して、他の二人は場の内側から発言しているのである。つまりそういう場の頂点に絶対的権威があるという概念が、かれらには先入観として潜在しているのだ。
すこしくどいようだが、問題点をはっきりしておこう。今ここにひとつの円錐体があるとする。それを上中下に三等分に切断すれば、最上段の体積が一番少ないことになる。そのいちばん少ない層が坪内のいう一流であって、体積の一番大きい最下層が第三等なのである。自分は上段の頂点つまり絶対的権威にもっとも近いところにいるのに較べて、信長はもっとも遠い下段にあって、頂点に対して自分よりはるか低いかなたにいる、すなわち自分は第一流なのだという自我意識をひけらかしているのだ。そして、ひとは誰でもその頂点を指向しているのだという権威主義的概念が、かれには疑うべからざる既定の事実としてあるらしいのだ。
絵や書に一流二流があるように「味」にも一流二流があるという考え方である。京風の食生活になじんでしまった三好家の味が第一等で、濃厚な、京風にあらざる信長好みの味は第三等の味である、やはり田舎者は田舎者であると言いたいのであろう。しかし「舌」に対する評価の仕方としては、かれの言は正鵠を射た批評にはなっていない。問題意識の焦点がずれているのである。もし食事行為に一等とか三等とか位付けできる芸としての個人差のようなものがあるとすれば、それはその人が美味とするものをどのように欲し、またその美味に対してどのような代価を払うかということであろう。それからまたどういう環境でどんなふうにして自分の食欲を満たしたかという点においてであろう。それは個性でもある。
食べ方には芸があるが、味そのものには芸はない。芸術が人種を越えて感動をつたえてくるのは、かれの芸術(思想)と一体となった個性(芸)の深さにおいてであって、作品がどれだけ権威に近付いたかによってではない。芸術は主観であると同時に客観である。しかし「味」を味覚する「舌」には思想はない。したがって客観もないのである。美味・不味を判定する舌のものさしは、かれが食生活から得たところの直接の経験の集積による主観であって、たとえは甲という詩人の作品に感動した江原恵が、甲が美味とする料理もまた美味であるとするいわれはない。事実そういう場面に遭遇して美味とは感じなかったのである。
もし坪内が信長の舌を第三等であるとした評価が許されるとするなら、それは信長の舌を通した坪内自身の料理についてであろう。昔、政治と料理とは同義語に使用されていた。すなわち料(はか)り理(おさ)めるのが料理なのである。溶鉱炉の重労働から解放されてきたばかりの工員に、連日料亭に入り浸っている役得政治家が美味とするものを出したとして、果してそれが「はかり・おさめ」た行為といえるかどうか。すくなくとも親切とはいえないだろう。酒飲みが美味とする酒盗和えは、ある子供にとっては三日前のコッペパンよりもまずいのである。
味にはその個入だけにあてはまる主観内の一等二等はあっても、客観的に共通する一等二等はない。あるのは、そういうものがあるという観念架空の概念だけである。このことをくどくどくりかえしたのは、これが本書におけるテーマの最も重要な部分だからである。
信長と坪内某のエピソードをとりあげて、「この勝負信長の負けである」などと知ったかぶりを振り廻して得々としている料理評論家なる文化人の食通談義をきいたことがある。しかもこの文化人はある栄養短大の助教授だか講師だかの職にあるのだ。偽物はトマトとキュウリだけで持て余しているのに、魚の他にもこういう偽物が現われたのでは、料理人たるもの、舌かみ切って死んで見せる手段しか残されていないではないか。
鯉の切形・鶴の切形にくわしい坪内は、庖丁に関しては当世風にいうならさぞ一流の名人上手であっただろうと思われる。それに加うるに、七五三・五五三などの饗膳儀式に通暁していれば、天下統一成った後の京師(に居城を構えるとして)における信長の支配者としての格式を張るために、足利代々の将軍たちがそうしてきたように、武家故実を正しく踏まえた饗応儀礼を通じての権威づけに坪内は大いに役立つであろう、という忠義心の動機から助命をとりなしたであろう信長の家来たちの善意は、それなりに純粋ではあるのだが、そういう虚礼虚飾の必要を感じていなかったらしい信長の純粋さは、家来のそれとは全く異質の価値であったと考える。
以下略。引用オワリ。