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2006/01/07

「改める」のか「よく改める」のか

けっきょく、浅草へは、行かなかった。あれこれソレコレ、用があって大宮へ行き、ついでに「いづみや」に寄ろうと思っていたのに、それもできず。

おれは、前にも、それらしきことをチョイと書いたが、学校給食は改めたほうがよいという考えを持っている。それは、なるべく無くす方向ということになると思うが、しかし直線的に無くすのがよいかどうかのモンダイではなく、よりよい食生活のスタンダードを構想するなかで、無くすかどうかを決めるべきだろうと思っている。つまり、それを構想すれば、おのずと無用の方向が出てくるという考えだ。

しかし、近頃の「給食廃止論」は、まず最初に「廃止」ありきなのだ。それが制度の改革であるという前提だ。それは、ようするに「民」から税金をとりながら「民」にかけるカネは削りたいということにすぎない。そこには、なんの想像力も創造力も、構想もない。じつに稚拙な政策であり、ようするに、イロイロなリクツをつけての丸投げなのだ。だから、なんでもいい廃止のためのリクツを並べ立てる。日本の政治家や役人や御用知識人、お得意の、ご都合主義だ。市民に自己責任を押し付けるだけ。コレ、「小さな政府」を主張する小泉改革の特徴というか、いま改革をいうものたちの特徴だ。

切り捨てることなど、誰にでもできる。モンダイは、食生活を、どうよくするかの構想を持って、給食をやめるかどうかなのだ。「大きな政府」だって「小さな政府」だって、税金を払っているのは市民なのだから、市民生活がよりよくなるようにカネがつかわれるよう考えるのがカンジンだろう。

ま、ついでに、どうせ流れは決まっているのだけど、「憲法改正」モンダイについても同じことがいえる。おれは学校給食を改めるように、憲法も改めたほうがよいと思っている。でも、ちかごろの「憲法改正」の主張は、あまりにも稚拙で、とてもこの連中と「改正」を主張したいとは思わない。いまの憲法を徹底するほうが、まだマシだ。

国民投票法だっけ? あれは、このすぐの通常国会じゃなかったかな。そして、そのあと数年後には「憲法改正」、これは既定の路線だろう。そこに、どんな未来が構想されているのだろうか。いまのところ戦争ヤル気しか見えない。あるいは、アメリカに従い威をかり、中国と韓国・朝鮮に威張れる「強い」日本か。何を妄想しようが勝手にどうぞだが、しょせん「憲法改正」は、アメリカの政策や制度と整合性をとるだけで終わるのさ。そして日本の首相は、アメリカの知事以下になるのだ。いまでも似たようなものだが、もっとその統治が「有機的結合」状態になるってことかな。

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