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2006/01/05

悩める膳と盆とランチョンマット

前から悩んでいることがある。考えても、わからない。このことについて、うまく書く方法がみつからない。その原因は、日本料理のモンダイであろうが、その深部は日本語と日本文学のモンダイのような気もする。

とにかく悩みだけを書いておこう。

以前、ザ大衆食のサイトで「あなたも評論家」ということで、「ニッポンのめし考 写真を見て」を掲載した。そして、二枚の写真について、はくぶんさんとすーさんからいただいた、ご意見というかコメントを紹介し、そのままになっている。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/hon/meshi_kou1.htm

この二枚の写真で、おれがイチバン気になっていたのは、写真左、小学校の給食には、ランチョンマットがわりと思われる紙の上に食事がセットされ、一方、写真右、ホテル宮又の朝食は、お盆のうえに食事がセットされていることなのだ。

モンダイは、それがナゼ気になるのか、うまく表現できないことなのだが……。これは、ゼッタイ、日本の食事文化に関わるオモシロイことなのだということまでは、ひらめいている。

同じような例を、あげよう。

一つは、ザ大衆食の「リンクの花園」からリンクしている、アメリカ留学中の澤田さんのサイト「たべ~素人による料理入門」だ。

この「お品書き」のページを見てみよう。
http://www.geocities.co.jp/Foodpia/2192/oshinagaki.htm
その写真だが、「どんぶり物」と「和定食」だけは、お盆にセットして撮影している。おそらく、食べるときも、お盆にのせた状態で食べているのだろう。これは、日本を離れることによって、より日本の伝統が意識された、ということになるのだろうか。そうとも考えられる。わからない。

それでは、もう一例。ときどき拝見している、みそがいさんという方がやっとられるのかな?「みそがいの防戦一方」というブログには、「今日の晩飯」が載っていて、とても教えられることが多いのだが、その写真では、どんな食事であろうとランチョンマットにセットされている。ついでにいえば、何枚ランチョンマットをもっているのか数えたことはないが、ランチョンマットをよく取り替えて撮影している。楽しい食事だ。
http://misogai.way-nifty.com/

おもしろいんだなあ。

なんだ、そりゃ、お盆があるかないかだけの違いじゃないか、と、見てしまうと、日本文化の話にはならないでおわってしまうのだが。お盆があるかないかだけのことじゃないと思うね。

というのは、ここに「膳」という言葉を置いてみると、オモシロイと思う。

「膳」という言葉をおくと、ランチョンマットにセットされた食事も、お盆にセットされた食事も、おなじ「膳」なのであると、説明がつく。盆は道具で、膳も盆と同じ意味で使われることもあるが、膳は様式を指す言葉でもあるからだ。

ザ大衆食「「定食定義研究」の研究」にも書いたように、「膳」や「御膳」は、たぶん近代になってから普及した意味アイマイな「定食」という言葉にとってかわられたことで、ますますその様式としての意味が失われていったのかも知れない。

ランチョンマットは、モノとしては伝来のものである、と考えてよいだろう。そして、失われた膳の意味を代行しているのかも知れない。積極的な言い方をすれば、膳の伝統は、近代のランチョンマットの上の食事に生きている。ちょいと、こじつけだろうか。いやいや深層のところでは、そうかも知れない。しかし、ちゃぶ台が普及する段階で、膳の様式は崩れているとも言えるからなあ。

ま、悩んでいることなので、うまくは書けない。わが家は、テーブルの上にランチョンマットでセットしているので、食事のたびに、このことをチト考えるはめになり、そして飲んでいるうちに忘れてしまう。

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