いなかっこいい
「いなかっこいい」というのは、「田舎」と「かっこいい」をあわせた牧野伊三夫さん作の造語。今回の古墳貝塚をめぐる最中のクルマのなかで聴いていたロックだと思うが、そのよさが、なんとなく田舎くさいところがよいんだよね、ということから話がはずんで、牧野さんが発したのが「イナカッコイイんだよね」という言葉だった。それをある人は、大雑把のなかの繊細とも言った。
「洗練」「かっこいい」というと、イコール「都会風」が常識のようになっているが、雑のままの洗練、田舎くさいままの洗練があるのだ。それは、貝塚や古墳から発掘された、土器や装飾品を見てもそうだが、じつに見事な洗練や美感覚がみられ、しかし、いわゆる都会風とはマッタクちがう。ま、トウゼンといえばトウゼンで、貝塚や古墳のころには都会などはなかったのだ。ゼンブ田舎暮らしだったのだ。
紀元前の縄文期と紀元後の貝塚の時代とは、4千年から5千年ぐらいの間がある。最後に行った千葉市の加曾利貝塚は、紀元前4000年ごろの貝塚が、そのまま地表に露出していて、そこが公園と博物館になっている。歩く道路わきは貝のかけらだらけ。つまり6000年前ぐらいに人びとが生活していた地表を歩く。ってことだから、今回は、縄文中期紀元前4000年ごろ、紀元後数百年の古墳時代、そして紀元後2千年の現代を一緒に見てきたわけだ。おれの興味としては、トウゼン食生活で、出土品の多くは、それに関係している。
すると感じるのが、都会風とか都会的センスなんてのは、ごく新しい幻想にすぎないのだなあ、ということだ。とくに日本の場合は、文字や文学の歴史は新しく、しかも生活からの必要性ではなく、統一国家の支配の必要性から始まっている。つまり支配の中央である都会、その貴族から始まっている。それがまた貴族的な「都会風」を流行らせ、庶民的な田舎風を見下す風潮をつくったと思うが、そして洗練に対する誤解も広がった。
この都会風は、見た目のよさであり、内容がない希薄である、観念的である。貴族的で、生活くさくてはいけない。都会的な新しさだけをヨシとしてきた。その結果、鉄筋の足りない、だけど見た目はよいマンションを洗練させたりしたが、文学は鉄筋が入っていなくてもモンダイにならない。上辺の言葉づかい、文章がよいかどうか(都会的かどうか)の感覚的なモンダイで、是非が判断される。日本人独特の観念的な味覚の発達は、このことに関係ありそうだと思った。
ま、とにかく、「いなかっこいい」を、とらえなおしてみたいと思った。大衆食堂も「いなかっこいい」のだ。いやあ、しかし、木更津の大衆食堂とみは、ほんとイナカッコイイよ。大衆食堂とみのオバサン、味はなのオバサン、富津岬荘のオバサン、千葉の女性もイナカッコイイ。
これからは、「いなかっこいい」を評価の基準としよう。
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