« 奇怪「学校給食に弁当の日を設けることについて」 | トップページ | ほんと、「癒し」はアブナイよ »

2006/01/09

カゴにのらない、カゴもかつがない

きのうはブリのあらが大量に安かったので、ブリ大根のつもりだったのが、途中でブリ鍋に方向がかわり、とにかく、今朝まで残るほどあった。そこで今朝は9時ごろから、これを温めツマミとし、酒のチビチビ飲み、うつらうつら低酔しながら思考する。

きのうの栗原議員は70歳すぎらしい。おれより年寄りだから許されるというものではないが。ようするに、世の中は、かごにのる人、かつぐ人、そのまたわらじをつくる人というオハナシがあるらしく、たしか、松下幸之助さんのオハナシにも、そういう話があった。そういうふうに世の中や人を決めてかかっていた時代があったし、いまでも、そういう考えが通用する。この栗原議員のばあいが、そうだ。「スーザン・ジョージ女史のお話」が、こんなふうに利用されてしまうというのが、笑えるね。

ラグビーは好きなスポーツだ。サッカーは見るだけ、ラグビーは、お遊びていどだったが草試合をするていどには、ちょとやった。いまでも、野球のキャッチボールよりは、ラグビーボールのパスのほうがうまくやれるだろう。最初はパスの練習から入って、一応すべてのポジションを練習し、連携やサインのプレイを覚えてとかして。それほど詳しい知識はないが。

ラグビーやサッカーは、球を中心に攻守の状況がドンドンかわる。自分のポジションは決まっていても、時々の役回りは変わる。ま、たとえば、自分はフォワードだから、バックスのシゴトはしなくてもよいというわけにはいかない。誰でも、球を持ったら、走る。走りながら、ゲームの組み立てを考え、そのまま走り続けるか、パスするなり、ラックやモールに持ち込む。ほかの連中も、この球をもっているやつは、いったいどうするつもりなのか考えながら、といっても瞬間的な判断だけど、動く。

もちろんチームとしての、やりようというのはあるし、ゲームを組み立てる主役はいるのだけど、とくに草試合などは、テキトウにあいているところに参加させてもらっていることが多いから、そんなことはよくわからない。球を持ったら、声をかけ、自分でゲームを組み立てちゃう。それがオモシロイのだなあ。ほかのやつが球を持った場合でも、そいつがパスしてきそうなところへ、うまく移動できて、ピッタリのタイミングでパスを受けたときの快感なども、なかなかよい。

とにかく、誰か特定のひとがゲームを組み立て、それに従って動いていればよいということではない。ゲームを組み立てる主役はいるのだけど、つねに自分の頭の中でゲームを組み立てていないと、球が動くたびに複雑かつスピーディーに状況が変わるのにあわせてプレイできない。リクツとしては、そんなかんじでプレイをしていた。カゴをかつぐひと、のるひと、といった関係では、うまくやれないし、おもしろくならない。

複雑な社会においては、そういうことじゃないだろうか。原稿を締め切りまでに書くのも、約束ごとだからというのではなく、あるいは原稿を頼む人と書く人ということではなくて、一緒にゲームをつくる関係で、うまいタイミングでスパッとパスを通す感覚でやりたいものだなあ。でも、そのためには、主体の力量ってのが必要だし。力量は不足でも、原稿にむかってからではなく、いつも原稿を書いている感覚、いつも球が来なくてもゲームの組み立てを考えている感覚があれば、ちったあ違うような気もするが……。酒飲みながら、

って、ああ、心地よい酔いで何を書いているのやら。ま、ようするに、この話しは、誰が料理をするか、どう食べるか、この複雑化するめんどうな社会で食生活をどう構想するかということに関係し、それがいま書こうとしている原稿のテーマにも関係するもんでね。

「家事の分担」という意識を、社会でも家庭でも、どう捨てるかだな。それは、主体を中心とした生活を、どうつくるかということでもあるだろうな。

うちは、あまり分担意識がないと思うのだが、いいことばかりとは限らない。いま野菜が高いものだから、それぞれが安いのを見つけるとすぐ買ってしまうから、冷蔵庫のなかに入りきらない野菜になって、これを食べきらなくてはならない、めんどうなことになっている。ま、単なる貧乏性なのかも知れないが。てなことを考えたりした、朝酒でしたとさ。

| |

« 奇怪「学校給食に弁当の日を設けることについて」 | トップページ | ほんと、「癒し」はアブナイよ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: カゴにのらない、カゴもかつがない:

« 奇怪「学校給食に弁当の日を設けることについて」 | トップページ | ほんと、「癒し」はアブナイよ »