生活はどこに? 生活と下町
1月20日に「家事労働」というタイトルで、家事と生活について思いついたことを書いた。それは、いま発売中の食品商業3月号のお題に関連している。
その食品商業3月号では、栄久庵憲司さんの『台所道具の歴史』(柴田書店、1976年)から引用しながら、こんなことを書いている。戦後の日本人は「台所の道具、設備の充実を生活の充実とする誤解を徹底」してきた、そしてさらに70年代以後は外食やグルメを生活の充実とする誤解を徹底してきた、つまり生活と家事について日本人は誤解したままなのだと。
近年は、さらに「自分らしく」生きたり、自然食やスローフードなどが、生活の充実であると、誤解を深めている。消費的な(企業によりマネジメントされた商品やサービスの利用による)時間の過ごし方、マーケティングしマーケティングされる時間の過ごし方を、生活とカンチガイし誤解を深めている。
ところで、一昨日から触れている、望月照彦さんの『マチノロジー』の「下町――混在の思想――」だが。下町が、「人間の生活の基本的な構造がひそんでいるような気がしてならない」「この小論は、その糸口を見つけようとする試みでもある」と。
その事例の紹介は省略するが、で、こんなふうに望月さんは述べる。「下町と山手は、その存在が、対峙するものあるいは対置するものとして、考えられてきた」「しかし、ヒエラルキーとして、すなわち社会階層の序列としては、下位なものとしてその位置付けを与えられた下町も、実は社会的形成物としての意味からは、むしろまずもって、その存在の先行性を主張しうる」
望月さんは、下町に「人間の生活」の先行性を見た。ほかの地域では、生活を誤解しているとは指摘してないが。
この本は、1977年の刊行だから、このあと「下町ブーム」が熱を帯びていく。この「下町ブーム」というのは、山の手の視線によるものであり、一面では山の手の下町への進出でもあった。てっとり早くは、余暇を利用して下町へ出かけ、そこで「下町情緒」なるものを味わう消費的な時間の過ごし方が典型だろう。そして、とくに駅周辺の再開発による、「山の手」化だ。それらを生活の充実とする誤解である。
なぜそのような誤解が長続きするのか。そりゃ、まあ、ね、ヒエラルキーの上にいるものが、自ら意識をかえることはないでしょう。
以前、『東京定食屋ブック』の編集のとき、最初の企画では、もっと多くの下町の大衆食堂を掲載の予定だった。しかし、本のマーケットは山の手に偏在している。だから購買層を考えて、東と西のバランスをうまくとらなくてはならない。というわけで、下町のとくに山の手から不便の方はカットした。これは、商業メディアにおいては、トウゼンのことだろう。
そういう構造の上で、山の手は浮かれながら、生活の充実について誤解を深め、それがマンエンしつつある。といえるかな?
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