セグメンテーションと夜郎自大のグルメ
きのうの続きになるか。セグメンテーションというのは、いまではあらゆるプランニングのアタリマエになっている感じがする。そして、かなりのひとが、たとえば人付き合いやコミュニケーションや趣味というようなことで、これを抵抗なくやっている。ま、「自分らしさ」との同質性において、付き合う人を選んだり、逆に忌避したりなど。他者に対する選別だね。
だけど、おれのシゴトつまりマーケティングプランニングの分野で、セグメンテーションが課題になるのは、そんなに古いことじゃないと思って調べてみた。
なんてったって権威のフィリップ・コトラーさんの『マーケティング・マネジメント(第4版)』(プレジデント社、1983年)を見ると、8章が「市場セグメンテーションとターゲット市場設定」だ。そこに、「かつてはマス・プロダクション、マス・ディストリビューション、マス・コミュニケーションが中心的な思考方法であり戦略であったマーケティングにおいて、市場セグメンテーションの考え方は比較的新しく、かつ重要な発展といえる」と書いてある。
おそらく、このころからのことだろう、1980年代前半、「差別化」「差異化」が、マーケティングの分野にかぎらず、マネジメントや都市開発や観光開発など、あらゆる分野で、アタリマエのように言われるようになったのだ。
「差別化」「差異化」というのは、一方では、「自分らしさ」と裏腹というか表裏一体の関係にある。しかし、「自分らしさ」を呼びかけられた人びとは、悪い気はしなかった。「自分らしさ」を発揮することは、他者を選別することだとは自覚しない。ま、自覚させないように、プランニングというのは行なわれる。それでも、ご本人は、じゅうぶん差別化差異化をやってくれる。「自分らしさ」は、いいことだもの。
「自分らしさ」にウットリするように、持ちかけるわけだ。さらに、こんなイイ仲間の一員である「自分らしさ」を発見させる。そこに使われる道具だてが、ブランドであったり、食べ物や飲食店や、音楽や美術や本やペットや自然やズポーツや会話など、「文化的」装置や道具や小物や環境であるわけで。それが、「自分らしい」気の合う仲間の象徴あるいは目印あるいは勲章……。そうして、いくつものセグメントができる。そのセグメントのなかで、「自分らしい」自分にウットリしたり、なにものかになった気分になる。
ま、グルメというのは、1980年代から、そういう仕組みのなかで育ち、都市構造を支える、基本的といっていい、いくつものセグメントを構成している。
よその国の男との比較ではなく、日本の男は、この仕掛けにはまりやすい。なぜならば、日本の男は、なぜか夜郎自大なところがある。チャンスがあれば、小さなセグメントのなかでもいい、ナニモノかになった気分になりたがる。
きのう書いた『音の力』に、「夜郎自大」という言葉が出てきて、オオッ、ひさしぶりの言葉だなあと一人笑い。そういや、この夜郎自大とセグメンテーションとグルメは関係ありそうだな、と思って、ムリヤリ関係づけてみた。
「自分らしさ」には、じつは、とんでもない落し穴がある。夜郎自大と排他性。雑多性が失われてきたのは、そのためかもな。
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