マイク・ロイコ流残飯絶滅法
食育基本法が必要と主張した人たちがあげた根拠の一つに「残飯問題」がある。それは食育基本法によって、残飯を減らせる、という主張でもあるな。
しかし、食育基本法が制定され、さまざまな施策と数値目標が決められているが、問題となる残飯はどれぐらいあって、どれぐらいの期間に、どういう方法で、どれぐらいの量に減らすかについては、明確になっていない。それは、きのう書いたように、明確にできっこないのだ。
それでいて、残飯が出るのは、食に対する感謝の念と理解が足りないからだ、もっと感謝せよ、という説教だけは飛び交っている。
「世界には、米つぶ一つ、パンのかけらさえも食べられない人もいる」「輸入食料が増える一方で生産額と同じ食料が捨てられているという事実でした。この国は本当に滅びの道を選んで歩んでいるという気がします」そういう認識で、残飯問題は解決するのだろうか。
そもそも、残飯が出る原因やシステムは、どうなっているか。そもそも、「残飯」とは何か?イコール「生ゴミ」のことなのか? それがどうして「感謝」のモンダイになるのか、明確な根拠は示されてない。
学校給食の残飯は、以前に江原恵さんも『料理の消えた台所』や『家庭料理を美味しくしたい』で述べていたと記憶するが、直接的には栄養士制度の問題が関係するし、その制度を利用する学校給食制度そのものにも問題がある。ま、はやい話が、「栄養食餌学」にすぎないような「栄養学」を制度化して導入したことにより、うまさを二の次三の次にする食事がアタリメエの状態になった。まずいものが残るのはトウゼンだ。それを栄養があるから食べろというだけの無能さ。いまでも、ムリヤリ惰性的についている牛乳は、寒い日には残るらしい。そして、栄養があるから食べろというだけの無能さ、「世界には、米つぶ一つ、パンのかけらさえも食べられない人もいる」から残さないで食べろという無能さは、さらに「感謝」を要求する。ひとの感謝を要求する前に、もっと自らやるべきことはないのか。
って、話しは、またこんどやるとして。
アメリカのコラムニスト、マイク・ロイコさんは「独身男性のための食品購入法」を書いている。『男のコラム 2』(井上一馬訳、河出文庫1992年)に収録されているね。マイク・ロイコさんは、「軟弱」なピート・ハミルやボブ・グリーンとちがって、硬派な辛口なコラムニストだが。この話しは、食育になるねえ。
「このシステムは誰にでもわかる簡単な原則にもとづいている。つまり、私はときどき食料品を買い込むが――それも大量に買い込むが――一度買ったら、買ったものが全部なくなるまで絶対に買い物はしないのである」
その利点は、「この原則に従えば、まず第一に、年がら年中、買い物の煩わしさに悩まされることがない。多くても、私は月に一度しか買い物をしない。ときには、二か月近く買い物をしないこともある。」
「第二に、多くの家のキッチンにはいつの間にかいろんなものがたまっていくものだが、わが家にはそういうことはまったくない。」
「これで私のシステムの特長がおわかりいただけたのではないだろうか。このシステムは経済的であると同時に――食べずに終るものはいっさい買わないのだから、このことに疑問の余地はない――革新的であることをも要求するのである。」
つまり日にちがたつにしたがい、あるもので創造力を駆使して料理をつくらなくてはならなくなるから、料理も味覚も革新的であることを要求される。というわけだ。ま、自らを革新することをしない、グルメも含めた消費主義を皮肉っているのだけど。ひとにお節介するだけで、自らを革新することをしないことにおいては、食育派もおなじだね。って、また食育批判になってしまった、まったくシツコイなあ。
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コメント
おっ、そうですか。マイク=ロイコ、いいですねえ。
私は、井上一馬訳の河出文庫版「男のコラム」1、2しか持っていないのですが、この2冊を何度も読んで楽しんでいます。
たしかに骨太、ゴリッと硬派な男。
酒と酒場が好きな男。
酒場からグッと世間をにらんでいる男。
酒場から世間の哀切と向き合う男。
最後の一行までハラハラドキドキさせる男。
読めば読むほど味が出る男。
というのが、私の印象でしょうか。
なおさんの文章、どこかに発表されているのでしょうか。
読んでみたいですね。
投稿: エンテツ | 2006/10/26 08:38
マイク=ロイコのコラムの骨太の文体に憧れて文章を書いてるものの一人です。シカゴという町を愛したこの人の、しなやかさと隠れた切なさが僕はとても好きで、どんな問題に対する、彼の意見にも彼独自のゆとりが素敵だと思います。
投稿: なお | 2006/10/26 00:37