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2006/02/14

ぶっこわれた脳と口か

って、「昔はよかった」というセリフ。懐古も趣味ならよいだろう、酒のツマミにもなるだろう、インテリアにもなるだろう。だけど、食育だの、食糧政策で、昔はよかったというのなら、それなりの根拠を明確に示さなくてはならない。

そもそも、その「昔はよかった」という「昔」とは、何時のことか。伝統食とは、いつのどの階級あるいは階層の伝統なのか。

かつて、家政学・栄養学の権威にして日本料理四条流師範の児玉定子さんは、『日本の食事様式 その伝統を見直す』(中公新書、1980年)で、「伝統的食生活」を主張する「農林グループ」の政策提言に対して、こう述べている。

「肉を食い牛乳を飲むことをやめ、伝統的食生活にもどらねばならないというにあるが、その「伝統的食生活」とは、どの時代の、どの(厳密にいえば、どの層の)食生活を指しているかがはっきりしていない」

「戦前の一般国民の生活は明治・大正・昭和を通じて「劣悪なもの」で、栄養失調すれすれであったので、そこに復帰することは目標とならないという歴史的事実を忘れているのではないか」

「また、米を食うとアタマが悪くなると強調した栄養学者のいたことも事実であるが、その学者の大脳に反映した現実こそが問題であって、本来、栄養学それ自体は欧米崇拝とは無縁である」

「農林グループは、提言のなかで「敗戦後、牛乳、肉、卵と突如として〔国民の生活が〕変わってきた」のは近代栄養学者のせいだという事実認識を示している。しかし、戦後、肉食が普及し、全体として食事が高度化したのは、単に近代栄養学者の奨励によるものではなく、農地改革をはじめとする経済の民主化による国民全般の生活水準の向上によるものであったことも周知の事実ではないだろうか」

いやあ、おれは、この伝統主義日本料理の大先生のことは嫌いで、拙著『汁かけめし快食學』では批判しているのだが、日本料理伝統主義者として、ときには、マットウなこともいっているのだ。

もっとも、こういう意見に接することができるのは、「農林グループ」と、たぶん「厚生グループ」との、暗闘があるからであり、児玉さんは自分に正直だったからだろう。つまりは、戦後の近代栄養学を担ったものとしての責任と葛藤が、そこにはあるのだ。およそ、ある歴史を生き、誠実に振り返ろうとするなら、それは当然だろう。

ところが、ちかごろの「昔はよかった」は、そういう責任も葛藤のひとかけらも見られない。自分だけは、「国民全般の生活水準の向上」には背を向け、昔ながらの正しい生活をしてきたかのようなことをいう。

まるでぶっこわれた蓄音機のように、おなじセリフを繰り返すのだ。誰かに「洗脳」されて、脳と口がぶっこわれたのではないかと疑いたくなる。

いわく、昔の食生活はよかったから、ガンなどなかった。
ウソだろう。
おれがガキのころは、まだ50歳が寿命だった。肺病でバタバタ死んだよ。その人たちが肺病で死ななくてすむようになって、長生きするようになって、ガンに罹るようになった。おれのオフクロは、そうだった。30歳前後で肺病、なんとか大手術をして生き延びたが、59歳のときガンになった。オフクロの姉のように、若くして肺病で死んでいれば、ガンには罹らなかったさ。ガンにかからないうちに肺病で死ぬ人が、たくさんいたんだよ。「生活水準」が低く、身体の抵抗力も弱かったし、医療も極めて不十分だった。

それとも、その「昔の食生活はよかったから、ガンなどなかった」という話しは、江戸時代のことか?
それなら、ガンなんか統計化されてないよ。

ようするに、統計のとりかたが違うか、見方がちがうかだけなんだよ。

なんでもいい、ちったあ自分で調べて考えて発言してもらいたいね。

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コメント

そもそも伝統主義者の主張というのは、ご都合主義で、矛盾だらけなんだけど。

この場合の最初のほうは、「肉を食い牛乳を飲むことをやめ、伝統的食生活にもどらねばならないというにあるが」の部分に意味があって、というのは、この部分があるから、「公式に」肉を食い牛乳を飲むことをはじめた明治以前の話をしていることがわかる。

これは伝統主義者が、お互いに自分のとこが「本家」だと争ってきたことに関係する。どの時代というのは、江戸期以前のことで、その場合身分階級によって、食生活はかなり違うから、どの時代のどの階級かということになる。ま、通常、伝統主義者の場合は、近代以前がモンダイになるわけで。室町か平安か、とかね。

一方、「戦前の一般国民の生活は」というのは、一応、まがりなりにも近代統一国家の一般国民ということで、戦前の身分制度では「平民」以下ということになるか。あるていど統計化ができる。

その場合でも、東京を例にしても、下町と山の手では、かなり家計の状態がちがう。でも、高収入の商家やサラリーマンは一割ぐらいだから、ま、そういうなかでの一般国民の生活は、ってことになるだろうな。

それと栄養学者がいう、栄養状態に関する基準は一貫性がなく、「栄養失調すれすれ」の基準というのはアイマイ。たとえば、戦中の配給の厳しいころでも、栄養学者は栄養的には問題にしてない。

東京の場合は、下町の平均と山の手の平均を、乳児や児童の死亡率、罹病率、平均寿命などもあわせて、栄養状態はよくなかったという判断はできる。でも、すべてが栄養だけで、決まるわけじゃないからね。

ま、ようするに、政治とつながった学者グループの勢力争いが前からあって、こういうことを言い合っているわけだ。「昔はよかった」なんて話は、その一つにすぎないってこと。

投稿: エンテツ | 2006/02/14 19:22

この児玉って先生様は、

>その「伝統的食生活」とは、どの時代の、どの(厳密にいえば、どの層の)食生活を指しているかがはっきりしていない

と言いながら、

>戦前の一般国民の生活は明治・大正・昭和を通じて「劣悪なもの」で、栄養失調すれすれであった

と断言してしまうことは言ってることが矛盾してるんじゃないっすかね?
いったい、どの地域のどの階層が明治・大正・戦前昭和に栄養失調すれすれだったんすかね?と思った...

投稿: 吸う | 2006/02/14 18:41

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