当ブログは、きのうからのニフティが行なうメンテナンスが、トラブルを誘発し、またメンテナンスという状態で、なんとか開通したのが16時過ぎ。これだけ交通機関がストップしたら大事件という事態だが。しかもカネをとっておいてだ。しかし、もうおれはニフティのトラブルには慣れて、腹も立たない。よくないことだが、いわゆるソフト系産業やメディアというのは、悪い品質、失態トラブルがあっても、雪印のようなことにはならないから、また同じことが繰り返される。骨の髄まで腐って、生きているんだな。マスコミなど、その象徴だね。
ま、どうでもいいや、どうせ、いろいろ予定がくるって忙しすぎて更新などしていられなかった。とかいいながら、気分転換に書いていたことを、掲載しよ。どうでもいいことだけどね。
ナンダロウアヤシゲさんから筑摩書房のPR誌、「ちくま」が送られてきた。はてナンデダロウとパラパラ見たら、南陀楼綾繁さんが「街の歴史が見えてくる、裏路地の「食」ガイド」というタイトルで、ちくま文庫の『東京<懐>食紀行』(ブラボー川上/藤木TDC著)の紹介をしているのだ。それで、そうそうそんなことがあったな、と思い出したのだった。これを書くために、三河島の「豚太郎」へ一緒に行こうと誘われて、行ったのだった。あれは、いつのことか、調べたら1月16日のことだった。そのことは、1月17日の日記に書いた。
それはともかく、赤瀬川原平さんが「バイキングと勝負する」を書いている。バイキング式料理を初めて食べた若者時代をふりかえりながら、バイキングについて、あれこれ書いているのだ。その最後に、こう述べている。
以下引用……
いまは自由経済の時代だから、世の中全体がバイキング形式みたいなところがある。食べ残しても、売り残しても、造り残しても、それは自由ということで法には触れない。でもその場合は体裁を気にする働きがないと、環境への自制心が生まれてこない。いまの自由経済というのは、戦後の空腹時代の欲望の習慣が残留したままだ。それを何とかしないと、話しは前へ進まない。
……引用オワリ
ま、昨今の「市場原理」「新自由主義経済」に対する批判含みということになるか。
前にも書いたが、おれは市場と社会が区別つかなくなった認識の混乱があると思う。社会を市場に解消し、生活を消費に解消し、生活や社会について誤解を深めているということだな。もっとも極端には、市場原理で社会原理を否定する、つまり「小泉―竹中改革」だが、これは格差を拡大しながら利益を稼ぎまくろうという財界の意向でもあるだろう。もともと日本の財界は、企業の社会性や社会的責任など社会原理について鈍感である。経団連参加企業のジケン続きに、それはあらわれている。
「体裁を気にする働きがないと、環境への自制心が生まれてこない」というのは、社会原理の自覚ということになるだろう。これは市場原理の否定とはちがう。もともと、市場原理と社会原理は対立項ではない。市場原理をもって社会原理を否定するなんてことは、日本以外ほとんど見られないと思う。あのアメリカですら。
そして日本の、社会原理を否定する市場原理では、じつは市場原理そのものがゆがんでいる。市場原理といいながら、利権や税金やメディアの私物化で特権が維持される構造だ。その姿は、独裁下の統制に近い状態になっている。実際に、喫煙や飲酒などの嗜好への干渉、食育のように健康や飲食への「公」の干渉、青少年に対する「健全」の干渉などは、戦時下の倫理統制つまり「こころの統制」に近い。
ってことは、まあ、ここであまり深追いはしないにしよう。たとえば「食べ歩き」だ。
それはラーメンや下町酒場や立ち飲みなど、さまざまなブームとなっているし、なかには「生活を楽しむ」という趣向のひとも見受けられるが、ほとんどは市場原理のなかの消費で、競ってバイキングに群がるようなものである。かつて、よく特売に群がる主婦の醜さが揶揄嘲笑の対象になったことがあるが、それをはるかにこえている。みんなでやれば醜くないということか、「体裁」もへったくれもない。
欲望のままに「競い合って」買い物消費行動に走る姿は、社会原理を否定した末の市場原理の姿だろう。「あそこの店、知ってます? 行きました?」「あそこのアレ食べました?」「はやくあそこへ行って、アレを食べなきゃ、買わなけりゃ」、そういう競い合いの市場原理からだけでは、よりよい生活や社会の夢は描けない。実際、ラーメンがブームになろうと、下町酒場がブームになろうと、立ち飲みがブームになろうと、よりよい未来は描けていない。むしろ、その場に存在した社会原理が、それをわきまえない、早い者勝ち!の市場原理におかされ、荒野が広がっている。
しかし、そういう市場原理状態を「戦後の空腹時代の欲望の習慣が残留したままだ」というのは、いかにも戦後の記憶が濃い人らしい発言だ。ブログや他のメディアを見ると、いまの欲望は「不足」の飢餓からきているより、煽りあい情報から生まれる「欲望」のような気がする。
煽りあいながら市場原理に雪崩れ込んでいるのだ。そして、そういうことが、「私はソレが好きなんだもーん」ということで正当化され激化する。「好き」が免罪符になり、好きならなんでも許されると思っているらしいが、こうなるともう「趣味」からも遠く離れた、目の前につるされたエサを追い回す、まさに自制のきかない動物である。
そして「体裁」で自制しようというのも、気をつけないと倫理統制の強化につながるようで、あまりいい感じがしない。ってことで、おれとしては「生活原理」を追求したいわけだな。市場原理優先ではなく、いくつもの原理が並び立つことで、相互に抑制のきいた社会になる、そういうセンを理想にしたいのだな。
そういえば、下町の酒場で見られる、お一人様3杯まで、なんていう安い酒の飲ませ方などは、あとから来た客にも助かるし、社会原理的といえようか。どこもかしこもそうなっては「配給」みたいでツマランが。
ザ大衆食のトップに掲げているオコトバ。
「あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみたい」
これだね。