頭の中は、潰し合い
物さびしく思うに、崩れ行く国家というのは、こんなものだとは思うが、庶民同士がいがみあい潰しあうのである。対立を煽って、悠々と得している連中は誰か。庶民は、その連中の代理戦争をやりながら、いがみ合い潰しあい草臥れ傷つき……そうやって、酒を飲みたくなるだろうが、そういう酒は、あまりいいことないよ。酒は、陽気に飲みましょう。
って話じゃないんだが、食生活という分野でも、まあ、潰しあいですわ。とにかく、いまイチバン叩かれているのは、消費者でしょうなあ。とりわけ食育基本法以来、その傾向は、ますます強まっている。消費者つまり愚民は、すべての悪の根源なのです。この場合の消費者とは、なんの生産手段も持たない、権力からも縁遠い、都市型生活者ってことになるが。おれみたいなの、立場、弱いですなあ。
その背景を、チョイと極端に単純明快に考えてみよう。日本は縦割り行政で、地方の民まで、そのタテの支配下にある。
で、消費者は、行政的に、どの支配下であるかというと、経産省なのだ。流通もそうだし、ま、農林漁業以外は、経産省配下なのだ。消費者は経産省の民である。
農水省は農林漁業の民が配下だ。畜産も日本では農業の一環だったから、牛肉の輸出入もココ。農水省にとって消費者は、なんなのか? 憎らしい経産省の民だ。
食関係では、厚労省。栄養だの健康だの肥満、そういう震源地はココだ。厚労省にとっては、消費者は生理機能を持った動物にすぎない。そして、厚労省にとっても、消費者は経産省の民でしかない。
最近は文科省が食育でからんできた。ま、学校給食を抱えているし、学校を卒業して増え続ける栄養士たちをなんとかしなくては、学校経営の危機を招きかねないということもあるかな。文部省の配下の民というと、インテリや学生生徒児童。保育園児はちがうが幼稚園児は文部省の民だ。ま、とにかく、、文科省にとっても、消費者は経産省の民だ。
農水省、厚労省、文科省が消費者を叩き安い理由は、これで単純明快だろう。マスコミは、記者クラブなるもので、そことつるんでいる。その省庁とつるんだマスコミの周囲には、各種団体やインテリたちがいて、メディアを舞台に、それぞれの利益を、さもさも客観であるかのように演出するために活躍する。そして、民は、その代理戦争に巻き込まれる。
ところで、経産省の民である消費者は、経産省から経産省の民として厚遇とまではいかなくても、守られているかというと、そうではない。経産省にとって大事なのは産業であって、消費者は、まさに産業の消費者にすぎないのだ。守る対象ではない。それは最近のPSE法でも、わかるだろう。
かくて、消費者は野ざらしの叩かれ放題なのである。みな、消費者を悪者にして、自分の存在を維持したり存在感を高め、利得を得ようとしている。そういうところでは包括的な政策など成り立つすべもない。
食生活を基本にした包括的な政策が必要なのに、お互いに利得を争い、その利得をあからさまにしないために「正しさ」を主張し、相手の欠陥を突き、潰しあう。そして年月が過ぎる。
「和食」対「洋食」の争いも、そこに震源がある。そもそも、いまだに「和食」だの「洋食」だのとは、なんだろうか。なぜ「近代日本料理」「近代日本食」の認識を持ち得ないのか。前にも、チョイとふれたが、たとえば、農水省と厚労省の対立があったり。その背景に、栄養士団体や生産者団体の目先の利得が絡んでいたり。
政治家や役人たちの権力争いの代理戦争を、なぜ庶民がやらなくてはならないのか。食生活の現実から出発する発想を、なかなか持てないのである。
ところで、社団法人日本料理研究会なるものがある、この団体の所轄官庁が農水省だったとは知らなかった。これは、わかりやすくいえば「板前」の団体である。社団法人だが、どうやら、その代表者は、世襲なのか一族支配なのか、創立者の系譜のようで同じ苗字である。
なんとも歪んだ食の構造である。食育以前のモンダイだろう。食育以前といえば、農協や漁協は自ら招いた農業や漁業の衰退について、キチンと説明できるようにして、食育にのぞむべきだろう。栄養士にしても、少なからぬ混乱の原因をつくっているだけではなく、いまでも栄養士が栄養の専門家であることはよいとして、「食生活の専門家」を主張するのは欺瞞である。もし「栄養教諭」として学校教育に関わるのなら、その根拠を明快にして望むべきだろう。ひとを教育し生活に口をはさむ前に、自らの責任をキチンとする習慣が必要なのではないか。
とにかく、政治家や役人たちの権力争いの代理戦争はやめ、まずはお互いの食を、いまを生きる日本人の食として認め合いましょうね。それからですよ。
と、いちおう、むなしい発言をしておきます。ああ、快食、快食。
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