食品商業6月号「「魚食べない」も時代の流れか」
いろいろなものが届いているが、まずは、「食品商業」に連載の「食のこころ、こころの食」だが、今回のお題は、「「魚食べない」も時代の流れか」だった。
編集部の注文の冒頭には、「今回は「水産物への思い」をお書きいただきたいと考えました」とあった。じつは、この号の特集は、「ストップ・ザ・さかな離れ 10年後売上高半減を食い止めろ!」というもので、それに連動しているのだ。
こういうテーマというのは、うんざりだ。もともと、タテ割り行政がもらす結果のデータをもとに、厚労省のデータではこうだ農水省のデータではこうだと、「魚離れ」の結論をあらかじめ決めてかかっている。そこでは、例によって「食生活の欧米化」や、「丸魚をさばけない、魚のカタチも知らない」消費者が俎上に上げられる。またもや悪いのは「洋風かぶれ」の消費者だ!
であるから、うんざりのまま書いた。しかし、また繰り返し思うのだが、「近代日本食」という視点を持てないのは、なぜなのだろうか。近代、日本は「欧米化された」という「被害者意識」というか、コンニチの日本の食生活が他動的につくられ、ワレワレ日本人は受動的立場であり、なんら責任がないかのような「食生活の欧米化」論が前提になっている。もうこういうことにイチイチ反論する気も起きない。
平成18年水産白書によれば「約40年間で購入量は16kgから12.8kg。供給量は17kgから39kgへ」ということだそうだが、それにしては、なぜ魚はかくも高いのかということは問題にならずに、その購入量が減ったところだけに焦点があてられる。ま、それは業界誌の限界なのかも知れないが。けっきょくなんだね、しょせんタテ割り行政の駒にすぎないってことだ。
日本は水産大国だったが、それは生産の伝統であって、あるいは消費量の伝統であったかも知れないが、必ずしも料理つまり食べ方の伝統ではなかった。そこにこそ魚食モンダイの課題がある。というのがおれの主張。
食糧があれば「食生活」が成り立つわけではない。料理をしなくてはならない。そしてその料理のためには、日本は輸入に全面的に頼るガスや電気が必要だ。「伝統」の米すら、輸入に頼る電気やガスがあって、「めし」として食べられる。そうした料理の諸条件から対策を考える思考力がなかなか育たない。高尚そうな道徳的観念や精神論をふりあげて終る。
「食生活の欧米化」をモンダイにするひとは、秩父の山奥でイノシシやクマと暮すとよいだろう。海の生魚など届かない山中に。姿カタチがわかる海の生魚が入手しやすくなったのは、ほんの近年になってからのことだ。それは「欧米化」の結果ではなかったのか。また供給量の増加をもたらした養殖技術や漁獲技術の向上は、「欧米化」の結果ではないのか。
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コメント
あっ、近藤さん、どーも。
もう食品商業の原稿なんか書きたくない!
なーんていうと、また本気にされるでしょうな。
大丈夫です、自由に勝手に書かせてもらっています。
ここでも勝手に書いていますが。
7月号の原稿も今週中に送ります。
今週末から、また激しい飲み会が続くので、
その前に。
「安いところで割り勘で一杯」
ぜひ、やりましょう。原稿おわってから。
投稿: エンテツ | 2006/05/17 15:43
ご紹介ありがとうございます。『食品商業』の近藤です。かつて、スーパーマーケットの店舗全体での売上高のうち、平均的に10%台の後半を占めていた鮮魚部門の売上げ。あるいは、盛業していた鮮魚店の売上げ。それが、現況の売り方のままでは、大幅な減少が必至というところに危機感を持たざる(そして、煽らざる)を得ないというのは、「業界誌の限界」というか、正直言ってしまえば「メシの種」でもあります。その「限界」「メシの種」時には「自己批判」の中で設定したお題で、遠藤さんたちにはご自由に、思うままにお書きいただければ幸いです。どうか、7月号のご執筆もよろしくお願いします。
話は変わりますが、「安いところで割り勘で一杯」のほうも、近々、よろしくお願いします。
投稿: 近藤昌 | 2006/05/17 12:07