« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006/05/31

メモ 生で食べる肉の料理

いのししの刺身  愛媛、鹿児島
えぞ鹿のたたき  アイヌ
かしわの刺身  宮崎、鹿児島
かもしかの肉の生  神奈川
ささみの刺身  宮崎
鹿刺し  栃木
鳥類の刺身  アイヌ
鳥類のたたき  アイヌ
鶏肉の刺身  鹿児島
馬肉の刺身  埼玉
ぴーじゃー刺身  沖縄
羆のたたき  アイヌ
陸海獣の刺身  アイヌ
陸海獣のたたき  アイヌ


日本の食生活全集50 日本の食事典 つくり方・食べ方編

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

なんだか悲しい切ない「福井が元祖」

asahi.comにこんな記事があった。

コシヒカリは「福井が元祖」 県が六本木ヒルズでPRへ
2006年05月30日19時17分

 今年はコシヒカリ誕生50周年。発祥の地・福井県は森ビル(東京都港区)と共同で来月3日に、六本木ヒルズの屋上庭園で県産コシヒカリの田植え体験を開く。

 ヒルズの住人や通勤者らを対象に募集し、133人が参加する。コシヒカリと言えば新潟のイメージが強いが、56年に福井県農業試験場で誕生したのが始まり。

 福井は全国2位の「長寿県」。コシヒカリ「元祖」と、健康志向の産地をアピールし消費拡大を狙う。ヒルズ族の支持を得て「時代の先端に躍り出たい」と担当者。

……以上、記事全文。

おれの故郷にも「コシヒカリ発祥の地」というのがあって、ザ大衆食のサイトの「稲刈り寸前 魚沼コシヒカリ風景」からリンクしている「コシヒカリ共和国」なるサイトもある。そこに書いてあるところによると、その地でのコシヒカリの誕生は昭和29年つまり1954年だ。しかも農業試験場ではなく、農家の田んぼでの実栽培。

いまさら、どちらが先であるかは興味ないが、いまごろウチが元祖だといって、しかも「ヒルズ族の支持を得て「時代の先端に躍り出たい」」という。なんだかスゴイ精神の貧困を見るようで、悲しく切ない。

「コシヒカリと言えば新潟のイメージが強いが、56年に福井県農業試験場で誕生したのが始まり」と、たぶん福井県の担当者の説明をそのまま記事にしたらしい、朝日新聞のアタマの中も、しかもそれが「六本木ヒルズの屋上庭園で県産コシヒカリの田植え体験」ということでなかったら、たぶん記事にならなかったであろうということも合わせて考えると、これまたスゴイ精神の貧困を見るようで、悲しく切ない。

「米離れ」や農業の衰退の原因は、むしろ、こういう悲しく切ない精神に原因がありはしないかと思いたくなる。いまさら「ウチが元祖」だといえるところのコシヒカリや魚沼コシヒカリの人気は、一朝一夕にできたのではないことは、「コシヒカリ共和国」の記事をみればわかるだろう。そういう地道な努力が、たかだか朝日新聞と「ヒルズ族の支持」で無に帰すのであれば、誰が農業を真面目にやるだろうか。それは生産者自身が一番よくわかっていることではないのか。「元祖争い」をやるのは好き勝手だが、その底にあるココロが、とても貧しく愚かしく思える。

もっともこのイベントは福井県の役人と、たぶんどこかの広告屋あたりが考え、そして朝日新聞がのった構造のようだから、愚かしい群れはそのへんなのかも知れない。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/30

「料理分類学研究所」やりましたね

きのうの「料理分類学研究所が出てきた」でメールを頂戴した。コメントに書こうとすると文字化けしちゃうという。何人かそういう人がいて、どうやらアップルを使用のようだ。でも、アップルでも書き込めるひともいる。OSが関係するのか? パソコンのことはよくわからない。とにかく、そういうわけで、ここに掲載。ごらんの通り、これは当の編集者からだ。

「「料理分類学研究所」やりましたね」というタイトル。以下……

エンテツさま

こんにちは。
ブログにコメントしようとしたら、またまた文字化け。なんで、メールしました。
「料理分類学研究所」、あれ面白かったですよね。
エンテツさんには、ゆくゆくは所長になってもらうおうと思っていたくらいですから。
いや、冗談じゃなくて(笑)。
分類というのは、近代主義の権化のようなものです。
ここでは、本来分類できない、
というより分類する意味などないことを
あえて「分類」してしまうとどうなるか。
意外や意外、ものごとの本質がポロッと顔を出すわけです。
食というのは、そのほとんどが日常に埋没しているものです。
だから、時々なにかちょっかいをかけてやりたくなる。
分類というのもその一つでした。
ところが、これが面白かった。
舌的なものから腹的なものへ。
抑圧的な定食から解放的なぶっかけめしへ、ですか。
スローガン的なところが、またまた近代主義っぽくってよろしい。
食文化を、いや大衆食といったほうがいいですね、
モダニズムの運動として捉え直してみるってのはどうでしょう。
どんぶりめしこそ、じつは食におけるモダンだったと。

意外にも、民芸の運動とシンクロしていたり。
ヌーベルキュイジーヌの誕生が68年パリと連動していたように、
どんぶりめしは、普通思われているのとは反対に
食の洗練への最初の一歩だったのではないかと。

と、またいろんな妄想がわきあがってきました。

……以上。

これは、こういうコムズカシイことを言うのは、あの「雑誌『談』編集長によるBlog」の佐藤真さんなのですね。そうです、彼が、誌上でバーチャル「料理分類学研究所」を始めようと企画したわけであります。あれが続いていたら、おれは「所長」という「長」がつく人間になれたのに、残念だ。

「分類」というと、または「カテゴライズ」や「パターン化」も含むか、それは本質に接近する方便にすぎないのに、目的や普遍に簡単に転化してしまうことが、最近また多いようで。

近代国家なんてのは、地図に線を引いて、そこに国旗と国歌をつけたもの。つまりは国旗と国歌は近代国家のパターン認識の方便なのだが、それが全ての中心や目的になってしまう。でも実生活は、「地産地消」なるものを、国内の地域をこえて、その国旗と国歌のワクでやろうとしても成り立たないところまできている。ま、だから、その国旗と国歌のワクにもどそうという妄想な動きもあれば、「地産地消」の「地」は東アジアじゃないの、いや地球の「地」でしょうという動きもあるが。でもね、ホラ、こういうふうに見ると違った本質が見えるじゃないですか、ってやる「分類」もあるのだな。

ああ、昼酒飲んで、酔っている。

大衆食をモダニズムの運動として捉え直してみるってのは、なかなかオモシロイね。つまりは近代日本食のスタンダードは、そこから育ったわけで。「丼」という容器の生産の拡大と普及は、大正期から昭和初期に始まるし。カレーライスやコロッケやトンカツが、そして「大衆食堂」が普及するのも、そのころ。刺身が、江戸期の地域をこえて大衆化するのも、そのころからだね。「大衆」も流行語になる。

カレーライスやコロッケやトンカツなどは、「洋食」に分類されるがゆえに「伝来モノ」という概念にとらわれる。それは一方に開国しながら鎖国の頭でパターン化された「日本」があるからで、まさに方便にすぎない分類が思考を固定化してしまう。大衆が自らの生活において選択し洗練させてきた流れが見落とされてしまう。

「汁かけめし」という概念を持ち込むと、カレーライスは汁かけめしなのだ。だけど、それではどうも納得できないというのは、パターン化された近代国家に「洗脳」されているからだろう。大日本大衆国、ばんざーい。

コロッケやトンカツなどは、あれを「フライ」という。ナゼ「天ぷら」といわないのか。あれは、料理法としては、つまり生活のための技術としての料理からすれば、天ぷらなのだ。天ぷらヌーベルキュイジーヌとしての天ぷらが「フライ」なのだ。

とかね、いろいろあるが、どうも、日本人のなかには、というかメジャーな方々のあいだでは、「流れ」のなかで見るより、パターン化された「日本」のなかで見るということであるようだ。「あるべきパターン」のために生きるのだ。しかしそれでは現実と矛盾が出る、そこで、その矛盾は、あの社会保険庁のように帳簿をつけかえて誤魔化すように、言葉を変えて誤魔化そうとしてきた。都合のよいことに、日本語というのは、漢字とひらがなとカタカナがある。

ああ、昼酒、いい気持ち。

「舌的なものから腹的なものへ」は、ちがうよ。逆だ。「腹的なものから舌的なものへ」だ。味は舌で感じるが、味覚は舌だけではない。ってわけで、むかしは腹に味覚のポイントがあったのではないか、それがしだいに上へあがってきて、「のどごし」が加わったりして、近年に「歯ざわり」つまり「サクサク感」や「クリスピー」が重要な要素になったというか。この話は、あのとき議論していて、もっとも刺激的でオモシロイことだった。

はあ、こうしちゃいられない。

関係ないかあるか。「マカロニサラダ」にナゼおれが注目するかってのは、あれは粉物の乾物でつくる「サラダ」ってことだからね、これはとてもオモシロイのだ。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/29

料理分類学研究所が出てきた

Snow1アレコレ企画中でアレコレ資料を探していると、カンジンのものは出てこないで、そして企画中のものよりオモシロイものが出てくるのでこまる。

とにかく、これはオモシロイ「料理分類学研究所」だ。「和食」だ「洋食」だじゃなくて、国境なんか本質的に関係ない料理においては、ほかにも分類の仕方があるだろう。

ってことで始まった「こちら、都内某所に設立された〈料理分類学研究所〉。その使命は、料理を従来とはまったく違う視点から分類し直し、食文化研究の新たな地平を切り拓くこと。名づけて料理分類学(フード・タクソノミー)。当研究所では、二人の研究員がその任に当たるが、月に一度、ゲストを招いて議論の場を設けることになった。1回目は大衆食の会代表・遠藤哲夫氏」とな。大風呂敷ひろげているが、ザ大衆食のサイトに詳細を掲載した、ま、見てちょうだい……クリック地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/28

オベンキョウはムダなのか 非@食べ歩きのススメ

以前に「生活情報誌系」のオシャレな雑誌の編集者からシゴトの話があって、アレコレ話しているうちに「「オベンキョウの話」はいりませんから、ギンシャリがうまい東京の三大食堂という感じで書いてください」といわれ、けっきょく断るかっこうになってしまったことがある。ま、彼を、場末のコキタナイ大衆食堂へ連れて行ったら、このギンシャリはうまいと言って食べていたのに、そのあとそのシゴトの話については、なしのつぶてになったのだな。

その前にも別の雑誌で編集者から同じようなことを言われたことがあるのだが、どうやらおれが書くと「オベンキョウ」になるという危惧を持つ編集者がいるらしい。しかし、彼らは自分が「生活情報」の概念を誤っているか狭く考えている可能性については検討したことがないようだ。それは、彼らは2人とも、売れている情報誌をつくっているとの自負があるからかもしれない。その割にはウチは単なる情報誌ではないということを強調するのだが。ま、読者はオベンキョウを望んではいないということなのだ。

そこではオベンキョウはムダ情報ということになってしまう。では、その「うまいもの話」は、確かな情報や知識に裏づけられているのかというと、トウゼンながら心もとない。そこにはある種の好きもの同士の「群集心理」が働いていて、悪徳も正義になる状況もある。

売れる外食情報というのは、以前にも書いたが、ゲーム感覚の情報であり、生活感覚はオベンキョウということで切り捨てられる。「食生活」ぬきの「食情報」が「生活情報」なのである。これでは、「食生活」は荒野になってしまうね。実際に、食べ歩き飲み歩き本が、これほど出回っているのに、その周辺の「食生活」は荒野が拡大しているように思えなくもない。「うまい話」はできても「食生活の話」にはならない。

ま、駄目吸うさんの「ただ呑んでいるだけ」のように、そのものが生活であるような飲み歩きもある。これはもう「生活情報」とは無関係に成り立つ、まさに自分の生活で、生活のなかに自ら呑む姿を描いている、ので、おれは彼を「アルコールアーチスト」と酔った勢いで妙名した。

が、しかし、そうそう、今日は、この話が本筋なのだ。

おれが「あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみたい」と主張するように、「このブログの目指すところ・・・【食】人生の向上を目指すプロジェクトです」というココロザシがある人もいるのだな。

タイトルをあえて「非@食べ歩き」とするあたりも、オモシロイ。「私は、普通のサラリーマンですが、周りのいい加減な食生活に流されたくないという思いから、このブログのテーマを考えています」ともおっしゃっている。頼もしく期待したい。

ってことで、「非@食べ歩き 食の本~感想・記録、食の話題。」……クリック地獄

ま、「食生活情報」は「食べ歩き飲み歩き情報」「うまいもの情報」に偏向しすぎだと思う。「健康ブーム」のように、煽り煽られの品のないことになってますな。人生はムダつまりアソビも必要なのだから、あまりガツガツせずにムダなオベンキョウもいたしましょう。だれもが短絡的に「役に立つ情報」にはしるイマだからこそ、オベンキョウでムダなアソビをいたしましょう。

当ブログの「ゲーム感覚のグルメ」関連……「料理は娯楽?」04年1月14日  「ラーメンブーム」04年01月22日 「朝めし」04年01月26日  「悩ましいB級グルメ本とラーメン本」05年03月12日  「トレンドとスタンダード」05年09月27  

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/27

左ぎっちょ

あいかわらず、このココログはおかしい、ニイフティの偉い連中の頭の中を反映している。

雑誌『談』編集長によるBlog「お行儀の良い本棚、横書きを縦に書く器用な先生」に左ぎっちょの話が出てくる。編集長の佐藤さんは、左ぎっちょだけど「時代はそれを許さなくて、字だけは右で書くようにならされてしまった」と書いている。

そういえば、むかしは「やーい、ぎっちょ」なんてからかわれたね。「ぎっちょ」は、ごく少数だった。圧倒的多数「右」派のなかで嫌な思いもしたことだろう。「ぎっちょ」って、差別用語みたいだった。もしかして、差別用語なのか?

左手で字を書いたり、箸を持つやつは、日本人としてマットウじゃないということで、大人は許さなかった。いつごろからか、そのへんゆるくなったな。野球でサウスポーが活躍するようになって、左利きもカッコイイってかんじもあったな。

見慣れたものを美しく思い、見慣れないものを醜悪と思う、因習的な美感覚が関係していた感じもある。見慣れないものを醜悪と思う感覚は、見慣れないものをカッコイイと思うふうにコロッと変わったりもする。

だけど、いまだって、見慣れたものか見慣れないものかの違いにすぎないことを、普遍的真理的な違いのように騒ぎ立てる人もいる。

しかし、左ぎっちょがふえた現象は「洋風化」とはいわないようだ。

| | | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/05/26

楽し頼もし「どんぶりめし」リンク集

ブログで「どんぶりめし」を調べたら、思っていた以上に書いているひとがいて、うれしかった。どんぶりめしは健在か。ってことで、新しいところをテキトウにリンクした。ガツンと食べようどんぶりめし。って言いたいのだが、おれ自身はトシのせいか食が細くなってねえ、そのうえ酒が優先なもので。だから、おれより若い者たちよ、力強くどんぶりめしをくえ! ってこと。

SUZUKIの2サイクル好き!!・・・なのか?  生まれた時からどんぶりめし
どうやら私、朝食は卵かけごはんさえあれば満足出来る

D.I.P FACTORY 映像制作日記 「よーい丼」の「イナバウア丼」
ほんとに、「よーい丼」という「どんぶりめしや」があって、「イナバウア丼」があるのだ

2ひきのコザル 身長を伸ばせ!
サッカーとは体力勝負なのだ! 人生だって体力勝負だヨ。

水戸市 グルメ おいしいもの食べ隊 あんばいや
どんぶりめし(丼飯)なら、もうここです!

気まぐれまぐれ 天王
ホイコーロー定食を頼んだら、どんぶりめしどーん!

☆だんご3兄弟 + スリー☆ なんちゅ~!
今日も、どんぶりめし 食べてます。って、頼もしい子ども。

松栄庵の日常 いいぞ!大衆食堂
やっぱりどんぶりめしは大衆食堂だ

今日のランチ 王将 江坂
これが半分ですか? どんぶりめしじゃないですか!

fanfun SPORT blog 5/24 肉体改造45日目 お米
朝からどんぶりめしで肉体改造だ

cccp共和国 5月24日の巻<その2>
おしゃれな半田屋もいいが、僕は「めしのはんだや」「大衆食堂半田屋」が好きだ!

蒼い空の真下で パン丼
“どんぶりめし”なんてすっかり死語ですからね。コメの消費拡大についてのオレなりの提案。


後日、ふえる可能性あり。

しかし、このココログは障害続きで全面的に正常であることが近頃はない。
トラックバック機能なんかうまくいかないことが多く、もうアキラメ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

健康の増大、幸せの縮小

厚生労働省の下請け団体に「財団法人 日本食生活協会」なるものがある。日本食生活協会のサイトの「日本食生活協会のあゆみ」を見てもらえばわかるが、「昭和31年に厚生省大磯栄養課長の指導を得て、日本食生活協会に所属する「栄養指導車」8台の建造が実現し、10月10日、日比谷公園で盛大な出発式を挙げました」とあって、その始まりから「食生活」をうたうが、「栄養課」の指導によるものであり、このあたりにすでに、食生活を健康と栄養に矮小化する考えと動きがみられる。

この考えの特徴は、日本食生活協会の松谷満子会長の挨拶にハッキリあらわれている。つまりそれは 「私たちが幸せな生活を営むためには、何よりもまず健康でなければなりません」と始まるのだ。

「幸せ」とは、そういうものだろうか。

まず健康でなければならない。しかし、それは「幸せな生活を営むため」というのである。この、「幸せな生活を営むため」を掲げなくては「健康」を主張できない点に、すでにこの論理の破綻があるのだが、そしてまた「幸せな生活」は「健康」に矮小化される。

いったい、この人たちは「幸せ」について、それだけしかないのだろうか。不健康、たとえばなにがしかの持病があるひとは、すなわち不幸な生活しかないと思っているのだろうか。

ともあれ、健康で長生きであれば幸せ、という価値観とはいえないような尺度というか、たとえば「生きがい」や「自由」を奪われても、健康なら幸せであると、そういう考えを持てということであるらしい。それは牢獄のような生活でも麦飯を食べれば健康によく幸福であるというのと同じではないか。家族一緒に食事ができないような過剰な長時間労働の生活でも、粗食な食事であれば健康で幸せであるということにもなる。

こう書くと、イヤそこまでは言ってないというだろう。しかし、では、「幸せ」についてどう考えているのだと聞き返せば、やはり「何よりもまず健康でなければ」と答えるはずだ。だってさ、そう言っているのだ。

この、「幸せ」を掲げながら「健康」を「幸せ」の上におくペテンの論理は、生活を生理でしか考えない、それゆえ牢獄のような生活でも健康であればよいという考えにつながる。人びとを「奴隷」あつかいにする考えであり、たしかに健康な奴隷を欲しいひとは、いくらでもいるのだ。

もともと日本は食生活に関する関心が低く、食を文化として見直したりや、「男子厨房に入るべからず」から「男子厨房に入ろう」が生まれるのは、やっと1970年代後半のことだ。その間に、食生活を支配してきたのは、こういう考えだったし、いまでも支配的であるといえるだろう。

しかし、生身の人間は、そうはいかない。不健康がわかっていても「幸せ」のために働くこともある。不健康がわかっていても「幸せ」のために飲むこともある。健康だけじゃ幸せでない生活は、いくらでもある。「食べる」ことは、健康だけではなく、それらすべてに関わるのだ。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/25

大衆食堂的旅といえるかな、「旅人文化」アンド「やどや」

最近、この話題について、あまり書いてないが、おれもいっちょうかみしている、「ゲストハウス やどや」プロジェクトと「旅人文化」のこと。

「旅人文化」の更新をしたとのメールがあった。見たら、「旅人たちにアンケート」が、できあがっている。これは、おもしろいねえ。

「旅人たちの談話」は、おれが編集制作している。このあとが、まだなんだが。ま、のろのろコツコツ進んでいるようだが、5年間ばかりのあいだに、しかもビンボウニンだけで、ここまできたのだからスゴイものだ。

「やどや」は、いよいよセンター発足の事業計画もできて、新しい動きが始まった。その事業計画書にしても、おれがかつてプランナー稼業でつくっていた事業計画書のようによくできている。これを、学校も満足に行かずフラフラしていたン歳の小娘が、ただでさえ忙しいマネージャー稼業をやりながらつくってしまうのだから、まあ、いまの若者は「フリーター」だ「ニート」だのとレッテル貼られているが、どれぐらいの潜在能力があるか知れたものではない。

ようするに、彼らを生かす力は、おれのような年配者の課題なのだなあ。その力をぬきに、若者にイチャモンつけてもしょうがないのさ。というわけで、おれなんか、けっこうよくやっているほうか、泥酔しているだけじゃないぜ……と、自画自賛。とにかくなんだね、「誇大妄想」といわれるぐらいの、壮大な夢を追い続けることさ。ビンボウニンにはビンボウニンのやりようがあるし。

ま、ご覧になって、興味のある方は、ご連絡くださいな。とくに、口は出さないが金と労力をだすひとは、いつでも歓迎です。これは、これから、大衆食堂のようにおもしろくなるよ~。大衆食堂だってね、過去のものじゃなく、時代と共に、これからのものでもあるのさ。これまでの「懐古感覚」「グルメ感覚」じゃ、わからないだろうけど。センターができたら、大衆食堂をやっちゃうかもよ。

旅人文化のサイト…クリック地獄
ゲストハウス やどやのサイト…クリック地獄

| | | コメント (5) | トラックバック (0)

夜郎自大と事大主義を反省する愚かさ

根拠のないことだらけの栄養学の主張のほかに、食を「乱す」ものに、夜郎自大と事大主義な食談義がある。夜郎自大と事大主義は、とくに男に根深く、男の食談義の特徴ともいえる。この場合の「男」は、とりわけ日本の男をさすのだが。

かくいうおれも、『ぶっかけめしの悦楽』では、「完成度の高い「三大かけめし」」という表現をしている。この場合は、「完成度」の基準について「上にかけるものとめしが切り離しがたいほど密接な」という説明をしているだけマシだとは思うが、しかし、それでも「三大」なんていう言い方は、夜郎自大で事大主義な言い方だと反省し恥じて、『汁かけめし快食學』では、「「三大かけめし」といいたいところだが、「大」とは、なんとも事大主義な言い方なので、やめておく」というぐあいに、表現を改めた。わが身内の夜郎自大と事大主義の克服は、なかなか難しい。

しかし、ほんと、男の食談義には、むかしから「三大」とか「五大」とか、「メッカ」とか「聖地」といった表現が多い。それは、男の、ある種のナルシックなペダンチシズムと一体であることが多いのだが、また男の「文学」の伝統でもあるようだ。

それでも他の分野なら近年は、慎重に、あるいは謙虚に、そういう表現はあまり使われないようだが、こと食となると、堂々たるものだ。どうだ!おれは三大ナントカを知っている男ゾ、聖地を知っている男ゾ、おまえらこれを知っているか! てな感じをモロだしで、たとえそれが5分の3ていどの「三大」でも「三大」である。またそういうのを見たり聞いたりするほうも、それを大変ありがたがる風潮がある。他の分野なら、編集者あたりから、「三大の根拠を説明せよ」「聖地とはオーバーな言い方じゃねえか、根拠はなんだ」とかチェックが入ったりするが、食の分野では、そういうこともない。だから、いいたい放題、こういうことが続くのだな。

しかし、たいがい、そういうものは内容のなさをハッタリでごまかしたり、あまりたいしたことのない付け焼刃の知識の押し売りでしかないことがほとんどだ。大げさな表現を取り去ると、たいした内容は残らない。「日本三景」みたいにね。いまや「日本三景」なんて、死語に近いし、お笑いにもならない。

広告なら許されない誇張も、「文学」だと許される。その「文学」は、売れる本のためのマーケティング優先のなかで、売れるなら夜郎自大も事大主義も、OKだ。

こういう状況で、生真面目に自らの夜郎自大や事大主義を反省することこそ愚かなり。が、愚か者であるがゆえに、反省をし、10年たってまたここにいるのだ。

「三大」「聖地」「本場」といった言葉は、信用ならない「三大用語」ってこと。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/24

根拠のないことだらけの食生活と栄養と健康

ま、さらにまた昨日の続きだけど。健康のために一日に30品目たべよう、という話を覚えている人はたくさんいるんじゃないかな。

まったく、ずいぶんうるさかったからなあ。あれは、1985年5月に、当時の厚生省保険医療局健康増進栄養課が発表した「健康づくりのための食生活指針」ってやつで、その前からあった栄養学の一部の主張が、お上のお墨付きをもらったかっこうで、根拠のないまま一挙に市民権を得た。

で、どうなったか。いまじゃ、そんなこという人は「時代遅れ」扱いだ。

その主張をやっていた当事者からも、いや人間の細胞は一週間単位で生まれ変わるのだから、一日に30品目とる必要はなく一週間に30品目でよいのだとか、アレコレ言い訳がつき、アイマイになった。そしてまたこのたび「食育基本法」が施行され、「食事バランスガイド」なるものが発表された。これは厚生労働省と農林水産省の共同作業であるらしいが。

わずか20年のあいだの、こういうドタバタそのものに、根拠のない無責任があらわれている。そもそも「食生活の健康に対する影響はながい期間をかけないとわからない」(鯖田豊之『肉食文化と米食文化』)という主張が一方にあったのに、無視され続けなのだ。

いったい一日に30品目にせよ、それを引っ込めるにせよ、「食生活の健康に対する影響」は、どれぐらいの期間をみて判断すべきなのか、その根拠はあきらかにされていない。

また、たとえば、カロリーと肥満との関係も、「カロリー計算は無意味」という主張があるにもかかわらず、ほとんど無視されている。

ようするに、これらは「科学的」な装いをしているが根拠のない、ある種の観念的な「主義」にすぎない。「だが誤った観念を自己の利益のために広められるのは、一種の社会学的公害である。そして新聞がそういう話題にすぐ飛びつくのも、困った風潮である。ある程度は、実態を確認してから記事にすべきであろう」と、江原恵さんは、自然食主義について、『家庭料理をおいしくしたい』(草思社、1988年)で述べている。厚生労働省と農林水産省とマスコミは、食生活と健康に関する「社会学的公害」の発生源といえる。

こういう風潮に対して、なにが有効か? 一つは「自分の味」を持つことだろうってわけで、おれは「現代日本料理「野菜炒め」考」に「自分の味」について書いた。

根拠のない政策は、「一日に30品目」のように、どうせ破産する。欲の深い連中にふりまわされないようにするには、「自分の味」を持ち、「あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみたい」ってこと。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/23

なぜ世界一の長寿国で「健康ブーム」なのか

20日の「「健康ブーム」って、品がないね」の続きだが。「日本が世界一の長寿なのは「日本型食生活」という日本独特の食形態のためと言われている」ってことがよく言われている。これは、根拠があることなのか。

たとえば、「社会実情データ図録」の「世界の平均寿命ランキング(149カ国比較)」では、「図を見れば、高所得ほど平均寿命が長く、低所得国ほど平均寿命が短いという一般傾向が認められる」「平均寿命と経済発展度(所得水準)の相関をみることができるが、経済発展度が低い割に平均寿命の長い国と高い割に平均寿命の短い国があるという点も明確に分かる」「すなわちキューバ、ニカラグア、エリトリア、エチオピアといった国は、経済発展度が低い割には平均寿命は長い。社会主義的政策をとる国がここに含まれる。平均寿命が1位の日本も所得水準では12位であり、また所得水準が79位の中国では平均寿命は57位であり、同様の特徴がある」

そもそも、1位の日本と10位のオーストリアでは約2歳半のちがい。2002年のデータだけど、1位の日本が81.9歳、6位のフランスは79.7歳、イタリアも同じ。アメリカは77.3歳で10位だが、日本との差は、約4歳半。

この小差に、どうやって食生活との相関関係をみたのか、みればよいのか、その根拠は、はっきりしない。

日本は「社会主義国」なみの社会保障制度や医療制度が充実し「悪平等」であったので、「小泉改革」はこれを破壊し続けた。その結果、いったん病気になると生活が破壊しかねない不安が絶えずつきまとうようになった。病気になると、仕事も失いかねない不安もある。この不安は、地方格差のなかで、地方へ行くほど大きい。

今回の「健康ブーム」の背景の一つには、そういう「健康不安」があるように思われる。ま、しかし、こういうことは、あまりマスコミでは報道されない。マスコミは厚生労働省の手先広報みたいなシゴトばかりしているのだな。栄養士の団体も、その厚生労働省の下請け団体。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/22

それぞれの南魚沼市リンク集

故郷で酒を飲んでくると、二日酔いと共に里心をひきずるのか、ブログで南魚沼市のことなど書いているのを見たりしたんで、ついでに、比較的新しい最近一ヵ月ばかりの中からテキトウに選んでリンク。

■まずは、知り合い系から

雑誌『談』編集長によるBlog 高千代酒造さん主催「五月まつり」に参加する…クリック地獄

たまみほ日記 六日町の山菜男…クリック地獄

万盛庵通信…クリック地獄

おれはここで生きている 高千代五月祭り(ガクさんのブログ)…クリック地獄

■ブログを検索

ありうおぬま言葉(ありさんが大好きな魚沼のことを語る)……クリック地獄

六日町温泉から…クリック地獄

無名講師日記…クリック地獄

グダグダな感じで…♪ 新潟快晴 …クリック地獄

徒然ブログ 「山のぼり」 (坂戸山登山の話、いい景色)
クリック地獄

こしひかり人の南魚沼通信 南魚沼市電子パンフレット…クリック地獄

ビール現場主義 ビールの現場から~新潟県南魚沼市「八海山泉ビール」①…クリック地獄

マラソンに行こう マラソン情報館 第20回記念 浦佐耐久山岳マラソン大会・健康歩こう大会…クリック地獄

FLORENTINA’S・DIARY こんな身近に水芭蕉…クリック地獄

温泉ニュースBlog 新潟・六日町の旅館10軒で6月6日に温泉を無料開放…クリック地獄

南魚沼市のパソコン教室くりっくのブログ こごめや木の芽がたくさん・・・ …クリック地獄

『山花写景』 髭じぃさんの撮り歩る記 カタクリ満開の越後・坂戸山 …クリック地獄

( ^^)丿゛パンパンパンっだ! 欅亭 南魚沼市 …クリック地獄

k麺の東海バカラーメン のばな@南魚沼市…クリック地獄

☆★☆アド街!うおぬま☆★☆ ゴールデンウイークも残り1日 …クリック地獄

猫にゃんにゃん ♪は~るよこい、は~やくこい♪・・・まだ冬景色!…クリック地獄

■ブログじゃないけど、ザ大衆食からリンクしている

ゆきぐにネット …クリック地獄
魚沼の四季 …クリック地獄
 

| | | コメント (0) | トラックバック (1)

高千代酒造 全国ファンの集い五月まつり

気がついたら家に帰っていた。

前にもこういうことがあって書いたとおもうが、最近は飲んでいる最中に飲みすぎて疲れを感じると、家に帰ってしまうクセがついたようだ。まことにお行儀のよいクセともいえるが、泊まって酒と山菜と温泉三昧をやるつもりで出かけたのに、気がついたら家に帰っていたとなるとソンをした気分だ。

ま、とにかく、きのうは高千代酒造の五月まつり、全国から南魚沼市は塩沢地区長崎にある高千代酒造にファンが集まった。おれはここ数年欠かさず出席しているが、年々盛況になる。詳しいことは、一緒に行って一足先に帰った佐藤真さんが、すでに「雑誌『談』編集長のブログ」に書いているから、そちらをご覧くださいよ。…クリック地獄

今年は大雪の影響で例年より半月遅れぐらいで田植えなどが進行し、山菜もイマが絶好調、この時期でないと食べられない山菜が食べられた。

おれは佐藤さんたちが4時半ごろかな?帰ったあとも会場で飲み続け、さらに地震で店と自宅を失いながらも再建、その再建中に火災で全焼、さらに再建中に水害という、三悪にめげず再建をはたした「味の家 魚野川」の覚張(がくはり)さんと六日町の万盛庵へ。さらに飲む。ここで、ホテル宮又に泊まっていた方も加わり飲んでいたが、しだいに記憶喪失、覚張さんがいつ帰ったか覚えていない。とにかくラーメンを食べてうまかったことは覚えている。

で、アア飲みつつ疲れた、と、帰って来てしまったのだなあ。シマッタことしたなあ。宿の予約を先にしておけばよいのだが、いつも成り行きだから、こうなってしまうのだなあ。それに、これは覚えているぞ、前は六日町駅を9時20分ごろの電車に乗らないと帰ってこれなかったのが、いまは9時54分に乗れば、12時ごろには家に着いてしまうのだ。

ま、とにかく、そういうわけだ。残念なことをした、せっかく電車賃かけて行ったのに温泉にも入らず……酔ったら家に帰るクセを直さなくてはいけないな。

とにかく、いま南魚沼は、山菜絶好調、田植えあとの景色もいいねえ。高千代の酒、もちろんうまい! しかし、しまったなあ、いまごろはゆっくり温泉につかって、夜はまた万盛庵で山菜でイッパイやるつもりだったのに。でも、酒も貰ったりでタップリあるし、こごめも貰ってきたし、今日はこれでイッパイやろう。でもウゲゲゲと、まだ酔っているが。

万盛庵じゃ今週の水曜日、明後日、「春ノ山菜ト生ビイル・地酒ヲ楽シム会」ヲ挙行スル」ようだ。まんちゃんの万盛庵通信みて万盛庵へ行こう。行きたいなあ。……クリック地獄

高千代酒造のサイトを見て高千代を飲もう……クリック地獄

ザ大衆食「六日町 大阪屋 高千代酒造 満足泥酔紀行」……クリック地獄

ザ大衆食「故郷という六日町」……クリック地獄

ああ、疲れた。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/20

予告、夏をのりきる「擂鉢主義」

暑いなあ。へろへろへろへろ~、また、この夏を、どうのきるかだ。
昨年は当ブログで、二つの「夏をのりきるリンク特集」をやった。今年は、テーマだけは決めてある。「擂鉢主義」だ。それでまたリンク特集をやるつもりだ。なぜ擂鉢主義なのかは、そのときの話として、昨年の夏をのりきるリンク特集は、以下に。
「冷や汁」も擂鉢を使うのだけどね。もっと簡単なものを、今年はリストアップしたいと思っている。擂鉢は、貧乏美味のための力強い見方なのだ。外食に投資するぐらいなら、擂鉢を買おう。

2005/06/27
夏をのりきる「冷や汁」リンク特集…クリック地獄

2005/07/10
夏をのりきる「卵かけごはん」リンク特集…クリック地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (1)

「健康ブーム」って、品がないね

来月6月15日発売の「食品商業」7月号のお題は「健康ブーム」なのだ。いろいろたてこんでいるから、21日の締め切りだが、今日仕上げて送ってしまった。

だいたい「ブーム」というのは過剰で陳腐なものだけど、今回の「健康ブーム」は、さらに暗く不安と不信に満ち満ちていて陰鬱で、そして品がない。1970年代にも「健康志向」と「本物志向」が流行するのだが、まだ明るく希望に満ちて品があった。

おれが「品」を口にするなんて、柄じゃないが、品を気にする人たちのために、この言葉を使っている。ほんと、いまの「健康ブーム」は、品がない。そもそも、健康不安を煽るなんて品のないことだし、煽られて先を争って健康に群がる姿もあさましく品がない。

だいたい、楽しそうじゃない。日々楽しく生きられなくて、なんの健康だ。
説教くさい。
インチキくさい知識の押し売りだ。
おれは飲むのに忙しいのだ、健康の話をしているヒマはない。

しかし、世界一の長寿国日本で、なぜかくも品のない健康ブームが起きるのか、という点に注目すべきなのだ。という感じで書いた。

幻堂出版から、「最近の仕事です!」と二冊の本が送られてきた。あいかわらず猥雑のままの洗練で、いい仕事をしている。

一冊は先日5月16日に書いた、「今宵も十トリで乾杯! 十三トリスバー五〇周年記念誌」だ。
一冊は、「福満しげゆき・原点 10年たって彼らはまた何why故ここにいるのか…」だ。

詳しい紹介は、後日する。「10年たって彼らはまた何why故ここにいるのか…」って、おれもなあ、10年たって、まだここにいるのだが。

ほかに、漫画屋から「レモンクラブ」も届いているのだ。南陀楼綾繁さんの「活字でも読んでみっか?」は今回90回目で最後になる。取り上げている本は、阿奈井文彦さんの「名画座時代 消えた映画館を探して」。写真のキャプションに、塩山編集長は「90回もよく続いたヨ。本連載もその後の本誌も…」と書いている。ま、ようするに、エロ漫画で、このような書評紹介をやるアソビをする余裕もなくなって連載打ち切りということなのだな。

この「活字でも読んでみっか?」では、2000年1月号で拙著「ぶっかけめしの悦楽」を取り上げてもらった。南陀楼さんのブログ5月15日に「「活字本でも読んでみっか?」で取り上げた本」リストがあって、そこにも載っている。これを見ると、「活字本でも読んでみっか?」は、同じ漫画屋制作の『Mate』(一水社)で継続するらしい。

とにかく、あのころおれは「南陀楼綾繁」という名前を知らず、その「レモンクラブ」で初めて知ったのだった。南陀楼さんと初めて会ったのは、それから約2年後の2002年の秋、西日暮里の「遠太」で。

ま、チトいまは忙しいので、これぐらいで。阿奈井文彦さんの本は、これまでほとんど読んでいるから、この件は、また後日に書く。だろう。

マズイと思っても、それを個性だと思って味わうことが、なんに関しても必要だね。
本当のプロは、煽ったり脅したりや、知識の押し売りはしない。
プロぶった栄養学の先生がする知識の押し売りなどは、インチキが多いってこと。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/18

田村高廣と「泥の河」と大衆食堂

田村高廣さん、死んだんだってな。田村高廣さんといえば「泥の河」の大衆食堂のオヤジだ。きんつばを焼くのが「趣味」の。

某テレビ番組の制作で一緒に仕事したフリーの演出家は、「泥の河」のような映画をつくりたい!と言っていたなあ。

吉永早百合さんが出演の「キューポラのある街」にも、大衆食堂が登場する。「大衆食堂の研究」に書いたが、「鶴亀食堂」だ。朝鮮人が経営する食堂だ。

「泥の河」の大衆食堂も「キューポラのある街」の大衆食堂も、底辺の舞台だった。それも生やさしい底辺ではない。そのことをレトロなきれいごとのなかに捨てちゃあならねえだろう。

大衆食堂のオヤジの田村高廣さんに、泥酔黙祷!

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

野菜炒めからスローフードとロハス

「現代日本料理「野菜炒め」考」を退屈男さんに送ったら、ブログで当ブログ内の「野菜炒め」関連のリンクを、おれの酔態顔リンクつきでまとめていただいた。ありがとう。……クリック地獄

今回、「野菜炒め」を考えたことから、派生的にいろいろなことがチカチカ思い浮かんだのだが、というのも野菜炒めのような現代日本料理は、ガスの普及と密接な関係があると考えられるからだ。

全国レベルでみれば、台所の火は戦後、炭と薪から電気とガスへと大転換する。敗戦直後の東京でも、「食糧難」だけが話題になりがちだが、電気とガスがなければ食糧が手に入ったとしても料理して口にすることができない状態があり、電気ガスつまり近年の言葉でいう「ライフライン」の復旧が急がれた。

「食糧安保」という言葉があるが、電気ガスのエネルギー源を輸入に頼る日本の場合、食糧だけではダメなのだ。電気ガスがなくては、コメすら食べられない。「食糧安保」をいうなら「料理安保」も必要だろう。

となると「安保」という言葉自体が、とても古い「炭や薪」時代の国家感覚であり、ま、仮に「安保」でもよいのだが、それは「脱国家・超国境」のエネルギーの時代として考えられなくてはならない。もうすでに、そういうエネルギー構造のうえに、日々の料理があるのだ。と考えると、どうも近頃の「食育」にせよ「愛国」にせよ、あいかわらず「炭や薪」時代の国家感覚のままだと思われた。

しかし、「炭や薪」時代の国家感覚やナショナリズムならば、あの「四島返還」問題は、どうなったのだろうか。靖国参拝で満足する国家感覚やナショナリズムとは、なんだろうか。もしかすると、靖国参拝のクローズアップは、「四島返還」問題から目をそらす役割をしてはいないか。となると、いまサハリンですすんでいる、大規模地下資源開発にからむ国際利権関係が気になる。「料理安保」の視点からすれば、イラン・イラク、尖閣列島、サハリン……、そこらあたりの関係を、別々にみるのではなく関連付けてみなくてはならないようだ。ムネオ外しをしたミッションの企みは何か?とかね。

ということであると、あの「スローフード」と「ロハス」だが、スローフードはアメリカのグローバル戦略に対抗するイタリアの戦略として聞こえているようだが、一方で似て非なる「ロハス」はアメリカ生まれだ。となれば、イタリアの「スローフード」に対抗するアメリカの戦略が「ロハス」ということか。

「スローフード」も「ロハス」も、「地産地消」を謳っている。日本では、どちらにせよ、「炭や薪」時代の国家感覚につながりやすい動きのように見えるが、元の発祥国に視点をおいてみれば、それはイタリアのグローバル戦略でありアメリカのグローバル戦略だろう。「脱国家・超国境」のエネルギーの時代の戦略なのだ、という感じがしないでもない。

いま「雑穀」もブームであり、たとえば蕎麦も含まれるが、この日本の雑穀ブームを追っていくと大手商社にぶちあたる。伝統の雑穀料理だから、「地産地消」かと思えば、そうではない。だが、イメージは、「炭や薪」時代の国家感覚の伝統食だ。納豆や豆腐など食べれば食べるほど、輸入依存度は高くなり、商社が頼りだ。「国産愛好」「伝統愛好」が商社頼りになってしまう構造。

そして、その商社は、「脱国家・超国境」のエネルギーとも密接にからんでいる。商社といえば、あの田中ロッキード事件から、あまり表舞台に出てこないが……。そして田中ロッキード事件といえば、油田開発つまりエネルギーが絡んでいたらしい。ふーむむむむむ……と、野菜炒めから思わぬ連想ゲーム風にアレコレ考え、けっきょく何もわからないのだが、ま、とにかく、一方に「炭や薪」時代の国家感覚があり、一方に「脱国家・超国境」のエネルギーに頼る料理がある、というわけだな。

騙されないようにするのは、ムズカシイ。イイカゲンがちょうどよいか。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/17

自分で書いた忘れていたことを思い出す「東京定食屋ブック」

検索でウロウロしていたら「「東京 定食屋ブック」ーーおいしくご飯を食べようよ」という記事があった。「香りを聴くーー心身一如のアロマセラピーBlog 」の5月16日、きのうだ。

読んだら、おれの文章が引用されていた。

「大衆食堂では、なんとなくフツーにすぎていく、
フツーの日常が新鮮に見えることがよくある。
……この数十年のあいだに、東京は世界中のものを導入し……
実務的な洗練されたオシャレでおいしい店はふえた。
一方で土着的な人間臭い東京らしさを失ってきたが、
大衆食堂には、その「らしさ」が息づいている。
気取らない力強い食事、その建物や空間、
とりわけ食堂のおじさんやおばさんとのふれあいは、
ここにしかないものだ。」

自分で書いた文章だが、すっかり忘れていて、こうやって引用されたのを読むと、はあ、まったくそのとおりなんだよなあ~と自分で感心してしまう。自讃。

「この本を企画協力されている遠藤哲男さんの、チカラの入ったHPです」と、ザ大衆食のサイトまで紹介されている。ありがたや。「てつお」の「お」は「夫」が正解なんだけど、どうでもよいね。

しかし、近頃は、ボケがまわったのか、アルコールで脳が腐っているのか、自分で書いたことをスグ忘れてしまって、困ったものだ。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

吉本隆明『「食」を語る』とレバカツ

吉本隆明さんの『「食」を語る』(聞き手・宇田川悟、朝日新聞社、2005年)を見ていたら、レバカツの話が出てくる。戦前の話で、日中戦争から太平洋戦争開始のころのことか。一家は東京の月島に住んでいて、よく学校帰りに買い食いした「三浦屋のレバカツ」の話だ。三浦屋はもうないらしいが。吉本さんは、これがお気に入りでよく食べ、またそのことをよく書いているらしい。レバカツのことを「肉フライ」とも呼んでいたようだ。

レバカツがくいたくなった。
ついでに「ホルモン」というのはレバやハツを含まないのかな、気になった。内臓なら「ホルモン」という場合もあるようだが……。

しかし、戦前でも、東京の下町あたりじゃ、惣菜を買ってきたり買い食いはアタリマエだったということが、あらためてわかった。ハムカツをパンにはさんで食べるとうまいが、レバカツもソースをたっぷりかけパンにはさんで食べるとうまそうだなあ。

当ブログでのレバカツは、2005/09/14に新宿のション横「つるかめ」のレバカツのことを、書いている。……クリック地獄

いま思い出したが、日本橋の「たいめい軒」のレバカツも、かつては有名だったな。

検索したら、「レバーフライ・レバカツ 1 (月島) B級グルメと旅行と日記」というのがあった。……クリック地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/16

サントリー「WHISKY VOICE」に十三トリス

牧野伊三夫さんからサントリーが発行する「WHISKY VOICE」No.24が送られてきた。知らなかったが、牧野さんがアートディレクションと絵を担当しているんだな。

その表紙を飾る絵は、なんと、「十三トリス」だ。表2には、その説明がある。トリスバーファンもちろん酒飲みたちのあいだで知るひとぞ知るこのバーは、今年3月50周年を迎えた。

それが、なんと、それを記念しての「今宵も十トリで乾杯!~十三トリス50周年記念誌」は、幻堂出版で制作なのだ。もう出来上がっているころか。ああ、こんど大阪神戸方面へ行ったときは十三トリスにも寄りたい。

牧野さんの手紙には、『談別冊 shikohin world 酒』のなかの、おれが書いた「浴びるほど飲む人はどこにでもいる」を読んでおもしろく、「ひざをたたきながら拝誦」「この名文はコピーして、ただちに方々へまわして……」などとあった。がははは、そりゃ、あんた、牧野さんも「浴びるほど飲む人」だからでしょう。でも、うれしいね。すべての酒飲みは、この一文を読むべし。

出張日誌 WHISKY VOICE No.24も、ご覧あれ……クリック地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (2)

食品商業6月号「「魚食べない」も時代の流れか」

いろいろなものが届いているが、まずは、「食品商業」に連載の「食のこころ、こころの食」だが、今回のお題は、「「魚食べない」も時代の流れか」だった。

編集部の注文の冒頭には、「今回は「水産物への思い」をお書きいただきたいと考えました」とあった。じつは、この号の特集は、「ストップ・ザ・さかな離れ 10年後売上高半減を食い止めろ!」というもので、それに連動しているのだ。

こういうテーマというのは、うんざりだ。もともと、タテ割り行政がもらす結果のデータをもとに、厚労省のデータではこうだ農水省のデータではこうだと、「魚離れ」の結論をあらかじめ決めてかかっている。そこでは、例によって「食生活の欧米化」や、「丸魚をさばけない、魚のカタチも知らない」消費者が俎上に上げられる。またもや悪いのは「洋風かぶれ」の消費者だ!

であるから、うんざりのまま書いた。しかし、また繰り返し思うのだが、「近代日本食」という視点を持てないのは、なぜなのだろうか。近代、日本は「欧米化された」という「被害者意識」というか、コンニチの日本の食生活が他動的につくられ、ワレワレ日本人は受動的立場であり、なんら責任がないかのような「食生活の欧米化」論が前提になっている。もうこういうことにイチイチ反論する気も起きない。

平成18年水産白書によれば「約40年間で購入量は16kgから12.8kg。供給量は17kgから39kgへ」ということだそうだが、それにしては、なぜ魚はかくも高いのかということは問題にならずに、その購入量が減ったところだけに焦点があてられる。ま、それは業界誌の限界なのかも知れないが。けっきょくなんだね、しょせんタテ割り行政の駒にすぎないってことだ。

日本は水産大国だったが、それは生産の伝統であって、あるいは消費量の伝統であったかも知れないが、必ずしも料理つまり食べ方の伝統ではなかった。そこにこそ魚食モンダイの課題がある。というのがおれの主張。

食糧があれば「食生活」が成り立つわけではない。料理をしなくてはならない。そしてその料理のためには、日本は輸入に全面的に頼るガスや電気が必要だ。「伝統」の米すら、輸入に頼る電気やガスがあって、「めし」として食べられる。そうした料理の諸条件から対策を考える思考力がなかなか育たない。高尚そうな道徳的観念や精神論をふりあげて終る。

「食生活の欧米化」をモンダイにするひとは、秩父の山奥でイノシシやクマと暮すとよいだろう。海の生魚など届かない山中に。姿カタチがわかる海の生魚が入手しやすくなったのは、ほんの近年になってからのことだ。それは「欧米化」の結果ではなかったのか。また供給量の増加をもたらした養殖技術や漁獲技術の向上は、「欧米化」の結果ではないのか。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

某大衆食堂の常連の死を知る

もう昨日になってしまったが、おかしな日だった。サガシモノあって、京浜東北線の北区上中里駅で降りるつもりだったのに、東十条で降りてしまった。それでも上中里で降りたつもりだから、歩いても目的地域に着かない、気がついたら王子の近くだった。めんどうなので、そのまま都電沿いに歩き、目的地域である、栄町へ。都電栄町駅周辺から次の梶原駅周辺をウロウロ。サガシモノは見つからず、明治通り沿いに歩き、尾久駅へ出る。はあ、歩きつかれた。

とりあえず、というには遠すぎるが、東京の東の端、江戸川区小岩へ。どういうつながりなのか、説明はつかない、カンというか気分というか、そういうものだ。小岩、濃いわ、ってシャレじゃないが、濃いところを歩き、ま、ふらっと行ったわりには、よかった。約十年ぶりぐらいか? ときわ食堂に入る。

久しぶりに入った食堂で、いつも思うのだが、たいがいオヤジは老けているのに、オバサンは、あまり老けていない。オンナの生命力か。ま、ときわ食堂のことは、いずれザ大衆食のサイトに。

小岩周辺でも歩きくたびれヨタヨタと電車に乗り帰途につく。あまりにくたびれたので場末の大衆食堂で一休みと思い途中で下車。入ると、すでに常連が2人飲んでいた。……と、ミナベさんが死んだという。えっ、冗談でしょ。いや、ほんとなんだよ。

ミナベさん。月半分は働かないことを「ポリシー」に生きていた男。娘が2人いたかな?女房に捨てられた男。貧乏なくせに南千住の大利根のオンナに貢いだ男。タクシーの運転のあいだに酒を飲み碁を打っていた男。ボーダーで生きながらホームレスにならなかった男。……エピソードをたくさん残して、おれより10歳若く死んだ。同じ食堂の常連だったコバヤシさんも死んだときはミナベさんと同じトシぐらいか。ヨシオくんは、もっと若く死んだ。そして、こんどはミナベさんだ。ここ数年のこと。みな世間的にはロクデモナイ連中だが、はたしてどうか。うらやましいなあ、ああいう生き方をして、ああいうふうに死にたいよ、と、残ったものが荒野に残された気分で、ナゼか寂しく不幸に思う会話をして飲む。

帰宅。そして、ミナベを思い出のサカナに飲む。あいつとは、もっと話したいことが、たくさんあった。

| | | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/05/14

須田泰成コメディノロジー研究室から食と料理の喜劇性をへろへろ

コメディ・ライター&プロデューサーの須田泰成さんがblogで「須田泰成 コメディノロジー研究室」を立ち上げた。目下、コメディノロジー入門講座という感じであるが、おもしろい。読んでいると、いろいろ食と料理について、頭のなかで豆電球が点いたり消えたり、ひらめくことがある。

そもそも「食べる」ことは、かなり喜劇的だ。喜劇的すぎて悲劇になってしまうことも少なくない。あるいは、悲劇的すぎて喜劇になってしまうのかも。グルメや食べ歩き飲み歩きの「ブーム」、健康「ブーム」……ま、「ブーム」というのは、そういうものだけど。いまあるのかどうか知らないが、東京テレビの「チャンピオン」シリーズは、そういうブームな食の喜劇(ブラック・コメディ)だったと思う。

その「食べる」ためにしなくてはならない「料理」は、さらに喜劇的だ。料理は、ミスマッチと逆転、置き換え……そのバランスで成り立っている。人間は、そういうメンドウをしながら生きている、もっと動物だったら、よかったのになあ。と、そのメンドウがめんどうになり、誰かを殺したりする。とか、ね。

須田泰成コメディノロジー研究室……クリック地獄

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/13

野菜炒めをやろうリンク集

入谷コピー文庫版『現代日本料理「野菜炒め」考』の発行を記念して野菜炒めリンク集をつくってみた。たくさんある、たくさんあって作り方が、それぞれビミョーにあるいは大きく、違う。この、ありふれた料理、クズ野菜でも作れる美味。あなたは、どう作るか? まわりの人は、どう作っているのだろうか? どんどん作ってみて、「自分の味」を探求しよう。ここには、ほんの一部を紹介。

料理のABC All About 夕飯の献立に困ったらコレ! 野菜イタメ (卵入り野菜炒めもあるよ)

中華大事典 肉野菜炒めの作り方 (ようするに中華な作り方)

『ウィキペディア(Wikipedia)』にも野菜炒めがある

野菜炒め (辻学園指導だとこうなる)

食の豆知識 (つけもの大学の野菜炒めだ)

野菜炒め (いつも、残りの野菜を使って炒めているのですが、何を炒めても良くて、何をあわせても良くて、どんな味付けをしても、野菜を炒めていれば野菜炒めと呼べるところが気楽で自由な感じがします。その分、いつも同じだと飽きてしまうし、凝る人は凝るのではないかなと思います。)

キムチ野菜炒めのレシピ (韓国風にもやってしまうのが日本風?)

俳優・金山一彦blog 野菜炒め(豆板醤入り)レシピ 作り方 (俳優・金山一彦さんのことは知らない)

スタミナ野菜炒め (ナスを使ったスタミナ野菜炒めなんて、これからの季節いいかもな)

筍づくし~野菜炒め (蕗を使っている。「薔薇の吐息」というブログタイトルだが……)

夏バテ解消!酸味の効いた美味しい野菜炒めレシピ

野菜炒め定食 (川崎ゆきおさんの小説だよ。川崎さん、元気にしているかな)

花を見て月を愛でる 肉野菜炒め入りラーメン (インスタントラーメンも、こうすればさらにうまくなる)

que sera sera:ケ・セラ・セラ…つれづれなるままに なるようになる 野菜炒め (マヨネーズをつかうとどうなるか)

ぐるなびレシピ タイ風ミックス野菜炒め (白ゴマ入りってとこがね)

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/12

現代日本料理「野菜炒め」考

Yasaiiameきのう書いたように、入谷コピー文庫から発行の『現代日本料理「野菜炒め」考』ができあがった。限定出版、非売品なので、ここに資料として目次だけ掲載しておく。

1962年18歳の春、上京して
初めての野菜炒め
郷里では知らなかった
キャベツ炒めをやってみる
料理は好き好きのもの
料理の原理をアレコレ考える
「焼く」と「炒める」
戦後の田舎の台所の火
油味噌と炒飯
薪と炭の現実、炒め煮
台所の火の現実と料理
NHK、『これだけは知っておきたい料理』
江原恵、『【生活のなかの料理】学』
油の普及ときんぴら
クソマジメなきんぴらと野菜炒め
日本料理と生活料理
生活料理「学」をめぐって
帝国がなくなる未来を夢見て
栄久庵憲司、『台所道具の歴史』
『日本の食生活全集』
アイマイな火と伝統の幻想
国際関係の野菜炒め
アイマイさと雑多性の野菜炒め
現代日本料理らしさ
「季節の味」の本末転倒
「おふくろの味」と「自分の味」
生きている証の「自分の味」を大切に
「日本型」と「自分の味」
最後、または野菜炒めのまとめ
最後の最後……野菜炒めと日本料理の未来のために

編集後記

表紙デザイン=元吉 治
表紙イラスト=彦坂美奈子
編集=堀内家内考業
A5版 本文25ページ


読み返してみると、くどい割には説明が不親切なところがあった。とにかく、野菜炒めの普及は比較的新しい。フライパンとガスの普及が関係していると考えられる。となると、全国レベルでは戦後のことになる。

フライパンとガスの普及は、鎌倉期以後の擂鉢の普及に匹敵する革命的なデキゴトなのだ。また、野菜炒めを作れなかったワタクシと作るようになったワタクシの違いは、現代以前と以後の違いでもある。そのことを、野菜炒めをやりながら実感してほしいものだ。

野菜炒めは、現代そのものだ。それに、やはり、自分で作る自分の味を持つことは、現代人として、けっこう大切なのだ。食べ歩き飲み歩きだけじゃなく、野菜炒めをやってみよう。

てな、ことであるね。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

秩父市 パリー食堂

きのう小鹿野町からの帰り、秩父市内でパリー食堂を見つけた。その名前、その建物、戦前のモダニズムの気分を貯えて、しかし、うーむ、「レトロ」というより落剥の風情色濃い。入ってみた結果は、ザ大衆食のサイトに掲載……クリック地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/11

よいイノシシだったなあ

Inosisi9日から秩父郡小鹿野町山中へ。またもや、イノシシを食べる。4月16日「森林の再生か肝臓の堕落か」に書いたイノシシも、かなりよい肉だったが、今回は、ここ10年で最高の肉だった。よいイノシシ肉の見方など知るはずもないのだが、一目見たときから、「オッ」と思わせるものがあり、写真に撮った。しかし、酔っていたのか、ブレている。なにしろ飲み続け。でも、肉の感じは、わかるだろう。冷凍のかたまりだが、鮮やかな赤色、白いなめらかな脂。茶色気味に濁っていたり、脂に黄色が入っているのとは、あきらかに違う。うまかった~。

そうそうそれで、その4月16日に掲載した写真の二子山だが、ここで毎年一人は死んでいると書いたが、おれたちが登ってから2週間後に、滑落で死者の出る事故があったそうだ。どうやら、この写真の頂から向こう側へ下る途中だったらしい。50何歳かの女性とか。イチオウ一般登山道なのだけど、峻険な岩山だからなあ。この調子じゃ、まだ今年中に死者が出るか。

帰ってきたら、堀内恭さんから入谷コピー文庫「現代日本料理「野菜炒め」考」ができあがって届いていた。おれの貧相的特徴がよく出ている表紙イラストは、入谷コピー文庫初のカラー。すでにご希望の方、2、3日中に発送しますから、しばらくお待ちを。

| | | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/05/08

テーブルの拭き方

挨拶の仕方やオシボリの出し方など、つまり直接的な「接客」については、店側も客側も気にすることが多いようだ。でも、テーブルの拭き方となると、かなりイイカゲンかつアイマイという感じになる。とくに客にとっては、自分が座ったとき、見た目キレイなら文句はないのではないだろうか。添加物にウルサイ人でも、テーブルを拭くのに、汚れ落としに、どんなものを使っているか気にしている人も、少ないようだ。

じつは、飲食店で、テーブルを拭いているところを見ると、とても気になる。店側からすれば、「効率よく」キレイに拭く方法は、ある。その「効率よく」は、元来は、固く絞った布巾を使って「短時間」でキレイにする方法だった。テーブルのどの位置から、どの方向に拭いていき、最後は、どこからどう拭くかの順序が関係する。短時間で、確実にキレイにする方法だ。そこのところを、よく考えてやっているなあ、という店は、あまり見かけない。食べ物について能書きたれても、そこまでは能書きがないらしい店が多い。客がいるのに、平気でスプレーをつかってテーブルをキレイにする、よい酒とツマミで人気の居酒屋もある。

それは客についても、おなじことがいえる。自分のウチのテーブルを拭くときは、どうだろうか。店でオシボリの出し方をうるさくチェックするひとが、自分のウチでテーブルを拭くとき、どう拭いているか気になる。自分のウチでは、オシボリより、テーブルの拭き方が、重要なはずだ。それとも、妻か夫に、オシボリの出し方を仕込んでいるのだろうか。たいがい、手は自分で洗ってキレイにするだろう。

そういえば、オシボリなんか、いつからアタリマエになったのかねえ。ある大衆食堂の常連さんは、店のオシボリを使わない。店の隅にある小さな手洗いで手を洗い、自分のハンカチで拭いて席につく。自分の手を清潔にしたいなら、それがスジだろう。オシボリの出し方より、テーブルの拭き方が大事なような気がする。それは見えないところでの頭の使い方でもあるだろう。もっとも、おれは、客がいても平気でスプレーをつかってテーブルをキレイにする店で、平気で酒を飲む。そして、オシボリの出し方をチェックするようなことはしない。

| | | コメント (0) | トラックバック (1)

コナモンの日にフライを食べ酒を飲む

4月30日「コナモンの日そして下谷神社大祭にフライ」に書いたように、きのうは下谷神社大祭へ。

祭りは最終日なので早めにと思い、上野駅交番前2時集合にした。「どなたか一緒に行きますか~」の呼びかけに応じたのは、コメント欄で吸うさん、メールでタカスさんにカワカミさんだけ。おれって人気がないねえ。しかし、人気があると、たくさん集まってメンドウが多いから、メンドウが嫌いなおれには、これぐらいがいいや。

しかし、吸うさんは怠けものの節句働きで、普段平日駄目な野糞でコンニチハと飲み歩いているため、日中はオシゴトだそうで脱落。タカスさん、カワカミさん、それにウチザワさんがあらわれた。雨の中ゴクロウサンと下谷神社に向う。途中、神輿が。と、それを見る人だかりの中から、タカスさんの知り合いの女性が声をかけてくる。おお、一緒に行きましょう。

下谷神社の屋台は神社を囲む細い路地にギッシリ並ぶ。前より増えたような気がする。それに、名前忘れたが、中東風屋台や中華風(薄くのばした皮にギョウザのアンのようなものをはさんで焼いた中国餅類)など屋台も「国際化」しているねえ。

フライの屋台は、例年と同じ場所にあった。百円置いて、1個取り、刻みキャベツが浮いたタレにつけ、刻みキャベツをフライですくう要領であげ、そのまま一口でアグッとやる。ま、とくにうまいものではないけどね、つまりなんだね、フライの衣にソースをタップリつけて食べるようなものですな。そういうものを、なぜか「懐かしい素朴な味」と感じるのだからフシギ。

しかし、これは2つも食べる気はしない、たいがいの人が1個だけ。となると、屋台のオニイサン2人がかかりで、1個100円のもので、儲けはどうなのか? と、自分の儲けの計算はヘタそうなカワカミさんが気にしていた。

コナモン好きのウチザワさんは中華風も食べ、とにかく「コナモンが好きなの」というから、コナモンの日にふさわしい人だ。それに屋台の食べ物は圧倒的にコナモンが多いね。ぐるりと屋台を見てまわり、周囲の民家も風情がある。むかしの縁日には必ず本を叩き売りする人もいたのに、カワカミさんやりなさいよ。神社で、お参り。町内ごとの手ぬぐいが展示されている。売っていれば買いたいなあ。などなどで、予定どおり「聚楽台」へ。

さあ、生ビールだ、グビッグビッ。カワカミさんウチザワさん夫妻は先に帰り、さらに3人で飲む。しかし、「聚楽台」あたりで飲んでいては高くつくぜ、安い飲み屋にしよう。どこへ? 日曜日だからなあ、鶯谷の「信濃路」なら間違いないだろう。ついでに歩こう。

信濃路で、ハムカツ、ポテサラなどつまみに、日本酒、ホッピーなど、ああ酔ってきた腹もいっぱいだ帰ろう。またね~。

おっ、ウチザワさん(内澤旬子さんのことね)の本、『センセイの書斎 イラストルポ 「本」のある仕事場』(幻戯書房)が出るのじゃないか。……クリック地獄

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/05/07

暗闇の人生も悪くない

きのう瀬尾さんから宅急便が届き、なかの手紙を見て、眼が点、いや開放無限大、頭のなか真っ白、いや真っ黒になった。そこには、「ダーツやビリヤードをしたの覚えていらっしゃいますか」とハッキリ書いてあるのだ。覚えてねーよ。

4月26日の日記に書いた横須賀風呂会の夜のことだ。銭湯のあと入った大衆酒場の途中から、もう記憶はない。そこで撮影した写真も、あとでデジカメを見てわかったぐらいで、牧野さんとタクシーに乗ったこと、牧野さん宅で大吟醸酒にケチをつけながら飲んだことなど断片的に記憶にあるだけで、まさかダーツやったりビリヤードやったりなんて、とんでもねえ。しかし、酔って記憶を喪失しているあいだにイロイロ楽しんでいるものだなあ。これは、おれの人生の一部になるのだろうか。やはり記憶されない人生は記録されない歴史と同じで「無」なのだろうか。「色即是空」だな。「色即是空」は、泥酔した結果、悟るものなのだな。でも、おれと一緒にいた人は、おれが記憶がなくても、おれと一緒にいたと思うのだよな。おれは記憶してないけど他者によって記憶されている。となると、やはりそれはおれなのだ。これが「空即是色」か。はてさて、やれやれ。

なんだね、酔って意識が失われいくときというのは、闇が降りてくるようなかんじで、そして何もわからなくなるんだが、それで寝てしまわないってのがオカシイね。以前は、よく往来で寝てしまって、気がつくと顔にコンクリートのあとがベッタリついていたりしたけど、最近はそういうことはないようだな。帰ってきても服は汚れてないし。そのかわりダーツやったりビリヤードやったりなのかあ。ま、そういうのもいいかもね。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/06

北区十条 大衆食堂てんしょう

ビーフステーキがある大衆食堂、北区十条銀座のてんしょう、ザ大衆食のサイトに登場……クリック地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/05

太田尻家開店2周年運動会と「酒とつまみ」

きのうは、世田谷区は経堂の太田尻家開店2周年記念運動会が、昨年1周年と同じように砧緑地で開催された。行った。去年と同じように、砧緑地は遠いと思った。遠いのだが、渋谷で田園都市線に乗り換えたら、車内の広告は見たことがある親しみのあるダサイ系だ。あれれれ、と気がついたら、地下鉄半蔵門線経由で田園都市線に乗り入れている東武伊勢崎線の車両だった。車内の広告は、栃木埼玉系ローカルが占めている。用賀だニコタマ(二子玉川)だと高級ぶっているが東武の仲間なのだなあ。がははは。

みなは1時ごろ集まったようだが、おれは「運動」より「酒」だから、ゆっくり出かけ3時過ぎに到着。ただちに飲み始めた。昨年お会いしたひともいたが、さらに初めての人も増えて、大盛況。太田尻家家長は、おれより10歳ぐらい年下、その彼が一番年上で、集まったお客さんたちはみな若い。まあ、みなさんよく運動してました。体力ありますなあ。おれは飲むだけ。缶ビールを何本か飲んだあとは、出羽桜をグイグイ。聞けば、酒は、太田尻家出入りの酒屋に、砧緑地まで配達してもらったのだそうで、タンマリある。

昨年は飲みすぎて泥酔し、電話ボックスで電話しているあいだに眠ってしまった。そこを須田泰成さんに撮影された。当ブログにある……クリック地獄

今回は、そのようなことがないよう、正しく押さえながら飲もうと思っていたが、飲み出せば、外で晴れて気持がよいし、飲める飲める。みなさんと足元が暗くなるまで過ごし、やっとこさ、意識もうろうで帰ってきた。たいした運動をしたわけではないが、それでも晴れて新緑が気持がよく、ときどき奇声を発しながら駆けたりしていたから、なんだか疲れたなあ。

そうそう、やっと最近発売になった「酒とつまみ」8号、南陀楼綾繁さん連載の「古本屋発、居酒屋行き」は、「経堂 古雑誌が似合う街」なのだ。例によっておれはレギュラーゲストで参加、荻原魚雷さんと大阪の「ちょうちょぼっこ」の次田史季さんがゲストで、遠藤書店などを廻り、太田尻家で飲んだ様子が書かれている。太田尻家のお客さんは古本好きが多く、好評だった。太田尻家は、うまいぐあいに遠藤書店本店と同じ「すずらん通り」にあるのだ。

そうそう、須田さんたちが運営する「経堂系ドットコム」には、遠藤書店×経堂系ドットコム コラボレーション企画「KYODO BOOK CAFE」というページがあって、「遠藤書店の100円均一コーナーで見つけた本」を酒場に持ち寄って自慢しあうようなことをやっている。地域交流法としても、なかなかオモシロイ試みだね。こちら……クリック地獄。高田馬場「古書現世」で100円均一を500円分買って、「とんちゃん」で自慢しあうなんてこともできるかな。ま、おれは古本買うぐらいなら酒代にするけど。

そしてこの「酒とつまみ」8号の表3には、須田さんの「くだらない笑いに社運を賭ける!」会社「大日本生ゲノム」が半分の広告を出しているのだ。須田さんには、広告主として、「酒とつまみ」編集部に対し、もっとちゃんと季刊発行するよう泥酔圧力をかけるようお願いした。あんなに遅れて発行しているのに、太田尻家では20冊のうち12冊は売れてしまったそうだ。しゃくな雑誌だ。

須田さんの奥さんが「女王道」を追究する新宿ゴールデン街の「マチュカバー」もおもしろくなってきたそうだ。

みなさん、いろいろ元気に活躍している様子を見たり聞いたりしながら飲む酒は、なおうまく、どんどん飲めた。はあ、しかし、もう昼なのに、まだ頭が痺れている。でれでれでれどろどろどろ。何を書いているか、よくわからん。

太田尻家のサイト……クリック地獄
ザ大衆食「太田尻家」……クリック地獄
「酒とつまみ」のサイト……くりっく地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/03

浜田信郎さんの「酒場百選」

先月12日浅草で大川渉さん吉田類さんと飲んだとき、類さんから、浜田信郎さんの本が出る話を聞いた。まもなく、ちくま文庫から発売で、浜田さんの「居酒屋礼賛」に告知されている。……クリック地獄

浜田さんとはお会いしたことはないが、おれがインターネットやザ大衆食のサイトを始めて、まだよくわからなかったころ、浜田さんのサイトに素晴しい大衆食堂のルポを見つけ、なにも知らないずうずうしさで転載をメールでお願いし、浜田さんに快い許しを得た。こちらが、そのページ……クリック地獄

そのとき、浜田さんは、この文章のように、優しい人だなという印象を持った。おれに優しいひとは、みな優しい。

ま、とにかく、その浜田さんの本が出る。うれしいことなので、とり急ぎ紹介まで。ひとこと付け加えるなら、浜田さんは、こういう書き物にありがちな「高い目線」や「プロ気どり」がナイのがよいと思う。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

「四月と十月」そして貝塚紀行

牧野伊三夫編集長の美術系同人誌「四月と十月」14号、本年四月号が届いた。これには、1月15日「牧野伊三夫編集長『四月と十月』古墳部と、古墳貝塚大衆食三昧」などに書いた、おれも参加した「古墳部活動記 いにしえの美術を訪ねて」が載っているのだ。古墳部長にして帽子デザイナーの須曽明子さんのレポートがオモシロイ。

「遠藤さんが大衆食堂だけではなく古代の食事情にも博識であることがわかったので、今後の古墳部での活躍がとても楽しみになった」って、あらら、おれはもう古墳部になってしまったのか。それもいいだろう。しかし、酔っていて、何をしゃべったか覚えていないよ。

千葉市の加曽利貝塚について、須曽さんは、このように書いている。「数千年にわたり食べて残った貝のほんの一部分を見ただけだが、全体の量を考えると、ここに住んだ人たちを加曽利貝族と呼んでもいいと思えてくる。貝族は肝臓が丈夫で酒が強いとか、手先が器用で細工が上手いとか、鼻が悪いので悪臭に耐えられるというようなことまでわかってくると、もっと具体的に暮らしが見えてくるはずだ。土器の造形が大胆で派手な中部地方と比べ、おとなしくてあっさりしていることも加えて想像すると、貝族はやや地味だがコツコツ働き、争いを好まない静かな人々、とも思えてくる。イメージを膨らませすぎだろうか。」

加曽利貝塚では、暮らしと食について、イロイロ考えさせられたと思い出し、ザ大衆食のサイトに、「食の原点を考える貝塚紀行 千葉市加曾利(かそり)貝塚でビックリした」を掲載した。……クリック地獄

しかしなんだね、先日の横須賀風呂会のとき牧野さんと話したのだが、あのとき富津岬荘で入った露天風呂、スゴイ雷雨なかで、忘れられないね。なんてバカなことするんでしょ。

「四月と十月」……クリック地獄

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/02

産業新潮 よい食文化は日常に宿る

「産業新潮」5月号が送られてきた。「日本のよさ再発見」という通しタイトルのページに寄稿しているのだ。

メジャーな企業や団体が広告主の、どことなく「経済界もの」「財界もの」的いかがわしさが漂う、かなりマイナーな産業経済の専門誌。こういう雑誌で、「日本のよさ再発見」とくれば、たいがいキクとカタナ、フジヤマゲイシャガール式に、包丁を振りまわす板前や懐石料理や歌舞伎落語能や着物、酒とくれば焼酎を含まない日本酒というかんじになるのが定石で、送られてきた見本誌を見ても、そういう関係者がみられた。

しかし、ここに、なぜかおれなのだ。おれが、しかも、「大衆食こそ正しい伝統 よい食文化は日常に宿る」というタイトルで書いている。おおっ、こういうステージで「大衆食こそ正しい伝統」とは、あの悪賢い、庶民など金儲けの道具ぐらいにしか思っていない経営者の溜まり場である経団連の機関紙で、そういう主張をするようなものではないか。いいのか。

しかし、そういうことをそういう雑誌で書かせてくれる編集さんがいるのだなあ。ほんとうは、おれの最初の原稿のタイトルは「よい食文化は日常に宿る」だけだったのだが、校正を見たら「大衆食こそ正しい伝統」が加わっていたのだ。こういうことがあると、雑誌が有名か無名か、どういう種類の雑誌であるかに関係なく、おれは無条件降伏的に編集さんを尊敬して、一杯飲みたくなるのだな。まだ、メールのやりとりだけで、一度も会ったことはない。

それはともかく、メジャーな産業の幹部が読者であるような雑誌で、相変わらず「なにがなんでも大衆食だ!」「これこそ日本のめしだ!」「気どるな力強くめしをくえ!」の主張を展開した。

あらかじめ編集さんから、←左サイドバーの「リンク」にある「ザ大衆食と「普通にうまい」」のような内容と文章の調子でという注文があったのだが、それだけでは書くほうとしては面白くないので、今回は、「普通にうまい」に「日常が大事」をからみ合わせながら書いてやろうと思ったのだった。

いま読んでみると、この試みは、必ずしも成功していない。書くテクニックがないのに、2000字ちょっとの原稿量に無理しすぎたようだ。ま、そのかわりといってはなんだが、「大衆食こそ正しい伝統」が、全面的に正しいかんじになっている。がははははは。

ありがとう編集のTさん。

しかし、いつかどこかで「よい食文化は日常に宿る」について、シッカリ書きたいものだ。
現代人は、日常を粗末にしすぎるようだ。経済活動全体がイベント中心型で、砂の山をつくっては崩れつくっては崩れで、それに振りまわされすぎというか……。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/01

「元祖」のススメ

ついでに食関係の「元祖」リンクをつくろうと思って検索していたら、やっぱりすごいたくさんある。もし、売れる本を書くライターになりたい人気のサイトを作りたいという野心のある人がいたら、この「元祖」を名乗るものを食べ歩いてまとめたら、よいのではないかな。

どうですか、いいアイデアでしょう。ゼッタイ、出版社も読者も飛びつきます。日本人は、元祖やルーツや由来などが、とにかく好きなんですよ。そうですねえ「元祖グルメ」というタイトルかなあ。「元祖」を食べまくるという意味での「元祖グルメ」は、まだないようですよ。あなたは「元祖・元祖グルメライター」か「元祖・元祖評論家」になれます!と書いておくと、ゼッタイ、誰かがパクルような気がする。

そりゃそうと、検索していたら、おもしろい記事があった。「余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋 - Blog 」で「 「貝原益軒は間違っとるのである」(元祖“医食同源”の新居裕久先生) 」

「今朝の日経「医食同源」コラムで新宿医院院長の新居裕久先生が。新居先生は、現代日本の風靡する「粗食長寿説」を撲滅することに使命感を燃やされているようだ。頑張れ新居先生!」とな。おれも、「頑張れ新居先生!」と拍手したくなったぞ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

「勝つブランド負けるブランド」そして元祖考

Book_mizukiあまり飲まないが長い付き合いの水喜習平さんが、サイトを大幅にリニューアルというか、増設というかして、スゴイことを始めた。

これを見ていて、まず思い出したことが、そういえば以前に本を送ってもらったのに、まだ紹介してなかったナということだった。調べたら、写真だけは撮ってあったから、ガサツなおれなので、なぜかそのままになっていたらしい。本をいただきながら、大変申し訳ないことをした。

ショッキングピンクな表紙のド派手、タイトルも『勝つブランド負けるブランド』と、まあビジネス書実用書むきだしで迫りまくる本だが、2004年1月に経済界から発行になった。2年以上前じゃないか、月日がたつのは早いものだなあ。

水喜習平さんとは、彼がかつて「宣伝会議」というマーケティング専門誌の出版社にいたときからの付き合いだから、1980年ごろからだろうか。水喜さんは、80年代中ごろから「マーケティング評論家」という肩書で執筆しているが、マーケティングエッセイのようなものに、独特の味がある。それは、ビジネス書実用書としたら、チョイと変わっているという風に受け取られがちだろうし、文学エッセイとしても、そうだろう。

なぜか、ビジネス書実用書とはこういうもの、教養書や文学書とはこういうものという型にはまったイメージや考えがあって、そこからはずれると、どうもね、という読者が多いように思う。そういう固定観念を持ったままする読書とはなんなのだろうかと思うのだが。それはともかく、ビジネス書実用書だって、前に何度か述べたように、文学的なおもしろさがあるのだ。しかも、水喜さんは、おれなんかと違って、小説新潮新人賞まで受賞している。

ま、そういうことは、いいや。この本は、「勝ち組、負け組」という言葉が流行っていた最中だから、タイトルにもそれが反映し、中身もそういうことに縛られている面もある。

で、ようするに、ここから話は飛躍するが、ブランドにも文化があって、日本におけるブランドの文化というと、「有難味(アリガタミ)」だろう、これが欠かせないな、ということなのだ。

「有難味(アリガタミ)」という味覚もあるようだ。たとえば「ふるさとの味」「おふくろの味」なんてのも、そうかも知れない。日本で「愛国心」というと、国を有難がる風になってしまうのも、この「有難味(アリガタミ)」が関係しているかも知れない。ああ、忠君愛国と日本ブランド力。

おれは前から気になっているのだが、「元祖」という言葉が、とくに食の分野の著述によく使われるのだけど、これはナンダ。もしかすると、やはり「有難味(アリガタミ)」と関係するのではないか。そう考え考え、この水喜さんが、最近「江戸と座敷鷹」の親子サイトとして設けた「江戸大名公家net」のとくに天皇家公卿家と見ているうちに、「有難味(アリガタミ)」や「元祖」の文化は、もしかすると天皇家公卿家と関係ありはしないかとヒラメイタのだった。天皇家公卿家は、まさに、日本の「元祖」ブランド文化ではないのか。天皇家公卿家は、そのブランド力で生き抜いてきた、それはチマタの「有難味(アリガタミ)」のもとになっているのではないか。

そういうわけで、ザ大衆食のサイトに「元祖考」を始めましたとさ。……クリック地獄

以前の日記2003年12月8日から12月18日まで、
アリガタミについて、しつこく書いた。気になるのだなあ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »