夜郎自大と事大主義を反省する愚かさ
根拠のないことだらけの栄養学の主張のほかに、食を「乱す」ものに、夜郎自大と事大主義な食談義がある。夜郎自大と事大主義は、とくに男に根深く、男の食談義の特徴ともいえる。この場合の「男」は、とりわけ日本の男をさすのだが。
かくいうおれも、『ぶっかけめしの悦楽』では、「完成度の高い「三大かけめし」」という表現をしている。この場合は、「完成度」の基準について「上にかけるものとめしが切り離しがたいほど密接な」という説明をしているだけマシだとは思うが、しかし、それでも「三大」なんていう言い方は、夜郎自大で事大主義な言い方だと反省し恥じて、『汁かけめし快食學』では、「「三大かけめし」といいたいところだが、「大」とは、なんとも事大主義な言い方なので、やめておく」というぐあいに、表現を改めた。わが身内の夜郎自大と事大主義の克服は、なかなか難しい。
しかし、ほんと、男の食談義には、むかしから「三大」とか「五大」とか、「メッカ」とか「聖地」といった表現が多い。それは、男の、ある種のナルシックなペダンチシズムと一体であることが多いのだが、また男の「文学」の伝統でもあるようだ。
それでも他の分野なら近年は、慎重に、あるいは謙虚に、そういう表現はあまり使われないようだが、こと食となると、堂々たるものだ。どうだ!おれは三大ナントカを知っている男ゾ、聖地を知っている男ゾ、おまえらこれを知っているか! てな感じをモロだしで、たとえそれが5分の3ていどの「三大」でも「三大」である。またそういうのを見たり聞いたりするほうも、それを大変ありがたがる風潮がある。他の分野なら、編集者あたりから、「三大の根拠を説明せよ」「聖地とはオーバーな言い方じゃねえか、根拠はなんだ」とかチェックが入ったりするが、食の分野では、そういうこともない。だから、いいたい放題、こういうことが続くのだな。
しかし、たいがい、そういうものは内容のなさをハッタリでごまかしたり、あまりたいしたことのない付け焼刃の知識の押し売りでしかないことがほとんどだ。大げさな表現を取り去ると、たいした内容は残らない。「日本三景」みたいにね。いまや「日本三景」なんて、死語に近いし、お笑いにもならない。
広告なら許されない誇張も、「文学」だと許される。その「文学」は、売れる本のためのマーケティング優先のなかで、売れるなら夜郎自大も事大主義も、OKだ。
こういう状況で、生真面目に自らの夜郎自大や事大主義を反省することこそ愚かなり。が、愚か者であるがゆえに、反省をし、10年たってまたここにいるのだ。
「三大」「聖地」「本場」といった言葉は、信用ならない「三大用語」ってこと。
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