「料理分類学研究所」やりましたね
きのうの「料理分類学研究所が出てきた」でメールを頂戴した。コメントに書こうとすると文字化けしちゃうという。何人かそういう人がいて、どうやらアップルを使用のようだ。でも、アップルでも書き込めるひともいる。OSが関係するのか? パソコンのことはよくわからない。とにかく、そういうわけで、ここに掲載。ごらんの通り、これは当の編集者からだ。
「「料理分類学研究所」やりましたね」というタイトル。以下……
エンテツさま
こんにちは。
ブログにコメントしようとしたら、またまた文字化け。なんで、メールしました。
「料理分類学研究所」、あれ面白かったですよね。
エンテツさんには、ゆくゆくは所長になってもらうおうと思っていたくらいですから。
いや、冗談じゃなくて(笑)。
分類というのは、近代主義の権化のようなものです。
ここでは、本来分類できない、
というより分類する意味などないことを
あえて「分類」してしまうとどうなるか。
意外や意外、ものごとの本質がポロッと顔を出すわけです。
食というのは、そのほとんどが日常に埋没しているものです。
だから、時々なにかちょっかいをかけてやりたくなる。
分類というのもその一つでした。
ところが、これが面白かった。
舌的なものから腹的なものへ。
抑圧的な定食から解放的なぶっかけめしへ、ですか。
スローガン的なところが、またまた近代主義っぽくってよろしい。
食文化を、いや大衆食といったほうがいいですね、
モダニズムの運動として捉え直してみるってのはどうでしょう。
どんぶりめしこそ、じつは食におけるモダンだったと。
意外にも、民芸の運動とシンクロしていたり。
ヌーベルキュイジーヌの誕生が68年パリと連動していたように、
どんぶりめしは、普通思われているのとは反対に
食の洗練への最初の一歩だったのではないかと。
と、またいろんな妄想がわきあがってきました。
……以上。
これは、こういうコムズカシイことを言うのは、あの「雑誌『談』編集長によるBlog」の佐藤真さんなのですね。そうです、彼が、誌上でバーチャル「料理分類学研究所」を始めようと企画したわけであります。あれが続いていたら、おれは「所長」という「長」がつく人間になれたのに、残念だ。
「分類」というと、または「カテゴライズ」や「パターン化」も含むか、それは本質に接近する方便にすぎないのに、目的や普遍に簡単に転化してしまうことが、最近また多いようで。
近代国家なんてのは、地図に線を引いて、そこに国旗と国歌をつけたもの。つまりは国旗と国歌は近代国家のパターン認識の方便なのだが、それが全ての中心や目的になってしまう。でも実生活は、「地産地消」なるものを、国内の地域をこえて、その国旗と国歌のワクでやろうとしても成り立たないところまできている。ま、だから、その国旗と国歌のワクにもどそうという妄想な動きもあれば、「地産地消」の「地」は東アジアじゃないの、いや地球の「地」でしょうという動きもあるが。でもね、ホラ、こういうふうに見ると違った本質が見えるじゃないですか、ってやる「分類」もあるのだな。
ああ、昼酒飲んで、酔っている。
大衆食をモダニズムの運動として捉え直してみるってのは、なかなかオモシロイね。つまりは近代日本食のスタンダードは、そこから育ったわけで。「丼」という容器の生産の拡大と普及は、大正期から昭和初期に始まるし。カレーライスやコロッケやトンカツが、そして「大衆食堂」が普及するのも、そのころ。刺身が、江戸期の地域をこえて大衆化するのも、そのころからだね。「大衆」も流行語になる。
カレーライスやコロッケやトンカツなどは、「洋食」に分類されるがゆえに「伝来モノ」という概念にとらわれる。それは一方に開国しながら鎖国の頭でパターン化された「日本」があるからで、まさに方便にすぎない分類が思考を固定化してしまう。大衆が自らの生活において選択し洗練させてきた流れが見落とされてしまう。
「汁かけめし」という概念を持ち込むと、カレーライスは汁かけめしなのだ。だけど、それではどうも納得できないというのは、パターン化された近代国家に「洗脳」されているからだろう。大日本大衆国、ばんざーい。
コロッケやトンカツなどは、あれを「フライ」という。ナゼ「天ぷら」といわないのか。あれは、料理法としては、つまり生活のための技術としての料理からすれば、天ぷらなのだ。天ぷらヌーベルキュイジーヌとしての天ぷらが「フライ」なのだ。
とかね、いろいろあるが、どうも、日本人のなかには、というかメジャーな方々のあいだでは、「流れ」のなかで見るより、パターン化された「日本」のなかで見るということであるようだ。「あるべきパターン」のために生きるのだ。しかしそれでは現実と矛盾が出る、そこで、その矛盾は、あの社会保険庁のように帳簿をつけかえて誤魔化すように、言葉を変えて誤魔化そうとしてきた。都合のよいことに、日本語というのは、漢字とひらがなとカタカナがある。
ああ、昼酒、いい気持ち。
「舌的なものから腹的なものへ」は、ちがうよ。逆だ。「腹的なものから舌的なものへ」だ。味は舌で感じるが、味覚は舌だけではない。ってわけで、むかしは腹に味覚のポイントがあったのではないか、それがしだいに上へあがってきて、「のどごし」が加わったりして、近年に「歯ざわり」つまり「サクサク感」や「クリスピー」が重要な要素になったというか。この話は、あのとき議論していて、もっとも刺激的でオモシロイことだった。
はあ、こうしちゃいられない。
関係ないかあるか。「マカロニサラダ」にナゼおれが注目するかってのは、あれは粉物の乾物でつくる「サラダ」ってことだからね、これはとてもオモシロイのだ。
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コメント
昼酒はズルズル宵酒になり、そして夜酒へと変わりつつありますが。
どうも近頃のレトロってのは現実とのズレが大きすぎて、また不見識もはなはだしく、ワタクシの愛国心は、とてもついていけそうになく、しかしそれではワタクシの愛国心が満足できず、仕方なく日本酒を愛しているわけです。法制化するなら、国歌や国旗ではなく、日本酒を!
舌というのは、じつに疑り深く用心深く、舌のような人間になると、因習姑息に陥りそうな。
投稿: エンテツ | 2006/05/30 19:15
まあ、エンテツさん、もう一杯、手酌ではなんですから。
国歌で思い出しましたが、英語の替え歌がプロテストを担っているとか。これも可笑しいなと思えば、事の本質は別として、今頃歌詞を強制する方がもっと滑稽ですわね。法制化への議論は知らないのですが。
先日の国民運動みたいな組織も変ですけど、なんか時代感覚に合わないレトロの設定と現実とのズレの助長ですよね。
それから舌の観念は、もともと注意深い、経験深い、思慮深い奴(邪推に富んだ奴)が、毒にやられずに生き残るためにあるような感じですか。
投稿: pfaelzerwein | 2006/05/30 15:16