ロギール・アウテンボーガルトさん、その前に勝公彦さんのこと。
いやあ、なんというか、オドロキというか、懐かしいというか。むかしのノートが出てきたのでパラパラみていたら、「ロギール・アウテンボガート」というメモがあった。人名だ。ああ、懐かしいなあ、彼と会ったのは、何年のことか。どこでどうしているのだろうか。
あのころおれは、シゴトで高知へ毎月一度は行っていた。一年間ぐらい続いた。そのとき、和紙を漉きにきているガイジンがいると知って会いに行ったのだった。高知市内からバスに乗って、一度バスを乗り継いで、かなりの山奥の高所まで登り、さらにバスを降りてからクルマが通れない山道を歩いた。
和紙については、その前に、製紙会社のPRのシゴトで関係し、四国や出雲の和紙や、和紙の原料となるコウゾやミツマタなどの栽培について若干の知識があり興味があった。それに「和紙漉き」というだけで、ただならぬ興味を覚えることになったのは、出雲の手すき和紙の人間国宝・安部栄四郎さんの唯一人の内弟子だった勝公彦さんと会ったからだった。
勝さんは、途絶えていた沖縄の芭蕉紙の復元をやりとげたばかりだった。当時の那覇市首里儀保町に住んでいて、そこへ会いに行ったのだった。
勝さんと会ったときのことは後日、彼の死を新聞で知って書いたときのメモが残っているので、それをそのまま転載しよう。以下……
勝さんを首里のお宅に訪ねたのはインベーダーゲームが流行った年の2月だった。1979年のことのようだ。2日間、勝さんの自宅の芭蕉紙づくりの作業場で話をきいたり写真を撮ったりした。他の1日は本島北部の喜如嘉に住む人間国宝・平良敏子さん宅に案内していただくので一緒だった。この間、神奈川県湯河原の旅館の息子だった青春時代のことから、勝さんは語ってくれた。箱根の山で紙すきをやりながら一生を終えたいと言っていた。その勝さんは紙すきの旅の途中で亡くなった。
暴走族から一転、弟子をとらない安部栄四郎氏の家の前で一週間がんばった。勝さんの紙すき人生はそうしてはじまったのだが…。
勝さんが紙をすいているところからは谷底に1本の実のなる芭蕉の木が見えた。勝さんは、そこを指さして「ハブが出るから誰も近づかない」といった。江戸時代からの疎水、石垣があって、下に家が一軒。その下はハブがいるという荒地。そこが、江戸時代に芭蕉紙をすいていた現場であり、勝さんは、そこに住みついて、途絶えていた芭蕉紙を復活したのだった。
小さな谷間の勝さんのお宅は6畳ぐらいの一間きりだった。作業場と作業道具は全部自分で作ったということだった。
芭蕉紙は徳川時代を最後に消えた文化だ。それを再生するために、徳川時代に紙すきをやっていた跡で、残っていた疎水の側で、試行錯誤の苦闘を重ねたのだ。
芭蕉の繊維は硬い。これで紙ができるとはとても考えられない。
芭蕉紙は安部栄四郎氏が正倉院で発見したものだ。琉球の「和紙」だということはわかったのだが何を原料につかってどうつくったか、まったくわからなかったのだ。勝さんは、それとまったく同じものを復活させた。
平良敏子さん、人間国宝である。人間国宝ってどんな人だろうと思って訪ねたのだが。さとうきび畑の間のふつうの平屋から、お孫さんをおんぶしてあらわれた。戦前10歳ちょっとで諏訪の紡績工場の女工となった。戦後その経験をいかし、死に瀕していた芭蕉布を救った。
勝さんが紙の原料が何だかわからず、うまくいっていなかったとき、芭蕉布をつくるときに出る芭蕉の繊維のクズをつまみ、「これじゃない?」と言ったのが平良さんだったという。決定的な助言だった。
……以上、ここでメモは終っている。このときは那覇市内に一週間滞在して、一晩、勝さんと飲んだりもした。全部で4日間ぐらい一緒だったことになるか。まだメモに残してないことがある。
ちょっとだけ書き加える。芭蕉布を織るときの糸は、芭蕉の木の幹をくだいて煮て、その繊維を、割った竹ではさんで引いて細く軟らかくしてつくる。そのとき短い細かい繊維がたくさん出る。芭蕉布にとってはゴミクズだが、それが芭蕉紙の原料になるのだった。当初、勝さんは、芭蕉の幹をたたいてくだいては煮ることを重ねても、うまくいかないで苦労していた。平良さん助言は貴重だった。
とにかく、勝さんは、87年10月9日に亡くなった。それを伝える朝日新聞10月11日付の訃報。
勝公彦(かつ・ただひこ=芭蕉紙製造家)
九日午前零時五分、肺炎のため、沖縄本島中部・西原町の琉球大学医学部付属病院で死去、四十歳。(略)和紙づくりの人間国宝、故安部栄四郎氏のただ一人の内弟子。五十一年十二月から沖縄に住み、「幻の紙」といわれた芭蕉紙を復活させた。
勝さんは、紙を復元できても、それが使われなければ、また途絶えるという考えで、沖縄県内で芭蕉にかぎらず、紙すきに使える木を使って紙をすき、その用途まで開発するため飛び回っていた。知人から聞いたところによると、そのときも紙すきの指導で風邪をこじらせ、病院にかつぎこまれたときは手遅れだったとか。
「紙にとりつかれた男」といえば、いかにもカッコイイが、和紙すきは、その原料の栽培から刈り入れ、そして漉く作業自体、中腰で冷たい水に手をつけっぱなしなど、とても大変だ。しかも用途開発をしなくては、漉いても生活は成り立たない、生活が成り立たなくては紙も途絶える。そのための仕事もある。文化というのは、そういうものなんだなあ。
ま、とにかく、そういうことがあったあとだ。高知の四国山脈の山奥で、若いオランダ人が紙をすいているという。そこで会いに行ったわけだ。
ああ、もう長くなったから簡単にしよう。そのロギール・アウテンボーガルトさんは、たしか当時27歳だったと思う。まだ日本語は片言しか話せない。彼が、そのとんでもない山奥に住んで紙すきをやることになったのは、オランダでブックデザイナーをしていて、和紙で装丁された日本の本と出合ったからだ。彼は、それに惚れこみ、日本へ行って和紙をすいて、自分ですいた和紙で本をつくりたいと思う。それで貧乏旅行を重ね日本に来ちゃったのだな。
しかも、自分で木から育てるのだと、ついに、その高知の和紙すきの伝統があった伊野の山中、そこはただでさえ峻険な山奥なのに、クルマがやっと通る道からさらに歩いて登った先の古い廃屋を借りて住み着いていた。材料の木の栽培に、あと2、3年かかるとかで、穴倉に案内されて見せてもらったのは、彼がつくった生姜だった。生活は、とても苦しそうだったが、彼はときには神経質になりながらも陽気に、帰りは高知市内までオンボロ小型トラックで送ってくれながら、話に夢中になり両手をハンドルから離すことがたびたびだった。たった数時間の出会いだったが、忘れられない。メモを見て懐かしく思い検索してみた。
すると、なんと、やっているではないか。まだ、高知で、和紙をすいて……。かなり久しぶりに見た彼の写真は、ヒゲをのばしているが、あのころと変わらない。しかし、なんていう根性なんだろう。
ってことで、「とさは青空blog」……クリック地獄
こうやってメディアの上にこちょちょ書いてヒマつぶしの日々は、いかんなあ。と、酒を飲み。