肉食文化と米食文化と古墳部の旅
昼すぎ、きのうが締め切りだった、書評のメルマガの原稿を仕上げて送った。今回は、『肉食文化と米食文化』(鯖田豊之、中公文庫、1988年)を取り上げた。タイトルを見ただけで、肉食=欧米、米食=日本、というイメージが常識だろう。
しかし、そういう常識が定着する中で捨てられた歴史があるような気がする。それは日本人の肉食の歴史と非米食の粒食と粉食の歴史だ。そして、縄文時代から古墳時代、つまり大和政府の時代の前の遺跡をみると、そのことが、ますます気になる。
今回の3日4日の「四月と十月」古墳部の第6回活動「八ヶ岳周辺・諏訪の古代をさぐる」では、とくに爆発的に気になった。
3日、10時7分に茅野駅に降り立った早朝組4人が、まず向ったところは、「神長官守矢史料館」だ。
この史料館は、藤森照信さんの設計で建築マニアのあいだでは有名、訪問するのは、もっぱらその系らしいのだが、その展示室に一歩ふみこんだワレワレは、ギャーッともワーッともつかぬ声をあげた。その壁にはシカやイノシシの頭がならび、その手前には、ウサギちゃんがケツの穴から頭のてっぺんまで串刺しで、耳をおったて手足をおっぴろげ……。イノシシの頭皮やシカの皮を焼いた料理、「脳和(のうあえ)」なるシカの肉と脳みそを和えた料理など。いずれも剥製もしくは複製が展示されている。
これらは、「神長守矢が司る諏訪大社上社の祭祀のうちもっとも大がかりでかつ神秘的な」御頭(おんとう)祭の人神饗宴の供え物を復元したもので、菅江真澄が天明4年(1784)に祭りを見物したときのスケッチをもとにしている。
おれが驚いたのは、展示の一つである「鹿食免(かじきめん)」だ。この御符はシカやイノシシはもとより、四足の肉を食べても罰があたらないとされ、諏訪明神の重要な収入源だった。参拝者だけではなく、諸国地方へ辻説法して広められたというシロモノで、明治中ごろまで発行されたということだ。
明治天皇が牛肉を食べたことを話題にする歴史や伝統は、それはまた米食の歴史と伝統でもあるが、どうも一方的で眉唾が多いような気がしてならない。
ま、とにかく今回の書評のメルマガは『肉食文化と米食文化』でいこうと思って、すでにチェックもすんで、どうも日本人は「肉」と「米」に過剰に反応しすぎじゃねえかなと思っていたもので、ますます興味深く見学した。
古墳部一行は「神長官守矢史料館」のあと、諏訪上社本宮に向うちに1人が加わり、本宮前の茶屋で蕎麦を食べていると、さらに1人が到着。本宮を見物、また茶屋に入りトコロテンを食べ、諏訪市博物館へ。学芸員に案内され付近の古墳などへ見学に出るところで、クルマ組の2人が到着、これで全参加者8名がそろった。古墳は登りが多いし、日中の強い日ざしにアエギアエギ歩き、5時過ぎ日程を予定どおり無事に消化、すぐにでも生ビール飲みたいのをガマン、下諏訪の宿、鉄鉱泉本館へ。
荷物を置き、生ビールがまん、近所の銭湯温泉「菅野温泉」へ。ここは前に入ったことがあるから2度目。出て、宴会用の買い物をし、宴会場の「すみれ洋装店」へ。松崎緑さんの「すみれ洋裁店」が、宴会場なのだった。うなぎうまかった、ワラビのおひたしうまかった。おやき、まんじゅう状のものではなく、溶いた粉をひいてアンをのせ、また溶いた粉をかぶせて、ひっくり返して焼いたもの、うまかった。そしてガンガン飲み語り、しだいに気持ちよく、途中から覚えていない。おれの踊りがおもしろかったそうだが覚えていない、宿に戻ってから風呂にも入ったそうだが覚えていない。
4日は、諏訪大社下社春宮、山田養蜂店、尖石(とがりいし)縄文考古館は2度目だ、茅野駅近くの更科で昼食、京都へ向う女1名離脱のち井戸尻考古館などをめぐり中央線信濃境駅で帰る女3名を送り、残った男4名、原村Aコープで宴会用の買い物をし、宿の唐沢鉱泉へ。
前回の古墳部in千葉はザ大衆食のサイトに……クリック地獄
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント