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2006/07/31

ビンボー人は、どこへ行った

チョイと調べたいことなどあり、ついでに大宮の大規模チューン書店のJ堂へ行く。雑誌売場を見る。見て、おれが調べたいことはJ堂あたりに並ぶ雑誌には、載っていないことに気がつく。あてどもなく、料理本とか、見る。そして、シミジミ思った、J堂には、ビンボー人が読むような本は、ありはしないのだ。

しかし、貧富の格差は拡大し、ビンボー人は増えている。のは、確からしい。が、そういう連中は、J堂あたりには来ないのだな。そういや、よく買い物するCクラスのスーパーで見かけるような連中は、J堂では、見かけない。

彼らが、メディアで話題になるときは、メディアが正義ヅラして騒ぎ立てるのにちょうどよいネタか興味深い低層生活者のサンプルとしてであり、メディア貴族のエサになるときだけなのさ。

それにしても、J堂に並ぶ雑誌を見ると、みんな、けっこう知的で文化的で芸術的で趣味的でスポーツ的で健康と美容に病んだイイ生活しているなあ。オシャレで美しく輝いているよ。日本はリッチだなあ、ビンボーなんて、どこの話? ほんとうなのか?

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2006/07/30

喫煙家は大事にしなくては、じつは、みなルーズなのだから

きのうは世田谷区をウロウロし、ついでに寄って行こうと、7時半ごろ経堂の太田尻家に着いた。まず、生ビール、そのあとは、池田候。

Ootajirike飲みながら考えた、太田尻家がよいのは、ルーズだからだな。空間もルーズにできているし、その空間に、またもやルーズな仲間が加わっていて、写真を撮ってきた。右側の上のほうから下がっている蛇腹の管だ。これは、煙草のケムリ排煙用に、家長がつくったものだ。いまや、店内禁煙が健全な飲食店であるような、そうすることが誇らしげな経営者が趨勢であるなかで、ここの家長はそうしない。そもそも家長が、煙草を吸うからね。もし吸わないなら違ったかも知れないが。しかし、この家長はルーズなのだ。考え方も身体の動きもルーズだし。

いつから、キビキビ凛々のタイトな仕事ぶりの職人風が正しいとされ「厳選」されるようになったのか。それは「産業化」と関係がありそうだ。産業化の効率重視は、ムダのないプロの仕事を奨励し、それはキビキビ凛々につながる。キビキビ凛々なタイトな考えとやり方がマンエンし、ルーズは悪とされた。

若い夫婦が入ってきて、おれが座っているカウンターの隣に、初めてだが、おれに軽く会釈をしながら、腰を下ろした。少ししてから、顔見知りの常連たちが最初に1人あとから2人、入ってきて、その向こうどなりに座った。この常連たちのうち2人は、煙草を吸う。こちら隣の若夫婦は、吸わない。そして彼らは喫煙禁煙の話題を始めた。もちろん喫煙家は煙草を吸いながら。そして店長がつくった、排煙用の管を試したりしながら。喫煙家のなかでも、1人は禁煙を考えているという。1人は絶対ムリだという。非喫煙家は、ムリにやめることはないのじゃないかという。そういう話をしている。そういう話ができるのだ。それは、よいことじゃないだろうか。ゼッタイ煙草はイケナイなんて頑張るより、スマートだし、大人の会話であるなあという感じだ。そして、そんな風に会話をできることは、いいことだし、それが人間としてムリのない状態なのではないか、と思った。それはまたルーズな空間だから可能なのだろう。

人間は産業用健康機械ではないのだから、十人十色なのだから、とくに持病でもないかぎり、あるいは持病があればさらに、キビキビ凛々を続けていたら、かえって壊れてしまう。ほんとうは、人間は、みなルーズな生きものなのさ。外ではキビキビ凛々を主張していても、誰も見ていない、ウチのなかでは、ぜったいルーズな姿をさらしていると思う。それが、外ズラでは、他人に対しては、お互いにタイトな評価を下しあい「厳選」しあい、弱点やミスを見つけては針小棒大に叩くだけの「辛口評論」などがよろこばれたりし、チマタには、チリひとつ許されないクリーンルームのようなムリな関係が生まれるのだ。

そういうことを気づかせてくれる喫煙家は、これから大事にしなくてはなあ。十人十色を尊重し気づかせてくれる空間は少なくなっているような気がする。

しかし、話は別だが、世田谷区という地域は、かなり変でオモシロイ。前から、それは感じていて、「世田谷区の研究」というのは、日本のイジョーを知る上で有効ではないかと思っていたが。あそこは、人口80万人をこえて、高知県や徳島県より人口が少し多くなった。それ自体、すごいイジョーのように思うが。

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2006/07/29

ワンカップ大関のお洒落な飲み方

一昨日、古書ほうろうの「ふちがみとふなと」へ行く途中で、水割缶とカップ酒を買ったのだが、すでに赤羽で飲んだあとだったので、それほど酒はすすまず、カップ酒は持ち帰り冷蔵庫に入れておいた。

それを先ほど、昼飯がわりに飲んだ。いや、まだ続きをチビチビやりながら、これを書いている。パソコンのキーを打っているのだ。この飲み方、つまり我が家の一点豪華家具、カンディハウスのテーブルトップ直径110センチ丸テーブルで、これを飲むというスタイル、そしてパソコンに向って飲むというスタイル、この二つのカップ酒スタイルを、いまこなしつつあるのだ。というところで、いま底のほうに残っていたやつを、一気に飲んでしまいました。はい、完了。

この二つのカップ酒スタイルは、あの悪態芸達者の買わなくてもよい『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)の著者塩山芳明さんさえ、めずらしく罵声をあびせることせず、素直に影響されカップ酒を買って飲んでしまったという、いいざわ・たつやさんのなかなかおもしろいデビュー新刊買わなきゃ損する『カップ酒スタイル』(ちくま文庫)には、載っていないようだ。

それは、こんなアンバイだった。我が家の一点豪華家具のテーブルですね、天板つまりテーブルトップはムク木つき板づくりという、じつに上品というより神々しい作品ですね、そういうものが我が家にはある。じつはおれがビンボーというのは、将来政界へ打って出るためには、選挙民の大多数を占めるビンボー人を味方につけるための嘘の演出であって、もうすごいリッチな生活をしているのですね。

そのテーブルの上に、いきなりカップ酒を置いてはいけません、ビンボー人はそういうことをするけど、それじゃお洒落じゃないではないですか。ビンボー人でもビンボーを自覚したくない、センスのよい中流なのよ~という幻想のためには、オシャレでなくてはいけませんね。なぜならば、コンニチのオシャレというのは消費用語でしてね。つまりオシャレな気分ほど、オシャレなものを買うことになる。

本来のお洒落なら、あるもので、粗末なものでも、ダサイものでも、ボロでも、使いこなしによってお洒落になるものですね。つまり本来は、お洒落というのは、やりよう、使いこなしの生活文化でありましょう。ところが最近のオシャレはオシャレにやるとなると、オシャレな料理本じゃなきゃいけない、オシャレな小物がなくてはいけない、オシャレな店じゃなくちゃいけない、そういうふうに消費につながるようになっているのです。バカですね~、バカですよ、そういうオシャレは。そもそも使いこなしにはアタマを使いますが、消費ならカネですむわけで、バカでもできるのですよ。だから、それはお洒落ではなくて、オシャレなのですね。

それでエート、そうそう、テーブルのうえに、まずランチョンマットを置きます。ま、ティッシュでかわりをさせるなんてお洒落でいいですねえ。ムクな木の目が美しい上に、純白なティッシュ。その上に、カップ酒を置きます。すると神々しい。つい手を合わせたくなってしまいます。そしたら、素直に、そうしましょう。

そしておもむろに、カップ酒を左手に持ち、右手はアルミのふたにそえ、指をかけるところですね、あそこに指を入れ、グッとひっぱる一瞬、そのときの、アア、もう射精しそうなほどの快感が、たまらんわけです。オオ、エクスタシー、ってなもんですが、こんな美しい生活用語を使っていると、また好きなHなおかしなところからトラックバックがくるかな? ま、いいか。

それで、モンダイは、そのカップ酒が、「ワンカップ大関 ジャンボ」ってやつなのだ。つまり、これは昭和の労働者の由緒古いカップ酒であるがゆえに、糖類、酸味料添加の酒なのだ。こだわっているねえ。レトロ趣味で、この酒を愛さないのはインチキだね。いや、今日は、そうやって、ゲンシュクな気持で飲んだら、その甘味、これは、まさに古い昭和の高度成長期の貧乏な味だなあ、そしてそれがイマでも生きているのだ、という思いがシミジミしたのだった。

それを書いておこうと思っただけです。長々、すみません。

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2006/07/28

「自分の言葉」ってなんじゃらほい、コンビニで考えた

「自分の言葉」というのを、よく耳にするようになった。自分の言葉というのは、自分の表現ということだろう。それにしても、そんなものあるのか、あるとしたら、どこにあるのか。そして、デハ、むかしはあったのか。というギモンが湧く。

生活や社会を語るのに、消費や産業の言葉をつかい、しかし本人は、生活や社会を語っていると思い込んでいるという場面には、よく出会う。このあいだ下北沢のシンポでも、それを感じ、そのことを指摘してしまったのだが。それほど「消費社会」や「産業社会」が強力に支配的であるということだ。しかし、消費や産業は、生活や社会の、ほんの一部なのだ。

ということから、とにかく、産業化消費化で、自分の表現が、どう失われていくか、いま、コンビニで買い物をしながら、ひらめいたことがあった。

そのコンビニは、ウチに一番近いところにあるのだが、ここにはトマトやキュウリやタマネギ、ニンジンといった生鮮野菜が置いてある。これがイザというときに意外に便利で、ときどき利用する。しかし、このチェーンでは、生鮮は扱ってはいけないことになっているはずだ。本部の受発注システムのコードにはないようだ。買うときは、バーコード入力は不可で、レジでは指先でポチポチ「生鮮」と入力される。この生鮮は、お店が単独でどこからか仕入れて売っているのだ。

本部は、こういうことは原則として許さない。本部では、成功モデルにもとずいて、棚の1センチ単位で利益を計算するぐらい、じつに詳細なシステムをつくっているので、それにしたがって、品物を決められた位置に決められた時間、たとえば搬入された時間から決められた時間以内に陳列しないと、売り上げに影響が出る、というぐあいになっている。だから、その店には、生鮮を勝手におくスペースはない。そこで、どうしているかというと、冷蔵ショーケースの一部に10センチぐらい、無理矢理あけた感じでトマトなどをおき、そのまえの通路に少しだけ突き出したかたちで箱をおき、その上に野菜をおいている。こういう、ちょっとしたデッパリも、微妙に導線を狂わし売り上げに影響することになっていて、マニュアル違反で認められないのが、本来だ。もっとも、チェーンによっては、最近は積極的に生鮮を置くシステムで運営しているところもあるが、ここは、そうではない。

では、ここにナゼ野菜があるかというと、おれがここに越してきた7、8年前は、もっとあったのだ。初めて、ここに入ったときは、ウワーこの店、好き勝手やっているなあ、これじゃあフランチャイズチェーンでやる意味がないだろうと思ったぐらいだ。フランチャイズチェーンの本部は、個人の経験やカンでやるより、本部のシステム通りにやったほうが儲かるということで、そのシステムを利用させロイヤリティを加盟店からとっているのだから。

ところが、加盟店が、加盟前に食料品店だったりすると、とくに歴史が長かったほど、そこの店主は自分の経験やカンを捨てられない。トレーニングやスーパーバイザーの指導で、しつこく言われても、マニュアル通りにしないで、勝手に陳列を変えたり、自分で売れると思ったものを勝手に仕入れて並べてしまう。スーパーバイザー泣かせなのだ。その点、食品以外の商売をしていた人や、若い人のほうが、素直にマニュアルにしたがってくれて、やりやすい。

つまり、この店に、おれが最初に行ったころは、いかにもそういう年季をつんだ融通のきかなさそうなジジイがレジにいて、レジも満足に打てないアリサマだった。そして、いつごろだったか、年輩だが、その息子らしいのがレジに立つようになった。そのころ一度、生鮮モノは一切姿を消したが、また少しだけ復活したのだ。おれも利用するぐらいだから、古くからつきあいのある地元民からの要望もあったのだろう。

それで、おもうに、そのジジイが、そこに生鮮を置いていたのは、彼の表現なのだ。彼と話したことはないが、話したら、彼は野菜や野菜のある生活などについて、彼はアレコレ語ったにちがいないし、そういう知識や言葉を持っていたであろうと思う。それは、彼の生活の歴史でもある。

ところが、店がフランチャイズチェーンに加盟し、店が「産業化」され「消費」と極めて経済効率のよいつながりをつくろうとしたとき、そういう表現や言葉は、むしろ邪魔になった。

こういう関係が、全日本的にありはしないかと、ふと思い、もっといろいろ考えたのだが、とりあえず、これだけ書いておく。

「自分の言葉」といいながら、消費や産業の言葉で表現されているのに、ときどき気づき、気になる。それにしても、「自分の言葉」なんてあるのだろうか。

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古書ほうろう「ふちがみとふなと」で妄想す

きのうのコト。古い調査資料をわたすため急遽でかけなくてはならなくなった。デハと、赤羽まで来てもらってビール一杯やってのち、古書ほうろうの「ふちがみとふなと」ライブへ行くことにする。

出かける前に大衆食堂本の企画、これで決定版!というかんじが浮かんだので作り、編集さんにメールで送る。

赤羽5時半待ち合わせがヤロウの都合で延びにのび6時過ぎに、バカヤロウ飲む時間が短くなってしまったじゃねえか、それに「まるよし」は混む時間だぞとブツクサ言いながら、とにかく「まるよし」に。もう男たちで一杯だ。カウンターをかきわけるようにして二人分確保。やはりなんだね、朝からの酒も真昼間の酒もいいが、夕方一日の労働を終えたカタギな男衆のあいだに混じって飲むのもいいね。それにしてもミゴトに男だけ。クールビズやっているところが多いから、ネクタイしている人は少ないが。おれの左どなりの中年男は、職場でイジメにあっているような屈託をかかえた顔で、タバコをふかしながら、本日の晩酌の決まり分らしい酎ハイとヤキトリ5本をウツウツと大事そうにやっている。タバコの煙のほとんどは、おれの顔にかかるが、ま、いいのさ。

30分も飲まないうちに2人でビール3本あけ勘定を払って、一人で西日暮里へ。途中でビールはもういいから、ウイスキー水割缶とカップ酒を買い、7時ちょっとすぎに着く。南陀楼綾繁さんがいる。来るのがわかっていたら塩山芳明さんの「出版業界最底辺日記」を持ってきてあげたのに、「まだ買ってないでしょう、送りますよ」と言われる。フン、おれは出版業界モノなんか興味ないし、私小説風を気どったルサンチマンな悪態も嫌いだ、だいたい「最底辺」なんていうがインテリヒエラルキーのことで、出版業界最底辺といえば場末の大衆食堂で財布の中身を確かめながらめしを食べている、製本の奴隷的日雇い労働者とかのホームレス直前男たちじゃねえか、その上にあぐらかいているインテイリヒエラルキーのなかで言いたい放題が、なにが「最底辺」だ笑わせるねえ、あんな本はいらねえよ、と腹の中じゃ思いながら「最近、本屋へ行ってないもので、まだ買ってないけど、ご祝儀かわり買うから、いらないよ」とニコニコ顔で応じる。

こちらの腹を知らない南陀楼さんは、週刊文春で坪内祐三さんが取り上げてくれた、と言う。おれは腹のなかでは、フン、解説は福田和也で、坪内が文春で取り上げたなんて、いかにも身内びいきな出来レースだ、おれの本や大部分の人の本なら発刊1か月以内で書店に本があるうちに書評紹介に取り上げられることはまずありえない、それで販売に苦戦を強いられる、これだから出版界は永田町と並ぶムラボスコネ社会だってんだよ、しょせん塩の字もそういう業界事大主義に染まった男さ、それに福田や坪内の書評紹介をありがたがって、それだけでよろこんだり買ったりするやつがいるからなあ、出版も読書も全体的に質が落ちているってことだ、しかも変えようという意欲もない、情けねえなあ、と思いながら「そりゃよかったなあ、これで増刷まちがいないね」とニコニコ顔で祝福する。

というのは冗談で、ま、おれは、知り合いが書いた本は、なるべく買うようにしている。ムラボスコネ社会の奴隷的末端の本屋へは、めったに行かないから、まだ買ってないが。こうして悪口言っているふりして宣伝しているわけだ。つらいなあ。

それはともかく「ふちがみとふなと」は、一昨年12月、大阪で一人ふらふら入った飲み屋にスゴイ偶然にも、南陀楼さんと前田チンさんがいて、連れて行ってもらったライブハウスで聴いたのが初めて。それ以来だ。あのとき、なぜか、坂本九と「上を向いて歩こう」が連想されてしまい、気になっていた。そして、わかったのだ。ふちがみさんは、歌うとき、アゴを突き出し上を向き、手をふって歩くようにして歌うのだ。そして、ふなとさんは、坂本九のように美男とはいえない顔のつくりで、細い目、坂本九のように白い歯を出して、もしかすると出っ歯なのかも知れないが、ずっと農夫のような黒い顔に白い歯を出し楽しそうに笑っているような顔でベースを演奏するのだった。

しかし、どうも、それだけじゃない。「上を向いて歩こう」は、時空を超えるかんじがあるが、ふちがみさんのうたが、輪をかけてそうなのだ。時空を超えているというか、時間を超越あるいはゴチャゴチャに。それと、ふなとさんのベースの音が合って、ブワワワワワと時空を超えるのだ。もう時間も空間もなくなる、これは音楽の力とはいえスゴイことだ。そこでトツゼン縄文時代と思われる広葉樹林の中から上を向いて手をふって歩きながら歌うふちがみさんがあらわれ、彼女はズンズンズン歩いてきて、本当に、古書ほうろうの書棚の中へ歩いて行ってしまうのだった。その彼女が、シャベリのなかで「時間を入り混ぜたような感じが好きで」と言ったので、おお、やはりそうかと思い、「ふちがみとふなと」の、おれにとっての魅力の謎が解けたような気がした。彼女のうたには目覚まし時計で起きるサラリーマンや「ヤラセロ」というトラック野郎が出てきたり、きわめて具象的だが、時空を超える抽象は具象の積み重ねによるということなのかも知れない。

アンコールで南陀楼さんが「威張っていけ」とか「威張っていこう」をリクエストした。それは人を見下げるという意味の「威張る」ではなくて、ふんずけられても何があっても、胸を張って堂々といこうという意味での「威張って」なのだ。ところが、その歌を聴きながら、それをリクエストした南陀楼さんの気持がわかってきた。原稿が遅れても、本の発行が遅れても、威張っていこうということだな。で、そこからあらぬ妄想が湧いたのだが、南陀楼さんは、ブログの日記を見てもそうだが、実際会って、原稿や本が遅れている話をするときも、けっこううれしそうで楽しんでいるかんじがある。それを、それで誰かが困っているのを見てよろこぶサド趣味なのかと思っていたが、その歌でどうも逆なのだと気がついた。つまり遅れると、やはり負い目があるし、どうやら追求されたり、しょうがねえやつだなあという立場になることがあるようだ。そのときのマゾな気分が、彼はたまんなく心地いいのだなあ、そこで「威張って」と自分を励ます気分が、よい快感なのだ。と、気がついたとき、そういえば、夫人の内澤旬子さんは、皮モノが好きだ、彼女が黒い高いヒールのブーツをはいて、黒い皮のパンツに皮のチョッキを素肌につけ、皮のムチを持って、裸で腹ばいになって出っ張った腹のうえで宙に手足をバタバタさせる南陀楼さんのケツにヒールの先をたて、コノヤロウ、めしってのはナただ作ればいいんじゃないんだぞ、私事しながら仕事するなんてとぼけたこと言ってないでちゃんと稼がんかこの大甘ヤロウ、とか言いながらムチを入れると、南陀楼さんはヒイヒイヒイウヒヒヒヒヒごめんなさいスミマスミマセンと涙ながらに歓喜の声をあげ、「威張っていこう」をうたう……。なんともはや、とんでもない妄想が湧いた。

ライブが終り、おれが、まさかそんなことを想像したとは知らない南陀楼さんと「じゃあね」と別れ西日暮里駅までの道、この妄想を思い浮かべ、アタリかもなあとニヤニヤするのだった。

西日暮里の駅も電車の中も、浴衣を着た若い女が目立った。どいつもこいつもバカ面している。ハヤリで、むかしのガングロが、いまじゃ浴衣を着ているかんじだ。いまのレトロ和ブームとは、そういうものなのだろ。

帰ってメールを開いたら、大衆食堂本の編集さんからメールが入っていて、「面白い!」とあった。これで忘れて遅れた分は、いくらか取り戻せたか。まだ先のほうが長いが。あとはガンガンやるだけ。でも、これから、生ビールの夏だからなあ。

と、日記風に書いてみた。

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2006/07/27

ぷふぁ~、今朝はナス味噌汁ぶっかけめしの悦楽

いま午前8時15分。さっき、ナス味噌汁ぶっかけめしをやった、うめえ~。もう、ここに書かずにはいられないぐらい、うめえ~。うめえんだよ、コラッ! なぜ、そんなにうまいんだ。

ナス味噌汁ぶっかけめしのうまさは、『汁かけめし快食學』にも引用したが、椎名誠さんも『全日本食えばわかる図鑑』の「”味噌汁ぶっかけめし”の遠い夏」に書いている。

「 味噌汁ぶっかけめしは、このアサリもうまかったけど、むしろアサリよりも上ではなかったかな、と思うのがナスの味噌汁であった。/ そうなのだ。ナスの味噌汁というのは、できたてのアツアツのときよりも、昼になってすっかり冷え切ったあたりのほうがずっとうまかったような気がする」

そして、おれは、「そうなのだ、このとおりなのだ」と、こう書いた。

「 味噌汁ぶっかけめしはしょっちゅうやっているが。が、夏はナスがいい。一晩ねかせた朝がうまい。コクがでるうえにナスがひんやりしている。都会でも朝の冷気というものがある。その冷気が残っているぐらいの時間に、窓を開け放ち、食べる。ミョウガをきざんでふる。ちょっと七味をふる」

まさに、これなのだよ今朝は。一口食べて、あまりのうまさに、七味をふるのを忘れて、かっこんでしまった。もう一杯食べたかったが、味噌汁がなかった。仕方ないから酒を飲んだ。ああ、シアワセ。さあ、今日も、やることがタップリあるぞ。

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2006/07/26

「そこにいる」視線と「チェック屋」の視線

はあ、大衆食堂本の遅れを取り戻すべく、根をつめてやっていると、ほかのことを忘れそうだ。しかし、今日も編集さんとメール交換、かなりイイ線で構成が浮かび上がってきたぞ。

息抜きに、ブログに書かれた大衆食堂、どれも昨日で、それぞれオモシロイ。

パラオの大衆食堂 一品料理が充実
http://paraoparao.blog57.fc2.com/blog-entry-58.html
これ、ほとんど日本の大衆食堂と同じじゃないか、おもしろいなあ。

Bassman note 【みずほ食堂】の【ざるそば】450円
http://blog.livedoor.jp/bassman1959/archives/50526105.html
ざるそばの「上にかかっている海苔が「味付け海苔」という下品さがすばらしい」だって。うまい表現だなあ。

PrettyBoy-ブログ編 象工場で働く為の必須条件
http://blog.livedoor.jp/hope0402/archives/50554852.html
磯子区役所の食堂から海が見えて、「どこか懐かしい、絶対にどっかで食べたことのある味がする」のだそうだ。気になるなあ。

どうも、こういうのを見ていると思うのだが、「そこにいる」という視線が自然でいいね。おれのようなものは、「専門家」気取りでチェックする視線になりがちだから気をつけなくてはいけないな。

どうしても自分の文章が活字になって本になったりすると、それだけでも、おれはそのへんの平民どもと違う正しいチェック屋なのだ伝道者なのだ味覚人なのだ文化人なのだ、評論するはワレにあり!ってことになりやすいからな、人のケチばかりつけていないで気をつけなくては。

しかし、「チェック屋」の視線のほうが喜ばれ本が売れる可能性が高いのだから、むずかしい。

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2006/07/25

やるか、大衆食堂

ブッ屁一発、ドジをやるところだった。そもそもこれは5月に始まった話だ。某出版社の編集さんからメールがあって、じゃない、電話だったかな? ま、大衆食堂の本のハナシだ。それじゃ、こんな案ではどうですか、と、メールを送った、それに対して、メールをもらって、じゃあもうちょっと、こんなアンバイがよいかなあ……と、思いつつ何も考えないで酒ばかり飲んでいるうちに、ま、もともと企画は寝かせてジックリ熟成がよいとアセルことはしないタチというかメンドウくさがりが本音か、それにたぶん下北沢シンポの準備がしだいに佳境に入っていくにしたがい、その企画をつめて考えることをしなくなって、ま、ようするに記憶の底へ沈んでしまったのだな。

そして、ボン大塚さん、ありがとうございます。22日「なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ」にコメントをいただき、そこに安西水丸さんの「大衆食堂へ行こう」のことがあって、オオオオオッ、そうだおれも、こうしちゃおれん話があるのだったと、一気に脳みその奥から、そのことが浮上、勢いがついた。アレコレ考え、きのうメールで、考えた案を送り、返事があり、また返事をし……今日は引き続き資料を探したり整理したり、さらに構成を考えたりと、急速に「やるか!」という雰囲気と気分が高まるのだった。やれやれ、このまま、葬り去られないでよかった。

しかし、なんだね、もう決まってスケジュール化された仕事は、ほとんど、誰かさんのようにズルズル延ばすことなくキチンと上げていくのだが、企画中のものは、こうなりやすい。目先の面白そうなことに引きずられてしまう、反省もせずに昔のことを思い出した。

かつて1970年代のこと囲碁を覚え始め、もうおもしろくておもしろくて夢中になった。それで、おれが担当する丸の内が本社の大手の、あれはなんだったか、何かの製品かテーマで、年間の広告や販促一切合財のプランのコンペがあって、ほかに大手広告代理店一社、準大手広告代理店二社が参加だった。そのプレゼンの当日、すでに企画書やコンテなど揃って、たぶん徹夜して揃えたのだったと思う。で、時間に余裕があったので碁を始めたのだった。当時、おれがいた企画会社は昼から碁やろうが将棋やろうがバクチやろうが酒飲もうが勝手だった。それに碁の相手も周りのものも、おれがコンペのプレゼンをひかえているなんて知らないから、止めるものはいない。ズルズルズルと夢中でやって、ありゃりゃりゃ、プレゼンの時間すぎちゃったよ~。それは年間で千数百万円の売り上げになるプランで、その企画会社の年間売り上げの一割近くに相当するものだった。それをぽしゃってしまったのだ。それから、そのクライアントからは冷たくされるし、しばらくついていなかったなあ。げははははは、ま、そういうこともあるさ。

しかし、なんだね、こうやっていま古い大衆食堂の写真を探しているのだけど、『大衆食堂の研究』を刊行した1995年頃は、ま、大衆食堂が本になるなんてもう二度とないだろうなあ、三一書房はよくやってくれたよというかんじで。出版界で長年食べてきた三鷹の水喜大先輩からは、大衆食堂の写真をちゃんと撮って持っているといいよとアドバイスもあったのだけど、もともとレトロ趣味がないうえ、そんなものが興味を持たれるとは思えなかったから、気まぐれに撮影しただけで、そして何より整理が悪く、かなり散逸しているのだ。

それから、これは覚えているぞ、NHKの某元ディレクターだ。アンタはNHKのニンゲンにしてはだらしのないいいかげんなイイ男で、そもそもNHKのディレクターが大衆食堂で番組をつくろうとマジメにやったのは、アンタだけだから名前は出さないが、アンタに貸した資料や写真それもネガのままのものも、あれ全部なくしやがって。クソ野郎。だいたいコイツ、担いでいるバッグが、いつも大荷物で擦り切れ穴があき、そこからボロボロものを落としながら歩いているやつなんだよな。ま、でもおれは、そういうバカさ加減は好きだし、寛容の精神が深く広いからね。それに、プロデューサーに何度もダメを出されながら、懲りずに何度も挑戦し、ついにおれたちの努力は報われることはなかったが、おれはNHKがどういうところか知っているから、どうせ無理だろうとは思っていたが、アンタは熱心だったし、ま、いいのさ。

ということまで思い出すのだった。

とにかく、この大衆食堂の本の話は、まだこれからどうなるかわからない、なにしろ出版界というのは永田町に最も近い体質と構造だからね、ムラボスコネ社会であり、一寸先は闇ですから。もしおれの大衆食堂の本を見たいという方がいたら、企画とヤル気が消えてしまわないよう、いまから大いに応援してくださいましよ。

そうそう、ここは、というオススメ食堂があったら、メールでお知らせください。ザ大衆食のトップページに公開しているyahooのアドレスにメールをするときは、ご自分の送信者名に日本語を入れるか、件名に「エンテツ」や「遠藤」とか入っていると、素早く見ることができます。なにせ、スパンメールがドカドカ多くて、いろいろ対策がしてあるもので。

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2006/07/24

スソアキコ・絵の「子犬のカイがやってきて」

豪雨災害が出ている諏訪地方のすみれ洋装店は大丈夫だろうかと、「続続・すみれ日記」を見たら、7月22日に、古墳部部長のスソアキコ・絵、清野恵理子・文の新刊本『子犬のカイがやってきて』の紹介があった。

おおっ、われらが古墳部部長!ってわけで、まだ本は見てないけど、スソさんが「作画日誌」で「カイの本ができるまで」を「ここでは、わたしが絵を描くことになったところから、本が完成するまでに至る約半年間の制作過程を、日記風に(特別に写真も)ご紹介いたします」とやっている。ま、見ればわかるおもしろや。……クリック地獄

古墳部って、なーに、という方は。
当ブログ06年6月6日「肉食文化と米食文化と古墳部の旅」
ザ大衆食「貝塚紀行」

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「学び」嫌い「教育」「説教」大好き人間

飲食店を食べ歩きし評価を下し書きつらね、ナニモノかになったつもりでいる人には、「学び」嫌い「教育」「説教」大好き人間が多いようだ。その人たちのために、東京の片隅でコツコツ生きている暮らしが抹殺される。

今日はアレコレ忙しくしていると、知人から電話があって長話になってしまった。竹屋食堂は居酒屋化していて、大衆食堂とはいえないと言っているやつがいると、そいつは言うのだ。知らなかったが、居酒屋化している大衆食堂は大衆食堂とは言えないというリクツ?がはびこっているらしい。そりゃおかしいだろう。ということで、口角酒臭い泡を受話器にひっかけながら。

けっきょく、思うのだが、とにかく大衆食堂には、まだまだ「学ぶ」ことが多いと思う。大衆食堂が注目され出したのは近年のことだろう。しかし、何軒だか知らないが、たくさん食べ歩いたぐらいで、これを例によって「厳選」し、正義の大衆食堂の旗手として教えを説こうというのか。半世紀もの歴史の大衆食堂も、アワレ、「居酒屋化」していると簡単に片づけられる。なんという風潮だろう。

ま、それはその人のモノサシだからよいにしても。だけど、ほかのモノサシを学ぶココロぐらい持てないのか。そもそも大衆というのは大衆食堂も、それぞれ違うのではないか。十人十色というのは、まさに大衆食堂の世界でもあるだろう。それをセンセイ様が自分のモノサシで、一律横並びに採点し、教えをたれる。これは学校教育で身についた悪しき習慣か。もっと、大衆食堂では、不揃いを不揃いのまま楽しむことを学ぶべきではないのか。

だいたいね、竹屋食堂は朝食からの営業で、朝昼晩と、まったく様子が変わるのだよ。おれの『大衆食堂の研究』には朝昼晩かよって、その様子が書いてある。もちろん午前の昼近くでもタクシー運転手で「居酒屋化」することもあった。しかし、タクシー運転手にとっては、そこが夜勤明けのめしくって、疲れた身体に酒を入れ憩うところなのだ。ほかにも夜勤明けのビル掃除人とかね。そういう大衆食堂だったのだよ、竹屋食堂は。大衆食堂は、そこを必要とする人たちによって成り立ってきたのであり、その事実に対してもっと謙虚になるべきじゃないかと思う。もし自分の好みではなかったら行かなければよいのであって、大衆食堂ではないと決めつける必要はないだろう。

ま、いいや、いまは昭和レトロだのスローフードだのなんだので、ブームとなれば陳腐なものがはびこるのだ。そういうものが売れる活字になるのである。そして、ラーメンブームがそうであるように、自分なりの生業に励んできた小さな店が、評価されることなく消えていくのだ。あとには、ブームにたかってはテキトウなことを言うセンセイたちが、メディアの周辺でエラソウにしているのだ。そういう国なのだ、日本は。おれは深い深い絶望と怒りと野糞のうちに、ザ大衆食の竹屋食堂に追記をしたのである。けつ喰らえ!……クリック地獄

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2006/07/23

ぼくのしょうらいのゆめ

けつ喰らえ、夢なんかなくても生きていけるよ。だいたい夢だの希望だの、あとなんだ、輝いているだの、NHKのタワゴトみたいで、安っぽいし甘くて薄っぺらで気持わるいんだよ。というようなことを言ったかも知れないなあ。

いやさ、プチグラパブリッシングの編集者、高野麻結子さんから最新作の『ぼくのしょうらいのゆめ』という本が送られてきて、ついていたカードに、「甘く薄い本にならぬよう努めましたが……」と書いてあった。それで、そういえば飲んだとき、進行中のその本の話を聞いて、嫌悪の情をこめてケチをつけていたような気がする。酔っていて正確に覚えていないが、ま、夢や希望なんて、けつ喰らえというようなことを言っていたなと思い出した。

が、しかし、この本、パラッと開いたら、ちょいと何枚かひきずりこまれる写真もあったり、困ったな、いまこんな本読んでいるときじゃない読まなくてはいけない資料があって大変なのだ、と思いつつ、いくつか読んでしまった。

いくつかというのは、「大人になった今、ふりかえる、あのころ、夢みていたこと」と帯にあるように、市川準、内田裕也、大竹伸朗、関野吉晴、祖父江慎、高橋悠治、田中泯、谷川俊太郎、野口聡一、吉本隆明、和田誠らのインタビューで構成されているのだ。

NHK番組みたいに、夢と希望を持ってがんばる君は輝いている、がんばれば夢や希望はかなうといった、成功モデルが語る薄っぺらな一本調子じゃなくて、十人十色が出ていてオモシロイ。それに、それぞれの話は、昔をふりかえるだけじゃなくて、いまどんなことを考えてどんな仕事をやろうとしているか、っていう話があっていいね。

市川準は「これから先、いつかはわからないけど、僕は日本の中だけで映画に関わっている状況を抜け出したいと思っています」と語る。ま、そうだろうなあ。内田裕也は「だけど福沢諭吉じゃあるまいし、ガキの頃から「今に俺はこれを!」なんていう明確なビジョンはないよね。あとはシンプルにさ、格好良くステージをやるだけ」って、そうだろうなあ。

大竹伸朗は「「次を作りたい」って気持ちが起きるってことの方がずっと信じられる。それは、まだ「自分の中の思いに決着がついてない状態」だと思うんだ。長くやっていると、どうしても効率のいい、燃費のいい方向に行くでしょ」と語るね。これは、まるで編集者の高野さんを代弁しているようだ。

関野吉晴の旅と探検に関するウンチクは、ヨシッおれも63で探検やるぞ、って気にさせるね。「過去も未来も、むやみに信じ込むのはつらいよね。明日ぐらいまではイメージできるけど、明後日のことは知る必要もないし考える必要もないし」と言う祖父江慎さんの書棚の写真は、ゲッ、夏目漱石の『坊ちゃん』だけで、こんなに……。

と、いまは全部は読んでられないから、とりあえずあと吉本隆明のジイサンは、どんなこと言っているのかなと思って見た。するとやっぱり、このジイサンにとっては、夢より幻想なのだな。「よくテレビを見ても、「夢を持たなくてはいけない」とか先生方が言っていますけど、持つことは大変結構なことだと僕は思います。だけど、夢なんて持ったって持たなくたって、実現なんてできるかどうかわからない」と、最後に例によって「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」を述べるのだった。このジイサンは、これで食ってきたし、あと余生もこれで食うつもりらしい。

ま、おれのような夢も希望も将来もないオチコボレの酔っぱらいの、だけど純粋で穢れを知らない美しい心のジジイが読んでもオモシロイ。

ってことで、そういえば紹介するの忘れていたけど、高野さんが担当した「あたらしい教科書」シリーズの3『ことば』は、牧野伊三夫さんのイラストレーションであります。高野麻結子さんは、前に交通新聞社にいて、おれがお手伝いさせてもらった『東京定食屋ブック』や散歩の達人ムックなどを担当していた編集者ですね。交通新聞社とは違って弱小出版社ゆえ、増刷したら2冊目をつくれるそうだから、みなさまの清いゼニを、この一冊に、よろしく~。

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リンク集の行方

おれがブログを書いているのは、一つは自分のためのメモということもあって、自分のためのメモなら何も公開する必要はないじゃないか、と言われるかも知れないが、インターネットというのは「これはオレの情報よ、知りたかったらオレの弟子になりなさい、オレの本を買いなさい」ともったいぶることで、たいした価値のない情報や知識を活字にして権威になろうという知的業界の習慣に対し、シロウトでも思いついたことをぶちまけておくと情報と知識の共有ですね、それを見てまた別の発想の飛躍があって逞しく美しく悲しい文化が成長していくかも知れない、そのあいだには誰かさんの情報や思いつきをパクッて自分の著作にしてしまおうという逞しく美しく悲しいことがあるかもしれないが、そういうセコイことはまあいいじゃないか、自分の拙い情報や知識や思いつきが出版業界を泳ぎ渡ることが上手な人たちの役に立てばよいじゃないか、お互いの手持ちをさらすことで、さらに逞しく美しい悲しく成長しようという純粋な穢れなき悪戯の夢のような、ヒジョーに逞しく美しく悲しいブログの在り方もあるように思う。しかし、モンダイは、そういうことで思いつくまま書きつらねていると、自分で書いたことなど、まったく忘れてしまうことだ。とくに、もう63歳になろうというトシだと、そして、いまもそうだが、酒が入って書いていることが多いオレなどは、とくにそうなのだ。

それで、ああだこうだ前置きが長くなったが、以前に「日本料理の謎」という当ブログ内のリンク集をつくって、これはいま、右サイドにあるカテゴリーの「リンク集」に加えたのだが、ほかにもつくりかけのリンク集があったはずなのだ。それは、やはり「日本料理の謎」と同じように、ザ大衆食のほうに1ページつくり、そこからリンクをはって、まだそのリンクが途中のはずで、続きをやろうと思うのだが、そのページがどうしても見つからない。そのタイトルすら思い出せない。ただ途中までしかリンクをはってないから続きをやらなくては、ということしか記憶にないのだ。これは酒のせいなのか、トシのせいなのか、それともそのテーマが忘れてもいいようなものにすぎなかったのか。しかし、あるはずのものが見つからないということは、困ったことだ。これじゃあ、やはりアナログ式にノートに記録しておくのが安全ということになるか。

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2006/07/22

ビンボー出版「野菜炒め」考を掲載

すでに当ブログで何回か紹介した、『現代日本料理「野菜炒め」考』を、ザ大衆食のサイトに掲載した。編集発行人の堀内恭さんの編集後記を、ご覧くださいよ。……クリック地獄


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なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ

22日の、まもなく午前2時だ。梅雨の夜中はナントナク心もシトシトピッチャンで、しみじみ思うことがあるね。また20日に続いて清水義範さんの「四畳半調理の拘泥(こだわり)」なのだが。

「身はひとかどの料理評論家よろしくひとりよがりして、西によろしく鰻食はせる店ありと聞けば早速駆けつけ、東に新出来の仏蘭西料理店ありと知れば……出かけるなんぞは……正気の沙汰にあらず。唯食ひちらかすだけなればまだ可愛気のあろうものを、このソースには力があるの、あの鰻のたれは年輪のようなコクがあるのといっぱしの講釈しては悦に入るとは……をかしいやら恥ずかしいやら」

「そのうちには、およそ世のうまいものは食ひつくしたとうぬぼれつよくなり、いかなる名品逸品もまだひとつおのれの舌を満足させるには到らずと増長し」

「畢竟料理は胃を満たし口を満たさんがためのものなり。高級料亭の板前など、料理は人の目をもまた楽しませるものなりと言うは、味のみにては客は喜ばせる自信なきが故の邪道たること言うに及ばず。天才画家の才持つはずもなき者が、皿に料理並べたるのみにて人の目を楽しませるとは言うもおこがまし」

「またある食通の曰く、料理はただただ口を満たし舌を満たすのみが願わしく、できうれば胃を満たすことなければ食ひ飽くことなくして至上なりとや。……ひたすら舌の喜びのみを味覚と思ひこみ、胃の喜びを味と知らざりしは未熟者の考えである……」

こういった調子で、うまいものにこだわる、そのこだわりかたが、ある男の回顧という姿をかりたりしながら、嘲笑されるように並べ立てられる。そして、そのこだわりかたは、「思い入れ」というより「拘泥」であり、「拘泥」とは、「小さい事に執着して融通がきかないこと」だそうだが、その様が微細にわたって描かれる。だから、読んでいると最初はおかしく、そして悲しき気分になるのだな。

これは、どんな道楽でも陥るアサマシイ姿だと思うが、飲食の場合の切なさは、ことさらのような気がする。だいたい「をかしいやら恥ずかしいやら」「うぬぼれつよく」「増長し」「未熟者」などと言われてしまう現象は、A級B級に関係なく、うまいものこだわりに見られる傾向で図星ではないだろうか。でも、笑っちゃいられない。

そもそも道楽というのは余裕のあるカネ持ちがするもので、たいがいのモデルはそういうものだ。それを中流意識が真似ようとして無理が生まれたと思う。その無理を、まだ引きずっていると思う。つまり万事に余裕がないわけだ。うまいものこだわりは、その道の神様教祖様先生様になろうと、あせっているようにみえる。ま、誰でも人よりは何かで優れていたいと思うものかもしれないが。その姿が、とりわけ飲食の分野では嘲弄されやすいほどあからさまで、アサマシイ。なぜこうも増長なものいいになるのか。うまいものこだわりで粋がる姿も野暮になる。

ようするに無理があるのだな。もっと、なんてのかな、たとえば東京で生きていたら、都会暮らしの孤独とか屈託とか、さまざま、そこからくる感情の起伏などが、料理や食事の場にあるはずだし、そういうものと向いあっている自分がいるはずだ。そういうものが、なんか、ほとんど感じられないね。

無理するこたあねえよ。楽しいことシンドイことを抱えて、普通にうまく食べればいいのさ。ああ、こんな長雨の日々は、こんなもの食べると、猫になりたくなっちゃうよ~、とか、雨の中へ走り出したくなっちゃうよ~なんとかしろ、とか、こんなものをうまいと思う今日のおれはピハハハなのね、とか、そういう感想が言える「グルメ」になりたいね。そうすりゃ、清水義範なんていう名古屋ヤロウにからかわれることはないんだ。切ねえなあ。

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2006/07/21

リンク更新中

え~、このあいだから久々にザ大衆食の「リンクの花園」を更新というか大改装しています。ボチボチやっているので、しばらくかかると思います。いまのところ、ブログのみのリンクは、ごく少なく、またそれを入れるとかなり増えそうなので、でも、やりようを思いついたので、これから徐々にブログのみも増やしていくツモリであります。ま、てきとう。

ザ大衆食「リンクの花園」
http://homepage2.nifty.com/entetsu/link.htm

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靖国参拝問題

小泉は「それぞれの人の思いですから、心の問題ですから」というが、その「心の問題」を総裁選挙の公約に掲げて政治に利用したのは自分ではないか。「心の問題」と言いながら靖国の霊を政治に利用してきたのは小泉なのだ。

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2006/07/20

そういえば清水義範「時代食堂の特別料理」

けつ喰らえパーソナルヒストリーで連想的に思い出したのは、清水義範さんの「時代食堂の特別料理」、そして「ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮」と「四畳半調理の拘泥(こだわり)」だ。いずれも「一億総グルメ」が流行語になった1980年代後半の発表。

時代食堂…とブガロンチョ…は、『国語入試問題必勝法』に収録され、1987年講談社から単行本、これに「いわゆるひとつのトータル的な長嶋節」をオリジナルとして加え90年に講談社文庫。四畳半…は『永遠のジャック&ベティ』に収録され1988年講談社から単行本、91年に講談社文庫。

表題作で話題になった「国語入試問題必勝法」と「永遠のジャック&ベティ」の陰になった感じで、あまり注目されてないようだが、これほど辛らつに、あるいは破壊的に、あるいは痛快に、グルメをからかい笑い飛ばし批判を加えた作品はない、と言ってもよいぐらいなものだ。グルメを揶揄嘲笑した作家は、ほかにもいるけど、これほどシッカリ笑い飛ばし批判した人はいないだろう。

3作とも、それぞれ特徴があるのだが、「時代食堂の特別料理」ばあいは、食事や味覚は個人のパーソナルヒストリーのものでありグルメは幻想にすぎないという視点あるいは主張で、根本のところから批判を加えた「力作」といえるね。拙著『汁かけめし快食學』では、「かけめしはこれからだ」の項で、そこから引用している。

「うらぶれた小さな商店街の、そのまた一つ裏街道に面して」ある「時代食堂」だが。昭和23年生まれの福永信行は、その食堂のどことなく秘密めいた、なんだか入るのがうしろめたいようなところを、比較的好んでいた。

そこでウエイターに言われるままに「特別料理」を頼んだ、信行は、忘れていた過去を思い出す不思議な体験をする。そしていつもその食事に満足するのだった。

見ていると、特別料理を食べるほかの客も、おはぎを食べながら突然立ち上がって敬礼をしたり、またあるときは立派な身なりの紳士がコッペパンを無我夢中でかじり涙を流す。そういうことがあって信行は、どうしてあの食堂があるのか、「何のためにあんな食堂があり、ああいう料理を客に出すのだろうか」疑問に思う。

ある日、そこへテレビなどで見知っている「最近、料理研究家として有名な人物」があらわれる。彼は「料理食べ歩きの本を何冊も出し、テレビのグルメ番組に出てむつかしい顔で解説をし、有名レストランへ行っては私の舌を満足させてくれる料理はひとつもなかったなどと断定している、そういう人物だった」「世の中の誰もかれもが、料理について一家言を持ち、うまいものを食べさせる店を紹介していればテレビ番組ができるという、そういう現代の風潮を代表しているような人間であった。」

ま、その料理研究家が何を食べどんな様子だったかは、本書を読んでのお楽しみ。おれは講談社のまわしものじゃないけど。

で、おれが『汁かけめし快食學』に引用した話になり、コックは信行にこう言う。「私がこの食堂をやっている理由は、」「食べるとは何だったのかを思い出してほしいだけなんです。もうおわかりでしょう。食べるということは、<生きる歓び>なのですよ。それを思い出してほしいというわけです。」

時代食堂は、グルメ騒動のなかで顕著になってきた「「希薄なパーソナルヒストリー」を埋める」作業をしていたのだ。

が、しかし、その1980年代後半から、「B級グルメ」騒動が広がったのだった。であるから、昨日引用したように、情報誌屋が情報誌を否定するようなことを口にしながら情報誌の使い方を述べなくてはならなくなったのかもしれない。

コンニチ的には「世の中の誰もかれもが、料理について一家言を持ち、うまいものを食べさせる店を紹介していればテレビ番組も本もブログもできるという、そういう現代の風潮」でもあるのだ。そういうことでは読書界にしても、有名評論家の評価がブログを通してタチマチ広がるというアンバイだからな。ま、そういう風潮もさることながら、「希薄なパーソナルヒストリー」の広がりの一方には、一本調子の共同幻想の拡大があるのであり、それが不気味だねえ。

「時代食堂の特別料理」は、清水さんの作品にしては、あまり笑えないが、「ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮」と「四畳半調理の拘泥(こだわり)」は、ゲラゲラ面白い。しかも、どちらも、じつに巧妙なパロディになっている。「ブガロンチョ…」は、どういう言葉や言葉の運び、あるいは文章や文体で、愚にもつかない変哲もない材料や料理が、特別な立派そうなおいしそうな料理になっていくかを書いて、まあ呆気にとられるほどだ。檀一雄さんの『檀流クッキング』などをネタにしたパロディのようだが、それを読んでいなくても、十分おもしろく理解できる。

「四畳半…」は、タイトルから想像できると思うが、「四畳半襖の下張り」のパロディだ。これは、もうじつに入り組んだ巧みなパロディになっているけど、名立たる料理人や料理研究家や評論家の文言らしいのが次々と俎上にのせられ刻まれ、もうグチャグチュにグルメは打ちのめされるうえ、出てくる料理器具や材料や調理などを、男と女あるいは男●器や女●器や愛撫のテクニックなどに置き換え想像するもスケベに楽し、という、いやはや清水義範さんの脳みそを酒漬けにして酒のつまみに食べてみたいと思う。

そういえば「拘泥」には「こだわり」とルビがふられているのだが、「拘泥」つまり「こうでい」だと否定的バカ的な感じであるのに、「こだわり」だと肯定的賞賛的な印象であるというのもおもしろい。そのようにタイトルから、巧緻な仕掛けがあるのだ。

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2006/07/19

「地下鉄のザジ」の街的飛躍そしてパーソナルヒストリー

7月13日にザ大衆食に掲載した「「本の雑誌」お料理本ばんざい!に登場する本たち」にレーモン・クノーの「地下鉄のザジ」があったので、引っ張りだして読んだ。おれが持っているのは生田耕作訳の中公文庫、1974年10月10日初版の94年4月10日22版だ。

本の雑誌の特集では、本書を「深読みのためのレシピ」の「反抗のレシピ」に分類して紹介している。つまり「そう、料理の注文というのは特にひとつのレジスタンスでもある。レーモン・クノーの『地下鉄のザジ』の女の子ザジが、エチケットもなにも「けつ喰らえ!」(彼女の決まり文句)とばかり、パリのレストランで断固としてコカコーラを頼み、おフランス料理を片っ端から一刀両断にして、コンビーフを缶詰めのまま出してよと言ったみたいに。旧世界の伝統文化も形なしだが、これをいちばん面白がったのは、もちろん当のフランス人たちだった。」と。そして「そんな若さゆえの「美学」というのが、料理にはあるようだ。」としている。

ま、「料理」的には、そう読めるかも知れない。だが「若さゆえの「美学」」なのだろうか。

舞台はパリの街であり、パリの人びとだ。「けつ喰らえ!」が口癖の田舎少女ザジは、母親が情夫と一晩ヨロシクすごすために、パリのガブリエル叔父さんに預けられる。ザジの願いはただ一つ地下鉄に乗ることだったが、それがスト中である。そこから番狂わせのドタバタが始まる。彼女は、いわゆるパリ的な名所には関心がない。じつは、当のパリッ子たちも関心がないのであり、イチオウ案内を試みようとするが、ザジの勝手な行動から、どんどん崩れてしまう。ガイドに案内された観光旅行団まで、そのコースを逸脱し巻き込まれる。そしてそこにイモズル式に、ガイドブックや公式的な見解からは窺い知れない、パリの街や人びとが姿をあらわす。

つまりザジの「反抗」を通して描かれているのは、街での生き方、とみることができるのだ。もちろん食事も、街での生き方であり、街と密接な生き方なのだ。と、「大衆食堂の研究」的には、深読みできる。もっと文学的には、街における言葉や文体の可能性の追求が本書だと、深読みできるな。

と、考えたとき、ぷわーわわわわわ~と、「街的」という言葉と「パーソナルヒストリー」という言葉がひらめいたのだった。そこで、グーグルの検索に「街的」と叩き込んで見た。すると、ありました、ありました。これだよこれだよ。

「おのぞみドットコム バカと呼ばれるとさみしい! 街と店と情報誌」の「堀埜浩二さんが考えたこと ■6月の問い 街的ってなんですか? いい店ってなんですか?」

これはそこにも書いてあるように、大阪?関西?のタウン情報誌「ミーツ2003年6月号 119ページ「街遊びの入り口」 より引用」したものだ。情報誌屋が情報誌を否定しながら情報誌の使い方を書いているような感じだが、つまるところ……ま、読んで頂けばよい。でも、こういうページ、いつ無くなるかわからないから、長々と引用してしまっておこう。

以下引用というか転載に近いか、お許しあれ……

ところで、街とのかかわりにおいて「パーソナルヒストリーが重要」とはミーツによく見る表現だが、ここに実は難儀な問題が横たわっている。読者の多くは、そもそもパーソナルヒストリーが希薄だから、ガイドブックや情報誌に頼っているはずだ。そして彼らにとってミーツのポジションは、「より信頼できる情報がありそう」てなところだろうから、パーソナルヒストリーうんぬん・・・に対峙した際の態度としては以下のようになるのではないか。

1)「じゃあ、私たちはどうしたらイイんですか?」と教えを乞う。
2)「どうせ自分たちの世代、中身薄いっスよ」と拗ねに入る。
3)「街、街ってウザいんだよ。旨いメシ喰いたいだけなんスから」とブチ切れる。

順番に行く。(1)は素直でおりこうな態度だが、ここでカンタンに「だよね。そんな時はこうしたらイイんだよ」とショートカットしてしまった結果、街的ではないマニュアル人間を大量に生んでしまった。なので、本稿を100回ほど、心して読まれたし。(2)は世代というスケープゴートに問題の本質を回避しているため厳重注意。もっと素直にならないとイケンよ。(3)は実のところ、最もきちんと面倒を見てやらないといけないのだが、ひとまず「旨いメシを食いたいだけ」なんてナメた態度では街で旨いメシは喰えない、と一発ドツいておく。

では、そのような「希薄なパーソナルヒストリー」を埋める、あるいは構築するという作業は可能なのだろうか。

ハイ、可能です(あっさり)。そもそもパーソナルヒストリーなんて「その時の自分にとって都合よく構築された物語の蓄積」でしかない。だから、下町で商売人の家に生まれても物語がない輩もいるし、のっぺりしたニュータウンでも面白いコトはある。一般論で括るのは、それ自体が街的でない。

街で遊ぶ、つまり見知らぬ人の気配を常に感じながら、自分の居場所を見つけていくという作業は、楽しいとシンドイがベタッと貼り付いたまま進行する。一方でガイドブックや情報誌は、そのシンドイ部分を「見ないように」あらかじめ構造化されている。なので、ろくにメニューも見ずに写真で紹介されていたものをそのままオーダーしたり、クーポンを使ってトクをする・・・なんて横着なやり方が敷延し、「中身のない遊び方」だけが拡大していくわけだ。

……引用オワリ

カンジンなのは、最後の「街で遊ぶ、つまり見知らぬ人の気配を常に感じながら、自分の居場所を見つけていくという作業は、楽しいとシンドイがベタッと貼り付いたまま進行する。」ってところで、「地下鉄のザジ」は、まさにそのような話なのだ。そこに「食べる」ということも含まれる。

ザジは、自分の感覚で初めてのパリを動きまわり、楽しいとシンドイが貼り付いた体験をし、そこにパーソナルヒストリーをつくりあげる。んで、だから最後は、このように終る。

裸で鼾をかいている情夫の「品物」を冷静な気持で見つめて去った母親が、駅でザジと落ち合って「で楽しかった?」と聞く。ザジは「まあまね」と答える。
「地下鉄は見たの?」
「うゥうん」
「じゃ、何をしたの?」
「年を取ったわ」

以上、です。

もっと街的な食生活を。
もっと、パーソナルヒストリーとしての食生活を。

それはそうと、コンビーフの馬肉入り安物だけど、あの缶詰を缶から丸ごとかぶりつくと、うまいね。最近やってねえなあ。

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2006/07/18

イカ天がどうした

ワケもなく突然イカの天ぷらを思い出した。それも上京したての1962年ごろ、新宿のション横の食堂でよく食べたイカの天ぷらだ。その姿カタチ、味まで思い出しそうだ。

あれは多分、モンゴウイカの天ぷらではないかと思う。大きな細長い肉厚なやつで、衣がデレッドロッとたっぷりついて、そしてたいがい揚げたてではなく、バットに山盛りになっているやつが出るのだった。

おかずは、そのイカ天だけで十分だった。気分によって、醤油かソースをかけたが、あれはソースが合ったように思う。

最初は、端のほうから一口、衣と身を一緒にアグッと食べる。すると、必ず、衣と身は離れるのだった。その離れたデレッドロッの衣を、どんぶりめしの上にのせ、食べる。天丼の味である。ようするに天丼なんてのは、衣とソースとめしなのだ。と悟る。

そして、身だけになったイカに、また醤油かソースをかけ、めしの上にのせて食べる。衣を脱がしたあとの身の、ムチッムチップリンプリンとした感触がたまんない。一個でいろいろ楽しめるイカ天だった。それを、いま、とつぜん思い出したのだ。

あのころあのイカ天をよく食べたのは、それが、田舎で食べなれていたスルメイカより肉厚で、うまく思われたからにちがいないと思う。それにイカ天一個だけで満足の食事は安く上がった。ドブのニオイ、ションベンのニオイ、アブラのニオイ、ニンゲンのニオイ、いろいろなニオイが、すべておかずだった。

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2006/07/17

夏祭り花火大会だってのに「飢餓はこの世からなくせるか」

故郷の六日町のクボシュンこと久保田俊介さんからメールと電話があった。六日町は今日17日から19日まで夏祭りで、19日の夜は花火大会なのだ。おれがガキのころから続いている祭りと花火大会だ。「来ねえか」って、ああ行きてえなあ、行きたいに決まっていらあ。万盛庵通信みても、うまそうで飲みたくなるし。

六日町まつり……クリック地獄
万盛庵通信……クリック地獄

しかし、おれは「飢餓はこの世からなくせるか」なんていう辛気くさいタイトルの原稿を、シコシコ書いているんだよね。いやだねえ、祭りだまつりだ、陽気にやろうよ。不機嫌でも陰気でも一年は過ぎていくのだから、機嫌よく陽気のほうがいいじゃないか。それじゃあ、原稿なんか放り出して、祭りへ行くとするか……。てなことを言ってみたりして。

「魚沼通」にクボシュンさんが載っている。オススメの裏巻機渓谷、いいねえ。おれも簡単に行ける絶景地というと、裏巻機渓谷をすすめるね。ただ、このコースを巻機山まで登るのは、初心者は止めたほうがよいけど。ま、天竺の里あたりを歩くだけでも、十分よいね。ああ、行きたいねえ。

魚沼通……クリック地獄
裏巻機渓谷……クリック地獄
魚沼の四季「裏巻機山コース」……クリック地獄

へおへお。
ところでアナタ。「飢餓はこの世からなくせる」と思いますか。
人を苦しめても殺してもよい宗教はあるし、弱肉強食の競争原理で死ぬも生きるも「自己責任」という政治や政府もあるのに。

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2006/07/16

食料自給率「40%」は危機か

15日発売の「食品商業」8月号が届いている。今回のお題は、「食料自給率「40%」は危機か」だ。すでに当ブログで書いたと思うが、食生活からすれば、めしをたくのにも味噌汁つくるのにもお湯をわかすのにも洗い物した下水の処理にしても輸入エネルギー源に依存しているのだから、……てえことで。

つまり食生活の実態は、もはや、食料自給率だけを切り離して問題にしたところでリアリティがないところまで来ている。政府は「2015年までに45%の目標を掲げ」ているにせよ、そのもとになる新農基法は、「第二条(食料の安定供給の確保)」で「国内の農業生産の増大を図ることを基本とし、これと輸入及び備蓄とを適切に組み合わせて行われなければならない」としている。
日本人の食生活は、すでに「国土」を超越したグローバルな関係のなかにある。食料自給率40%が危機かどうかではなくて、それを危機にしてしまわない方策を、つねに追求すべきだろう。
しかし、食育基本法をめぐる議論のときもそうだったが、あいかわらず観念だけは「国土」にしがみついている。その現実と観念のギャップこそが、最も大きな危機を招くような気がしてならない。

……こんなアンバイで書いています。ま、本誌をご覧いただけるといいのですがね。

なんだか今日は、あたふた忙しい。ボンカレーではないレトルトカレーで手をヤケドしそうになったし、あれこれアタフタ。本日は、これまで。

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2006/07/15

東海林さだお「タクアンの丸かじり」メモ

文春文庫版97年4月1刷99年4月4刷(初出「週刊朝日」1990年8月3日号~1991年4月19日号(「あれも食いたいこれも食いたい」)、単行本1991年11月朝日新聞社刊)を見ていたら、「What's 汁かけ飯」というタイトルで、味噌汁ぶっかけめしについてウンチクが述べられている。

なかなか面白いが、その次に「ラーメンの誠実」というタイトルで、「山本益博氏は「うまいラーメン屋の見分け方」として次のような点をあげておられる」と5項目を紹介し、その通りの店に入ったが、まずいラーメンだった、「そのまずいラーメンを、まずい、ひどい、と言いながら、結局、スープの最後の一滴まで飲みほしてしまった自分が情けない」と書いている。東海林さんは、ときどき名前をあげたりあげなかったり、山本益博さんに、なかなか上手い皮肉をとばしている。それはまた、山本さんに追随するような「情けない」風潮に対する皮肉とも言えるだろう。

それはともかく、「うまい●●屋の見分け方」というのは、誰が始めたか知らないが、とくに山本益博さんあたりから伝染が激しくなったように思う。外食本のたぐいには、このテの話が登場することが多くなった。ま、ママゴトのような一つの食通プレイだと思って読んでいればよいのだが、書いている著者ご本人が、そのことを書くことによって、自分がその分野の権威であるかのごとくクソマジメであるから、おかしいし滑稽なのだ。このように皮肉を言われることになる。

たしかに、マットウに食を語るには、そのようなハッタリは不要なのだ。しかし、読者大衆というのは、こういうハッタリをよろこぶのも確かであるな。かくてハッタリは、はびこり、またそのハッタリに皮肉をとばす芸も成長する。か。

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カレーライスの夏だけど

夏になるとカレーライスの話題が目立つが、そこには、あいかわらず汁かけめしの姿はない。ああ、今年の夏も、そのように過ぎていくのだ。

しかし、食欲が細る暑い夏には、汁かけめしなのだ。カレーライスも、冷や汁も、ゲロめしもなあ。朝は冷えた味噌汁をめしにかけて食べると元気がでるぜ。

なんだね、それにしても、どうしても汁かけめしを無視したいカレーライスの歴史というのは、日本人やアジア人であるよりイギリス人やアメリカ人でありたい日本人の思想の表出であるね。それが、いかに強固なものであるか、つくずくしみじみ感じるね。

けっきょく、日本の近代史というのは、イギリス人やアメリカ人でいたい日本人の願望がつくりだしたのだな。なんのためにイギリス人やアメリカ人でいたいのかといえば、ようするに「国際社会」で大物ぶりたいのさ。いじましいなあ。

ああ、嗚呼、そして、また今年の夏のカレーライスも、そのように過ぎていくのだ。

クソ暑いなあ。

昨夜は、コネズミさんの入院手術を祝し、王子で5時から飲酒。山田屋から、いつもの柳小路「福助」85歳婆姉妹、さくら新道「リーベ」80歳婆ママと、高齢ババアたちが生きているかどうかチェックし、泥酔。しかし、大正生まれで店に立つバアサンたち、元気だなあ。近々発売の散歩の達人ムック「都電荒川線」にも登場している。今年の夏も無事に過ごしてほしいね。そうそう山田屋だが、おれと同じ新潟県六日町の出身であることがわかった。どうりで高千代辛口なんていう地元民の酒があるわけだ。今後、さらに愛顧するとしよう。

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2006/07/14

暑い夏は辛い赤味噌がいい

なんてクソ暑いんだ。
こう暑いと生ビール!ってのは、あたりめえだ。
それだけじゃねえぞ、暑いときは。
やはり暑いときは、辛い赤味噌の味噌汁だな。
キリッとするねえ。
しかし、味噌を何種類もストックしておくには、家計が許さねえ。
ビンボーは悲しいねえ。
なーに、悲しいことはねえさ、暑い夏は辛い赤味噌で通せばいいのさ。

しかし、きのうの話の続きだが、自炊と外食、いったいどっちがカネがかかるんだ。
目黒のオヤジは「外食したほうが絶対に安い」と言っているぞ、外食はカネのあるやつがするのと違うのか。
なーに、目黒のオヤジの言うことは、しょせんシゴトもカネもある文筆家のタワゴトだ。
だいたい、クイーンズシェフで買い物しているのだぞ。
あんなところで買っていたら、おれの買い物の1.5倍から2倍はかかる。
それにしても、外食と自炊、どっちが安上がりかってのは、とくに一人暮らしでは、難しい問題ではあるがな。
でも、自炊の方が、安くできるだろう。
だいたいビンボー人は、安い自炊をしてやりくりするんじゃねえのかな。
そうなのだ、安くあげる自炊のために努力する。
いや、「努力」なんていう辛気くさいことじゃない、安くあげる自炊を楽しむ。
それをしないですむというのは余裕があるってことだろう。
ま、「【平民新聞】ノーリターン」とか「ハムブログ」のカテゴリー「食」を見てみな。
この人たちが本当に貧乏なのかどうかは知らないが、ビンボー人は、経済のために自炊を楽しむ。
目黒のオヤジのような余裕は、健康のために自炊をなす。
ってことが、今日の結論。ということにしておこう。

しかし、活字文化なんてのは、シゴトもカネもある連中のタワゴト道楽にしかすぎなくなったよな。
活字がビンボーの友であり慰めや希望であった時代もあったが。
ま、このブログにしてもだが、ほんとにカネないやつはパソコンも買えねえからな。
そのカネのないやつが場末の大衆食堂でめしをくっているのだから、はて、これは……。

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2006/07/13

それでは「本の雑誌」お料理本ばんざい!

メンテナンスは今日の午後2時までの予定だったが、はたして無事に終了したのか。この間に、ザ大衆食のサイトに「産業新潮5月号」「フライの謎 追記」「本の雑誌03年5月号お料理本特集」を掲載した。

『本の雑誌』03年5月号「特集=お料理本ばんざい!」は、すっかり忘れていたが拙著『ぶっかけめしの悦楽』が登場しているのだった。それで買ったまま下積みになっていたらしいのだが、このたびめでたく発掘された。

読んでみると、この特集は、なかなかおもしろい。本のセレクトはともかくとして、いわゆる料理本や食エッセイのたぐい以外の本で、なかに食の場面やレシピなどが登場するものを多く扱っているからだ。

食文化本のドッ研究」でも、いわゆる外食食べ歩きうまいもの話グルメ本以外のものも扱うようにしたいと思って、まだあまり掲載してないのだが、フツウの小説やエッセイのなかに、食の本質や実態、深み楽しみなどが盛られている場合が、けっこう多い。

そもそも、この特集は目黒考二さんが自炊を始めたことがキッカケで組まれたらしいが、特集の最初は、その目黒さんによる「中年自炊生活者コレクション 魚焼きロースターへの道」だ。そこで目黒さんは、「数年前なら何気なく読み飛ばしてしまう箇所だが、自炊生活を始めると、こういう料理の箇所が出てくるだけでふと立ち止まってしまう。まず、自分で作れるかどうか。」と、蜂谷涼さんの『ちぎり屋」(講談社)をあげる。ま、そういうこともあるわけだ。

んで、目黒さんは、こうも書く。「自炊生活を始めて驚いたのは、自分で作るというのは結構高くつくことだ。外食したほうが絶対に安い。時間のかかるのは覚悟していたが、出費が増えるとは思わなかった」まだ、自炊1年4ヵ月の人のことばだね。はたして、いまは、どう考えているか。

とにかく、自炊を生活の基点にしているかどうかで、けっこう見方が変わってくるものだ。それは、食について書いている人の場合でも、違いが出る。よく出るか悪く出るかは、べつだが。

しかし、暑いな。

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2006/07/09

「状況食欲論」とな

なははは、古い資料を整理していたら、廃刊になった『SNOW』01年9月号で、画家にして「四月と十月」編集長の牧野伊三夫さんが「状況食欲論」なるものを開陳し、このように述べているぞ。

「 旬のものを、とかその場にふさわしいものを、とかいうことではない。食べもののうまいまずいについては、どのようなものをつくるかということばかりが大事なのではなく、食べる人が、どのように食べる状況についてこだわりをもっているかという点も大事である。
 どのくらい欲望と想像力をもって食べるかということは、何をつくるかということと同様に奥が深い。」

いやあ、まったくだ、まったくだ。これは、あれだね、江原恵さんが主張していた「料理は食べる技術だ」にも通じるね。そして最近は、いいざわたつやさんの『カップ酒スタイル』(ちくま文庫)のココロでもあるな。ふりかえると、おれが牧野さんと出会うきっかけは、この雑誌のこの記事ってことだが。

牧野さんとは、われわれはガイドブックなど持たずに街をウロウロして、身体をはって、よい店を発見し飲むわけだが。チョイとココどうかねという店の前に立つね。外からは中の様子がわからないことがある。すると、トシくって場馴れしズウズウしさも増しているおれが、まず先頭きってガラリと戸を開けて踏み込むね。ところが、あとから続いて入ってきた牧野さんが、店内をグルリ見て、「ここチョットちがう」という顔をするんだな。で、おれは、店の人に、「すみません、ちょっと間違えたようで、すみません、またこんど」とか言いながら、こんどはないよと、うすらバカ愛想笑いをしながら表へ出る。ま、そのように、「食べる状況」について、われわれは身を持ってさがし、こだわる。強くこだわるのは牧野さんだが。牧野さんは、明るさにも、こだわるね。たしかに、明るさは、食欲や味覚と大いに関係あるけど。こういうことが、街歩きとしても、飲食の過程としても、じつに楽しい味わいであるのだ。

ところで同じ号で、作家の保坂和志さんは「大喰いという美学」というタイトルに、このように書いている。「私にとって「食べる」とは量を食べることだ。」「給食では、なぜかいつも給食当番を買って出ていた今村君というのと結託して、余った分は全部私が食べていた。おいしいから食べていたのではない。自分の美学に忠実であろうとして、無理してでも食べていたのだ。でも、やっぱり何でもおいしいと感じていたのかもしれない。食べ物の好みは舌ではなく、大半は脳が――つまり自己イメージが――決めているのだから。」

うーむ、そうだよなあ、「食べ物の好みは舌ではなく、大半は脳が――つまり自己イメージが――決めている」ってこと。これは、牧野さんの「状況食欲論」でもあるね。こういうセリフや、牧野さんのようなセリフは、近頃のうまいもの好きやおいしい店知っているよ~のみなさんからは聞こえてこないのはナゼなのだろうか、と、考えたくなっちゃうな。

で、だよ、この号には、「データベース消費の時代が来た」という記事があって、「データベース消費」とは「若手哲学者東浩紀氏の命名による」と註があるが、ま、ようするに、うまいもの好きやおいしい店知っているよ~で食べ飲み歩きってのは、一種の「データベース消費」でもあるのだな。昭和30年代ブームも、昭和30年代データベース消費であるのだな。たぶん。

これは多様化・細分化が進んだ結果であるらしい。「つまり、あまりにも情報過多なため、消費者は自分自身のセンスによってなにがしかを選択することが不可能な状況にまで追い込まれていた。よって情報の大海をナビゲートしてくれる水先案内人が求められたというわけだ」

ああ、しかし、「自分自身のセンスによってなにがしかを選択することが不可能な状況に追い込まれ」た人びとよ、カナシイではないか。なぜ、そのように追い込まれたのだ。

しかし、コレ、01年9月号のことだ。この編集者はエライ! こういう編集者が増えてくれると、おれも少しはライター仕事が増えるかもしれないのだが……。と、思ったりして。

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「都市の底」の相貌、大衆食堂になにがあるか

このココログは、非常にぐあいが悪くなっている。右サイドバーの下のほうに告知がありますが、11日から13日までメンテナンスがあるそうで、その間いろいろ書き込みなどできなくなるようです。これまで、メンテナンスのたびに状態は悪化しているので、はたしてどうなるか? こちらで書けないあいだ、ザ大衆食やほかのサイトに何か掲載するかも知れない。

では、本日のウダウダ。

『東京百景』(小沢信男、河出書房新社)は先日の下北沢のシンポジウムのために、この本に収録されている「駅前の人生  焼跡闇市のころ」を読み返すのがキッカケで、そのまま読んでいる。

小沢さんの本書と『いま・むかし東京逍遥』(晶文社)は、まさに座右というか寝床の右の本棚にいつでもすぐ取り出せるようにあって、ちょいちょい読んではいるのだが、シンポジウムで戦後の都市や東京や東京の町を掘り返したばかりなので、いろいろ新鮮に思うことが多い。

その中の「都市の底の相貌  朝倉喬司『メガロポリス犯罪地図』を読む」は、『朝日ジャーナル』に1984年10月から85年12月まで、朝倉さんが殆ど毎週連載したものをまとめたらしいのだが、有名無名の事件を追って、「犯人という個人の個別の事情の追いかけではなく、むしろ地理にひそむ深層的必然の読み取り」を小沢さんは評価する。

下北沢のシンポジウムでの「都市を紡ぐ」のセッションでは、「必然」かどうかはともかく、「地理にひそむ深層」を掘り起こそうとした。とくに1980年代以後の消費都市東京は、それ以前の生活の記憶を、失いつつあることについて。

小沢さんは、こう指摘する。「この「都市の底」の相貌は、高度経済成長このかた国民総中流意識とかでのっぺりと均質化した、消費都市東京の姿とは、きわだって対立する。」

「都市の底」というが、物理的にも、そんなに深いところではない。東京の場合、ほんの1メートル前後を掘り返せば江戸がある。が、江戸どころか、わずか数十年前の、高度経済成長以前の「国民総中流意識とかでのっぺりと均質化」する以前の東京すら、塗りつぶされている。首都が、そのような状態であることによって、その首都に一極集中した日本は、「のっぺりと均質化」がすすんだ。

拙著『汁かけめし快食學』も、カレーライスの失われた生活の歴史の発掘の試みでもあるのだが、あとがきで、「おそらく、三十数年前なら、亡き寺山修司さんがライスカレーを大衆食の「三種の神器」とした時代であるが」そのころなら、汁かけめしの歴史にカレーライスを位置づけることは、めんどうなことではなかったに違いないと述べた。

つまり「そのライスカレー、それをつくるオフクロ、そのオフクロがいる台所が目の前にあったからだ。わずか、この三十数年ぐらいのあいだに、日本のオフクロの台所の黄色いカレーライスは、「プロ」や「本場」の厚い壁のむこうに塗り込められた。それはまたオフクロの「生活料理」が蹴落とされていく時代でもあった」

しかし、なんでまあ、自分たちの過去を、こうも簡単に捨てるように塗り込められるのかと思ったが、それはどうやら明治維新で「江戸」が「東京」になったあたりからのクセらしい。

杉浦日向子さんは『合葬』(ちくま文庫)の「日曜日の日本」で、「私の大好きな、そして大切な篠田鑛造氏の著書の中に「明治維新の新体制は、極めて強圧なものであった。どう強圧であったかは、江戸期の旧文物を片端から破砕して、すべて新規蒔直していった時代を建設したからである。」とあります。江戸期の風俗・文化に触れる時、この百二十年間の猛進は何だったのだろうと、ふと思います。」

で、『東京百景』には、その『合葬』のちくま文庫版に寄せた小沢さんの解説も収録されているのだが、「ビルひとつ建たぬ日はないのに。狂乱地価の昨今は、彰義隊士もナウマン像の牙も一切かまわず埋立地へ捨てているのではあるまいか」と書く。過去を捨て新しい装いで塗り込めることは平気で繰り返され、まだ百年もたっていないこのあいだの戦争についても、もう昔のことをいつまでもウダウダいうんじゃねぇということになった。その割には、「武士道」なんだが。

とにかく、思いついたことを忘れないうちに書いておくが、司馬遼太郎さんの「司馬史観」とやらは、ご本人が「司馬史観」と言い出したのか、周りが持ち上げ商売にしたのかは知らないが、高度経済成長期からバブルの、こうした「国民総中流意識とかでのっぺりと均質化した、消費都市東京」にふさわしいものだったような気がする。流行も当然だろう。

「食べ物の本はたくさんあって、いろいろな知識が得られる。しかし、イザ身近なところで、自分の親は何をどう食べていたのか、本を読んでも考えてみても、わからないことがたくさんある。祖父母にいたっては霧のかなたの景色を見るようなものだ」(『汁かけめし快食學』)。

マスコミや司馬遼太郎さんが書いたものより、自分の体験や記憶を大事にすることだね。それから、経営コンサルタントや食べ歩き評論家の目を持たなければ、大衆食堂にある、消費都市東京以前からの蓄積を見られるかも知れない。

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2006/07/08

今福龍太さんの憂い 舌の上のフットボールそして中田

このあいだ「雑誌「談」編集長によるBlog」7月5日に「中田引退の謎と今福龍太さんの慧眼」を見たけど、フン中田の引退には興味ないわいと思って、その先、Webマガジン「en」を見ないまま忙しくしていた。そして先程見たのだが、「リングア・フランカへの旅―〈自由な舌〉を求めて」の 「第4回 舌の上のフットボール」でこんなことを述べているのだ。

ひるがえって、庶民の食の崩壊を私はいまの日本に痛感して、暗澹となる。グルメ文化がかろうじてつなぎ止めている、美食的なレストランの林立とそこで供される気取った料理は、ここでのわたしの思考の対象ではない。私が憂えるのは、日常の食とその延長にある庶民食を供する場が、劣悪な味覚と皮相な合理主義によって支配されてしまったことである。味の豊かな個性を維持していた家族経営の良心的な食堂を、効率優先の市場原理の末端までの浸透によって、私たちは見事に喪失した。

ま、全文をご一読ください。

でも、ま、あきらめるのは、まだ早いでしょう。「しかし、大衆というのは猥雑でしたたかでありますから、そうは簡単にひっこみません」と、おれはこのあいだの下北沢のシンポジウムで述べた。再開発できれいになった、その外側へ、「美食的なレストランの林立」する、その外側へ、「劣悪な味覚と皮相な合理主義に」抗うように、自分たちがやりたいようにやれる飲食店をつくるのだ。けっきょく、そういうことなの。

ただ、いまキケンなのは、「味の豊かな個性を」理解しようとはしないで、なにやら味覚や飲食店などについて精通しているらしい方々が食べ歩いては、尊大な態度で評価しふるいにかけ「厳選」し「名店」とやらを選んで発表する行為によって、この分野に残っていた個性が失われていくことだろう。

前から何度も述べているが、高級専門店に対する評価の仕方と似たようなことを、ただ低価格帯で繰り返すことは、市場の均一化と拡散をもたらし、大きな問題を残す。「味の豊かな個性」や営業の仕方は、とくに家族経営の生業店においては、その地域での長年の蓄積によって決まってきたことで、それを何度か寄ったぐらいで、もしかすると一度よったぐらいで、ダメだし「厳選」する行為は、地理的蓄積を破壊する再開発者の行為にも等しい。

ま、でも、けっきょく偉そうな「採点者」やそれを参考にして来る客より、地元の人たちによって支えられて続くところは続くのだけどね。けっきょく、そういうことなの。だから、どうせなら余計なオセッカイなどやかずに、もっと「味の豊かな個性を」理解するようにしたほうがよいんじゃないかと思うわけだ。だいいち、大衆食などをしかめっ面して評価しても陰気だし、楽しくないだろう。それぞれの個性を楽しんだほうが、どんなによいか。

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ひとはナゼめしをくうのか、杉浦日向子「合葬」を浪花節にして欲しい

ひとはどうせ死ぬと決まっているのだから、無理して苦労して生きようとすることはないのじゃないかと思うが、たいがいの人は無理して苦労しながらでも生きようとする。しかも死んでいくときには、私の人生アッという間だったなあ、と、もっと生きてもよいような感想をもらす人が多く、やれウレシやっと死ねるという感想をもらして死んだひとの話は聞いたことがない。「よろこんで死んだひとはいるのでしょうかね」「さあ、知らんねえ」などと、東中野のムーンロードの「みや」で飲んでオシャベリしたのは昨日の夜。

なんでも最後は突き詰めれば好き嫌いのことになるかも知れないから、みな生きるのが好きだから生きるのだろうと思ったりして、それでフトそういえば料理は、料理が好きなやつがして嫌いなやつはしないということはあるかも知れないが、だからといって最初からそういうものだと決めつけては、世の中おもしろくない。ああでもないこうでもないと考えてみた末に、それでけっきょく好き嫌いがあるんだよなあ、ということのほうがおもしろい。

そもそも好き嫌いにしても、ナゼ好きでナゼ嫌いなのかというモンダイが残る。単に習慣になっているから好きで、習慣になっていないから嫌いということがあるかも知れない。だとしたら、その習慣は、どこから生まれるのか、習慣が生まれやすい環境や条件は、あるいはその反対は、どんなものか。など、いろいろ、考えてみたいのだね。ま、そういうことを考えて楽しんでいるのさ。とか思ったりしなが飲んでオシャベリしたのだが、タナカさんは浪花節は初めてだそうで、「なかなか、おもしろいですね」と興味を示していた。そうそう世の中「食わず嫌い」ということもあるのだから。それならば食ってみるチャンスがどれだけあるかも、好き嫌いに関係するかも知れないな。

ようするに昨夜は、東中野のポレポレ坐で「玉川美穂子のほろ酔いライブ 浪曲浮かれナイト☆うふ」第2回に行ったのだ。7時15分前ごろ着。すると元四谷ラウンド現市井文学のタナカさんが、来られなくなったオオカワさんの代わりに来ましたとあらわれ、やあやあ久しぶり、会うのは2年ぶりですか、このあいだは四つ木でしたよね、えっ、あれ以来ですか。次の本に取り掛かっているが、まだまだ時間がかかるという。よくやるなあ、やはり好きなのか、いやタナカさんの場合は自ら人生の責務にしている感じもあるなあ。

中入りのあいだに、「悲願千人斬の女」の原作者小沢信男さんや、第1回からの人たちや浪曲「常連」さんなどにご挨拶。

プログラム1「慶安太平記 牧野弥右衛門の駒攻め」、しゃみしゃみいず(沢村豊子+玉川美穂子)、そして「悲願千人斬の女 その2」

会場はギッシリ後まで前回同様か少し多めの入りだったかも知れない。その客席をむんずとつかんだ感じで進んだ。「悲願千人斬の女 その2」は、前回のあらすじが最初に入ったので、ややストーリーを追う感じに時間をとられ、男を斬り倒すあたりのアヤが、もうちっと欲しかったなという気分が残った。ま、それでも客席は、十分に湧いた。そこで関係なく、トツゼン、杉浦日向子さんの「合葬」を浪花節にしてくれないかなタマミホさんという思いが湧いた。

終って玉川美穂子さんと沢村豊子さんを囲んで打ち上げがあるということだったが、タナカさんと闇市跡の「みや」へ行く話をしていると、小沢さんは文学教室の同窓生のみなさんと「みや」へ行くという。タナカさんはここに来る前にすでにみやで一杯やってきたけどデハもう一度と。

店内に入ると、小沢さんたちの隣のテーブルが空いていたのでそこへ。挨拶だけかわし、それぞれに飲む。のち、先に帰る小沢さんから「うえの」をいただく。11時閉店ギリギリまでねばり帰る。

と、やや日記風に書いてみた。

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2006/07/07

「青鞜」の「新しい女」たちは、どんなめしをつくったのか?

小沢信男さんの『東京百景』の「「青鞜」の女たち  大正の自由人」を読むと、「若い燕だの、三角関係だのとは、江戸時代には言わなかった。明治にも言わなかった。やっと大正のはじめからなのだ。」とある。「年下の男の愛人を燕とよぶのは、平塚らいてう・奥村博史の出会いにはじまる。三角関係は、大杉栄・神近市子・伊藤野枝らの自由恋愛是非論あたりから頻用された」のだそうだ。

明治44年(1911)平塚雷鳥(らいてう)が「元始、女性は実に太陽であった」と高らかに謳って創刊された「青鞜」だが、おれが気になっているのは、平塚らいてうや神近市子など「新しい女」たちは、男女の恋愛の自由へ向って羽ばたいたようだが、いったいめしをつくったことがあるのか、炊事や食事についてどう考えていたのか、どんなめしを食べながら自由恋愛をしていたのか、なのだ。

平塚らいてうは、山の手のお嬢様育ちで、どう考えてもめしなどつくったことがないように思う、神近市子も生活のニオイがしない。伊藤野枝は、けっこう料理が好きでうまかったような気がする。ほかの女たちについては、ほとんど知識がない。ていどのことしか知らない。

そもそも、「「青鞜」の女」たちや「新しい女」たちのことになると、恋愛や自由を高踏的に語ることが多く、でなければ男女のスキャンダルめいたことばかりで、めしの話が出てこない。しかし、やはり小沢さんは、少しちがって、ちょっとだけだが、そのことに触れている。

それによると、やはり平塚らいてうは「炊事はにがてだった。むしろ博(エンテツ註=らいてうの燕の奥村博史のことね)のほうが上手につくった。」

そして伊藤野枝は、やはり料理が上手だったようだ。平塚・奥村は「あるときは伊藤野枝の提案で、ちかくの辻・伊藤家で(エンテツ註=伊藤野枝は辻潤を捨て大杉栄にはしる前だね)炊事を共同にした。しかし金盥をすき焼鍋にし、鏡の裏を俎板にする野枝方式の奔放に、やはり閉口してつづかなかった。」

生活苦で「新しい女たちは、いまや生活戦線の十字砲火をあびていた。元気なのは、赤ん坊をしょって金盥ですき焼くってる伊藤野枝ぐらいだった。」

ところが、その伊藤野枝は関東大震災のドサクサに、軍によって大杉栄と子どもと一緒に殺されてしまう。生活力の弱い、お嬢様たちが生き残ったのだ。

ま、当時の自由人たちが集まった一膳飯屋のあとが、ザ大衆食のサイトに掲載してあります。もしかすると、ここで、炊事も満足にできない新しい女たちは、めしを食べたことがあるかも知れない。「台東区谷中望月桂の一膳飯屋「へちま」のあと……クリック地獄

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2006/07/06

大衆のめしは持ちがいい

下北沢の続きだが、ま、覚え書きだ。コメンテーターの関根純一さんは、おれより数年あとの1949年に生まれ、50年に両親が下北沢北口の闇市に引っ越して商売を始めたので、そこで育つことになった。

闇市の屋根はトタンで覆われていて、その上は子ども達が遊ぶ「広場」でもあった。また闇市の通路は買い物客であふれていたが、そこをかきわけかきわけ遊んだ。そして、親たちは商売で忙しく、子ども達は子ども達だけで一緒に近くの食堂で食事をすることがあったという。

会場の外国人から発言があって、いま下北沢の子ども達は、どこで遊んでいるのか、子ども達の文化は考えなくてよいのか、という趣旨だった。

そういえば「若者の街シモキタ」には子どもの姿が見えない。子ども達は家にこもってゲームをするか塾なのかと思ったが、再開発を推進するほうも反対するほうも、子ども達にはあまり関心がないような気がした。

自分の商売の対象にならないかぎり、赤の他人。「街」とは、いまや商業集積地のことである。そこまで、街も社会も経済主義市場主義にのみこまれてしまったようだ。

そもそも「都市の再生」というが、その「再生」は経済であって人間や社会のことではない。いかに繁栄する、にぎやかな町にするかということなのだ。つまり経済用語なのだ。

しかし再生は人間や社会のためにある。

……雑多な人々が「労働し生活し憩う」基点だった大衆食堂は「遊びの町」のオモテからは消えていった。でも、無くならない、また新しいスタイルの大衆食堂も生まれている。そこに町の再生の道があるのではないか。……

この場合の「再生」は、もちろん人間であり社会のことで、大衆食堂は懐古の過去のものという印象が強いが、それは容れ物を見て人間をみないからなのだ。

「なんとまぁ東京の町は、容れ物よりも人間のほうが持ちがいいことか。再開発も狂乱物価もなにものぞ、生きかわり死にかわりして住む町ぞと、から元気が湧いたりするのです。」と小沢信男さんは、『東京百景』に書いている。その持ちがいい大衆のめしは、また持ちがいいのですね。生きかわり死にかわりして、続くのです。

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2006/07/05

食事は自宅で食べるもの、だった?

食文化的には、大衆食堂というのは家庭の延長という考えの上に成り立っていた。

『大衆食堂の研究』では、昭和二四年一〇月の『外食券食堂事業の調査』から引用している(クリック地獄)。
「食堂側が良心的たらんとするならば、食生活に内食者が味わう家庭の感覚に欠けた外食者のために、その食堂を家庭の延長となすような努力を払うべきだという結論に到達するであろう」

食事の基点は家庭にあった。

しかし、おれが上京した1962年ごろの東京は、自炊設備つまりガス水道は部屋にはなく共同で利用するアパートが圧倒的に多く、ガス水道付の部屋はアコガレだった。ま、社会低層ほど、自炊が困難だったといえるだろう。しかも、コンビニや弁当屋などなく、食堂を利用する機会が多くならざるを得なかった。

家庭科センセイたちのご指導もあって、家庭での食事がアタリマエという風潮が支配的であったにも関わらず、そのための設備の普及は低劣だったのだ。自炊の習慣は育ちにくい環境がけっこうあった。

そして、高度経済成長以後、現在ではガス水道設備のある個室がアタリマエであるのに、それを利用しないで、外食や中食を利用する人たちが多いという。

どこかで、大きくねじれているね。

家庭での自炊を原則や理念にするかどうかは、ガス水道設備などの社会的条件によって決まるはずだろうと思うが、そうではなく「道徳的」に、しかも「女」の義務として、家庭で料理をつくることをタテマエにしてきたことが、ガス水道設備が個室にまで普及したいまでも、それを利用しない習慣が残った一因ではないかともいえるわけだ。

そしていま、これだけガス水道設備が普及しながら、外食や中食が基本になる生活は、どこかで社会合理性が大きく損なわれているんじゃないだろうか。もっとも、いまの日本じゃ、「社会合理性」など、言うだけムダだけどね。

でも、家庭で料理をつくって食べる楽しみが育つ条件は、ここ数十年のあいだに十分といってよいほど整ったのだ。

おれは上京した最初の下宿は、水道が共同であるだけ、部屋で電気コンロを使っていた。それで、ガス水道付の部屋に住みたくて、運がよいのか悪いのか親の倒産で就職することになり、給料もらうようになって、やっとガス水道付の部屋に入ることができた。一日中ひがあたらない3畳の部屋で、半間の押入れの隣の半間のスペースに半間の半分の流しとガス台があった。ガス台にはコンロ一つしか置けない。もちろん冷蔵庫などない。それでもうれしかった。おれは高校山岳部のときから使っていた、1~2人用のコッフェルを持っていて、これで山で料理をするのと同じようにやっていた。包丁も登山ナイフ。回数としては外食の方が多かったと思うが、それが自分の生活の基点だと思っていた。でも、そのあと大阪に一年間長期出張になり、会社が用意したのは間借だったから100%外食だった。

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2006/07/04

ようするにオモシロイってことだな

しかし、その続きだが、「都市を紡ぐ」のセッションは、なかなかおもしろかったなあ。初田さんと原口さんの発表の内容は、26日に紹介した要旨のとおりだけど、とにかく画像をばんばんつかっての報告なので、すごいおもしろかった。

初田さんは、新橋駅前の闇市跡をビル化した中を、歩くようにして撮影した画像だ。それを見ていると、ふだん歩いているときには見過ごしていたことに気がつくのだなあ。原口さんは、築港の北と南のギャップを、そして立ち飲み屋に集う人たちの様子をビデオクリップで見せてくれた。おれも大衆食堂や、そのまわりの街の様子などを画像をつかって。

で、この前半は、「闇市と戦後の記憶 大衆の痕跡」というタイトルで、ようするに、いまとなってはオヤジの空間、あるいはオヤジが若者時代の空間ですな。それがばんばん映像で流れたあと、後半は、「「若者の街」の形成とその変容」ってことで、一気に原宿の画像。雑誌からのものも含め、原宿の歩行者天国がなくなった93年ごろだったかな?を境に、「裏原宿」がトレンドになっていく様子だ。この前半と後半のギャップがスゴイね。

けっきょくまあ、原宿というのは、ファッションのトレンドリーダーになりうる「場所の力」を持っているってことかな。そして、だから、どこも原宿のようになる必要はないってこと。どこかの真似をするのではなく、自分たちの空間の力を認識する作業が必要だってことだな。それはまた、その空間に、どんな時間つまり歴史が眠っているかを掘り起こす作業であるわけだ。

ま、とにかく、ワレワレは大きな構造物や有名人の言葉で都市を語るのではなく、普通の人たちの空間に眠っている記憶を掘り起こして語り、「場所の力」を蘇らせようとしたわけだが、これは画像の力によって、より容易だったし、フィールドサーヴェイも生きてくる、ってかんじがしたね。

あと、関根さんや会場から発言したご老人のように、そこに住んで暮している人の話というのは、これはもう画像なしでも具体的で、とても貴重だった。闇市のトタンの屋根の上で遊ぶ、半ズボンとランニングシャツの子ども達の様子まで目に浮かんだ。

そして、大衆食堂ってのは、やっぱ、「場所の力」を蘇らせるために、かなり有効だってことだ。

ま、それで、おれの発表は、25日に要旨を紹介したけど、そのときは「労働し生活し憩う」ってところに比重をかけていて、そうするつもりだったが、どうも少し理屈っぽくて、自分でもおもしろくない、ってことで報告原稿をつくっているうちに「愛嬌のある場」としての大衆食堂という感じになってしまった。でははは。

ようするに、おれだけじゃなく、報告者は、自分たちがおもしろいと思った空間を、おもしろいと思った見方で見せた。それがよかったね。そういうことじゃないと「場所の力」は蘇らないし「都市を紡ぐ」ことにならないんじゃないのかな。なーんて思ったりしたわけだ。

とにかくワレワレの報告は、このまま眠らせるのはモッタイナイほど、とくに画像資料が充実していて、おもしろいものだった。と、酔って思いついたので、書きました。とさ。

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2006/07/03

「若者文化」を商品化した「若者の街」の後の祭り

きのうの「カルチュラル・タイフーン 2006 下北沢」の「都市を紡ぐ」のセッションは、ほぼ予定どおり12時半から始まった。

おれは9時半すぎに自宅アパートを出て、打ち合わせが始まる11時半少し前に会場の下北沢成徳高校に着く。すでに原口さんは大阪から深夜バスで到着していた。コメンテーターの地元の北口マーケットで育った関根純一さんと初対面の挨拶。前半「闇市と戦後の記憶 大衆の痕跡」の司会五十嵐泰正さん(日本学術振興会/一橋大学)と、パネラーの初田香成さん(東京大学大学院・都市建築史)、原口剛さん(大阪市立大学大学院・地理学)、おれ。後半「「若者の街」の形成とその変容」の司会木村和穂さん(東京大学大学院教育学)と、パネラーの中村由佳さん(筑波大学大学院人文社会科学)、フィロメナさん(京都大学?)。の全メンバーが初めて揃って打ち合わせ。フィロメナさんと中村さんは「裏原宿」が素材。

開始。五十嵐さんがセッションの概要と運びについて発言。問題提起……再開発に直面する下北沢で「下北沢を守れ」ということがいわれているが、いったい「何を守るのか」。都市の歴史の掘り起こし、そこにあるいろいろな思い入れを見て、さらに、これまでの世代や関わり方を越えて、人びとが共有できる居場所をどのように再構築できるかかがいま問われているのではないか。

トップバッター初田さん、次おれ、次原口さん。関根さんのコメント。休憩。休憩時間中に五十嵐さんの奥さんから声をかけられる。後半、木村さん、フィロメナさん、中村さん。関根さんのコメント。討議、会場からも発言いろいろ、昭和の初めから北沢に生まれ住んでいるご老人の貴重な発言もあった。4時45分ごろ終了。

おわって7時半からの後夜祭まで時間がある。ああ、やっとビールが飲めるぜ、南口「雷や」へ。原口、初田、中村、五十嵐、五十嵐妻、佐々木、ほか10数名と。ああ、こういう暑い日のビールはうめえなあ。酒さえあれば、街なんかどうなってもいい。という気分。

Simokita1後夜祭会場は北口の一角にある、いかにも「若者の街」の、おしゃれなダーツバーなのよ~という感じの大きな酒場。参加者がずいぶんいたのでおどろいた。ほとんどは20代30代の学部生か院生だとか。研究者や研究者のタマゴが、こんなにいるのか。頭の中はわからんが、とにかく食欲旺盛はみなおなじ、一方「若者の街」の「若者文化」の酒場というのは、飲食の文化などない。というわけで、ファストフーズのようなものばかりなのに、料理は出てくるのが遅いし、出てくると、あっというまにハイエナが群がるように手が伸びて見えなくなり、1分もたたないうちにハイエナがしゃぶりつくした残骸が転がっているのだった。そういうことが何度か繰り返されつつ、後夜祭はすすんだ。そのテーブルの残骸の写真を、今日は掲載したいだけなのですね。画像をクリック地獄!

その残骸を見ながら思った。けっきょく「若者の街」というのは産業的マーケティング的な呼び方で、それは「若者文化」とやらを商品化して成功した結果得られた呼び方なのだ。本来の地域社会としての街に対しては、もっと別な言葉が必要なのだな。

ってことで、セッションの内容については、後日報告。の、つもり。

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2006/07/02

いい報告原稿ができた朝は

「大衆食や大衆食堂から見た東京の町」について、なんとか徹夜はせずに、いい報告原稿ができた。20分でおさめるには、チト多すぎるかんじだが、やりながら調整しよう。

ま、でかける前に一風呂浴びて、酒でも一杯ひっかけて行こう。朝は味噌汁ぶっかけめしで酒を一杯ひっかける、これが最高でね。でも、きのうは忙しくて夕飯をつくらなかったから、めしも味噌汁も残っていない。今朝はパンなのだ。パンを食べながら、冷蔵庫の冷酒だな。

では、みなさん、2千円もって下北沢、会場に来てください。

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2006/07/01

将来の夢で乱れた夜の都バス明治通り

きのうは2日の報告の準備をしているうちに、といっても以前に撮影の大衆食堂の写真などを探していただけだが、これが整理が悪いものでなかなか見つからず、そうこうしているうちに夕方。7時から中ざとでの乱交に参加なので出かける。

メンバーは久しぶりに会う編集のK男さんとM女さん、初顔の著書がいろいろある文筆家K女さんと新聞記者S男さん。K女さんは、もしやと思ったらやはり古墳部S女さんと知り合いだった。S男さんは六日町にもいたことがあるそうで、我田大さんのやる店「大」もご存知とか、という話をしていたら、なんとK男さんも我田さんを知っているそうで、知らぬはおればかりの、世間は狭いこと。

乱交とはいえ比較的正常位のうちにすすみ、それでも、あはん、うふん、ぎゃはんと乱れ、最後は質問人形M女さんにのせられ、乱れに乱れマジメに将来の夢などを語り合って、ってなんていう乱交か。

10時に閉店、まだバスがあるはずと、バス停へ。やはり10時台には2本あるのだった。ほろ酔い加減の夜の都バス、明治通りを走る。こんな時間に都バスに乗ったのは何十年ぶりか。気分がよいので尾久駅前で降りずに王子で京浜東北線に乗り換える。

ああ、おもしろい乱交だった。
しかし、みなさん、このブログをよく読んでおられて、おれは書いたそばから忘れているのに、よく覚えていて、おどろいた。また飲みましょうぜ。

と、日記風に書いてみた。

ぼうずコンニャクさんからコメントに書くと文字化けするからとメールが入っていて、「ヨッパライの近藤さんによろしく」だと、近藤さん。

はて、とにかく、明日の準備をせねば。

みなさん、明日は「カルチュラル・タイフーン 2006 下北沢」で会いましょう。よりよい都市を紡ぐために。

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