ワンカップ大関のお洒落な飲み方
一昨日、古書ほうろうの「ふちがみとふなと」へ行く途中で、水割缶とカップ酒を買ったのだが、すでに赤羽で飲んだあとだったので、それほど酒はすすまず、カップ酒は持ち帰り冷蔵庫に入れておいた。
それを先ほど、昼飯がわりに飲んだ。いや、まだ続きをチビチビやりながら、これを書いている。パソコンのキーを打っているのだ。この飲み方、つまり我が家の一点豪華家具、カンディハウスのテーブルトップ直径110センチ丸テーブルで、これを飲むというスタイル、そしてパソコンに向って飲むというスタイル、この二つのカップ酒スタイルを、いまこなしつつあるのだ。というところで、いま底のほうに残っていたやつを、一気に飲んでしまいました。はい、完了。
この二つのカップ酒スタイルは、あの悪態芸達者の買わなくてもよい『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)の著者塩山芳明さんさえ、めずらしく罵声をあびせることせず、素直に影響されカップ酒を買って飲んでしまったという、いいざわ・たつやさんのなかなかおもしろいデビュー新刊買わなきゃ損する『カップ酒スタイル』(ちくま文庫)には、載っていないようだ。
それは、こんなアンバイだった。我が家の一点豪華家具のテーブルですね、天板つまりテーブルトップはムク木つき板づくりという、じつに上品というより神々しい作品ですね、そういうものが我が家にはある。じつはおれがビンボーというのは、将来政界へ打って出るためには、選挙民の大多数を占めるビンボー人を味方につけるための嘘の演出であって、もうすごいリッチな生活をしているのですね。
そのテーブルの上に、いきなりカップ酒を置いてはいけません、ビンボー人はそういうことをするけど、それじゃお洒落じゃないではないですか。ビンボー人でもビンボーを自覚したくない、センスのよい中流なのよ~という幻想のためには、オシャレでなくてはいけませんね。なぜならば、コンニチのオシャレというのは消費用語でしてね。つまりオシャレな気分ほど、オシャレなものを買うことになる。
本来のお洒落なら、あるもので、粗末なものでも、ダサイものでも、ボロでも、使いこなしによってお洒落になるものですね。つまり本来は、お洒落というのは、やりよう、使いこなしの生活文化でありましょう。ところが最近のオシャレはオシャレにやるとなると、オシャレな料理本じゃなきゃいけない、オシャレな小物がなくてはいけない、オシャレな店じゃなくちゃいけない、そういうふうに消費につながるようになっているのです。バカですね~、バカですよ、そういうオシャレは。そもそも使いこなしにはアタマを使いますが、消費ならカネですむわけで、バカでもできるのですよ。だから、それはお洒落ではなくて、オシャレなのですね。
それでエート、そうそう、テーブルのうえに、まずランチョンマットを置きます。ま、ティッシュでかわりをさせるなんてお洒落でいいですねえ。ムクな木の目が美しい上に、純白なティッシュ。その上に、カップ酒を置きます。すると神々しい。つい手を合わせたくなってしまいます。そしたら、素直に、そうしましょう。
そしておもむろに、カップ酒を左手に持ち、右手はアルミのふたにそえ、指をかけるところですね、あそこに指を入れ、グッとひっぱる一瞬、そのときの、アア、もう射精しそうなほどの快感が、たまらんわけです。オオ、エクスタシー、ってなもんですが、こんな美しい生活用語を使っていると、また好きなHなおかしなところからトラックバックがくるかな? ま、いいか。
それで、モンダイは、そのカップ酒が、「ワンカップ大関 ジャンボ」ってやつなのだ。つまり、これは昭和の労働者の由緒古いカップ酒であるがゆえに、糖類、酸味料添加の酒なのだ。こだわっているねえ。レトロ趣味で、この酒を愛さないのはインチキだね。いや、今日は、そうやって、ゲンシュクな気持で飲んだら、その甘味、これは、まさに古い昭和の高度成長期の貧乏な味だなあ、そしてそれがイマでも生きているのだ、という思いがシミジミしたのだった。
それを書いておこうと思っただけです。長々、すみません。
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