「地下鉄のザジ」の街的飛躍そしてパーソナルヒストリー
7月13日にザ大衆食に掲載した「「本の雑誌」お料理本ばんざい!に登場する本たち」にレーモン・クノーの「地下鉄のザジ」があったので、引っ張りだして読んだ。おれが持っているのは生田耕作訳の中公文庫、1974年10月10日初版の94年4月10日22版だ。
本の雑誌の特集では、本書を「深読みのためのレシピ」の「反抗のレシピ」に分類して紹介している。つまり「そう、料理の注文というのは特にひとつのレジスタンスでもある。レーモン・クノーの『地下鉄のザジ』の女の子ザジが、エチケットもなにも「けつ喰らえ!」(彼女の決まり文句)とばかり、パリのレストランで断固としてコカコーラを頼み、おフランス料理を片っ端から一刀両断にして、コンビーフを缶詰めのまま出してよと言ったみたいに。旧世界の伝統文化も形なしだが、これをいちばん面白がったのは、もちろん当のフランス人たちだった。」と。そして「そんな若さゆえの「美学」というのが、料理にはあるようだ。」としている。
ま、「料理」的には、そう読めるかも知れない。だが「若さゆえの「美学」」なのだろうか。
舞台はパリの街であり、パリの人びとだ。「けつ喰らえ!」が口癖の田舎少女ザジは、母親が情夫と一晩ヨロシクすごすために、パリのガブリエル叔父さんに預けられる。ザジの願いはただ一つ地下鉄に乗ることだったが、それがスト中である。そこから番狂わせのドタバタが始まる。彼女は、いわゆるパリ的な名所には関心がない。じつは、当のパリッ子たちも関心がないのであり、イチオウ案内を試みようとするが、ザジの勝手な行動から、どんどん崩れてしまう。ガイドに案内された観光旅行団まで、そのコースを逸脱し巻き込まれる。そしてそこにイモズル式に、ガイドブックや公式的な見解からは窺い知れない、パリの街や人びとが姿をあらわす。
つまりザジの「反抗」を通して描かれているのは、街での生き方、とみることができるのだ。もちろん食事も、街での生き方であり、街と密接な生き方なのだ。と、「大衆食堂の研究」的には、深読みできる。もっと文学的には、街における言葉や文体の可能性の追求が本書だと、深読みできるな。
と、考えたとき、ぷわーわわわわわ~と、「街的」という言葉と「パーソナルヒストリー」という言葉がひらめいたのだった。そこで、グーグルの検索に「街的」と叩き込んで見た。すると、ありました、ありました。これだよこれだよ。
「おのぞみドットコム バカと呼ばれるとさみしい! 街と店と情報誌」の「堀埜浩二さんが考えたこと ■6月の問い 街的ってなんですか? いい店ってなんですか?」
これはそこにも書いてあるように、大阪?関西?のタウン情報誌「ミーツ2003年6月号 119ページ「街遊びの入り口」 より引用」したものだ。情報誌屋が情報誌を否定しながら情報誌の使い方を書いているような感じだが、つまるところ……ま、読んで頂けばよい。でも、こういうページ、いつ無くなるかわからないから、長々と引用してしまっておこう。
以下引用というか転載に近いか、お許しあれ……
ところで、街とのかかわりにおいて「パーソナルヒストリーが重要」とはミーツによく見る表現だが、ここに実は難儀な問題が横たわっている。読者の多くは、そもそもパーソナルヒストリーが希薄だから、ガイドブックや情報誌に頼っているはずだ。そして彼らにとってミーツのポジションは、「より信頼できる情報がありそう」てなところだろうから、パーソナルヒストリーうんぬん・・・に対峙した際の態度としては以下のようになるのではないか。
1)「じゃあ、私たちはどうしたらイイんですか?」と教えを乞う。
2)「どうせ自分たちの世代、中身薄いっスよ」と拗ねに入る。
3)「街、街ってウザいんだよ。旨いメシ喰いたいだけなんスから」とブチ切れる。
順番に行く。(1)は素直でおりこうな態度だが、ここでカンタンに「だよね。そんな時はこうしたらイイんだよ」とショートカットしてしまった結果、街的ではないマニュアル人間を大量に生んでしまった。なので、本稿を100回ほど、心して読まれたし。(2)は世代というスケープゴートに問題の本質を回避しているため厳重注意。もっと素直にならないとイケンよ。(3)は実のところ、最もきちんと面倒を見てやらないといけないのだが、ひとまず「旨いメシを食いたいだけ」なんてナメた態度では街で旨いメシは喰えない、と一発ドツいておく。
では、そのような「希薄なパーソナルヒストリー」を埋める、あるいは構築するという作業は可能なのだろうか。
ハイ、可能です(あっさり)。そもそもパーソナルヒストリーなんて「その時の自分にとって都合よく構築された物語の蓄積」でしかない。だから、下町で商売人の家に生まれても物語がない輩もいるし、のっぺりしたニュータウンでも面白いコトはある。一般論で括るのは、それ自体が街的でない。
街で遊ぶ、つまり見知らぬ人の気配を常に感じながら、自分の居場所を見つけていくという作業は、楽しいとシンドイがベタッと貼り付いたまま進行する。一方でガイドブックや情報誌は、そのシンドイ部分を「見ないように」あらかじめ構造化されている。なので、ろくにメニューも見ずに写真で紹介されていたものをそのままオーダーしたり、クーポンを使ってトクをする・・・なんて横着なやり方が敷延し、「中身のない遊び方」だけが拡大していくわけだ。
……引用オワリ
カンジンなのは、最後の「街で遊ぶ、つまり見知らぬ人の気配を常に感じながら、自分の居場所を見つけていくという作業は、楽しいとシンドイがベタッと貼り付いたまま進行する。」ってところで、「地下鉄のザジ」は、まさにそのような話なのだ。そこに「食べる」ということも含まれる。
ザジは、自分の感覚で初めてのパリを動きまわり、楽しいとシンドイが貼り付いた体験をし、そこにパーソナルヒストリーをつくりあげる。んで、だから最後は、このように終る。
裸で鼾をかいている情夫の「品物」を冷静な気持で見つめて去った母親が、駅でザジと落ち合って「で楽しかった?」と聞く。ザジは「まあまね」と答える。
「地下鉄は見たの?」
「うゥうん」
「じゃ、何をしたの?」
「年を取ったわ」
以上、です。
もっと街的な食生活を。
もっと、パーソナルヒストリーとしての食生活を。
それはそうと、コンビーフの馬肉入り安物だけど、あの缶詰を缶から丸ごとかぶりつくと、うまいね。最近やってねえなあ。
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