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2006/07/07

「青鞜」の「新しい女」たちは、どんなめしをつくったのか?

小沢信男さんの『東京百景』の「「青鞜」の女たち  大正の自由人」を読むと、「若い燕だの、三角関係だのとは、江戸時代には言わなかった。明治にも言わなかった。やっと大正のはじめからなのだ。」とある。「年下の男の愛人を燕とよぶのは、平塚らいてう・奥村博史の出会いにはじまる。三角関係は、大杉栄・神近市子・伊藤野枝らの自由恋愛是非論あたりから頻用された」のだそうだ。

明治44年(1911)平塚雷鳥(らいてう)が「元始、女性は実に太陽であった」と高らかに謳って創刊された「青鞜」だが、おれが気になっているのは、平塚らいてうや神近市子など「新しい女」たちは、男女の恋愛の自由へ向って羽ばたいたようだが、いったいめしをつくったことがあるのか、炊事や食事についてどう考えていたのか、どんなめしを食べながら自由恋愛をしていたのか、なのだ。

平塚らいてうは、山の手のお嬢様育ちで、どう考えてもめしなどつくったことがないように思う、神近市子も生活のニオイがしない。伊藤野枝は、けっこう料理が好きでうまかったような気がする。ほかの女たちについては、ほとんど知識がない。ていどのことしか知らない。

そもそも、「「青鞜」の女」たちや「新しい女」たちのことになると、恋愛や自由を高踏的に語ることが多く、でなければ男女のスキャンダルめいたことばかりで、めしの話が出てこない。しかし、やはり小沢さんは、少しちがって、ちょっとだけだが、そのことに触れている。

それによると、やはり平塚らいてうは「炊事はにがてだった。むしろ博(エンテツ註=らいてうの燕の奥村博史のことね)のほうが上手につくった。」

そして伊藤野枝は、やはり料理が上手だったようだ。平塚・奥村は「あるときは伊藤野枝の提案で、ちかくの辻・伊藤家で(エンテツ註=伊藤野枝は辻潤を捨て大杉栄にはしる前だね)炊事を共同にした。しかし金盥をすき焼鍋にし、鏡の裏を俎板にする野枝方式の奔放に、やはり閉口してつづかなかった。」

生活苦で「新しい女たちは、いまや生活戦線の十字砲火をあびていた。元気なのは、赤ん坊をしょって金盥ですき焼くってる伊藤野枝ぐらいだった。」

ところが、その伊藤野枝は関東大震災のドサクサに、軍によって大杉栄と子どもと一緒に殺されてしまう。生活力の弱い、お嬢様たちが生き残ったのだ。

ま、当時の自由人たちが集まった一膳飯屋のあとが、ザ大衆食のサイトに掲載してあります。もしかすると、ここで、炊事も満足にできない新しい女たちは、めしを食べたことがあるかも知れない。「台東区谷中望月桂の一膳飯屋「へちま」のあと……クリック地獄

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