15、16、17と私の日々は……
「お盆サマ」をやってきた。「お盆サマ」という言い方は、おれが生まれ育った故郷にはなかったが、そういう言い方をする地域もあるのだな。お盆のやり方も、かなり違って、オモシロイ。
とにかく、寝床は、薄がけ一枚と厚い上がけ。寝付くときは、両方かけないと「寒い」というほどではないかんじだったが、朝方には、ちゃんと両方をかけて寝ていた。
標高約600メートルの谷底の、「過疎」なんていう言葉じゃいいあらわせない、もう「滅び」の埋め立てが、首から上だけを残して、すぐそこまできているかのような山間の「お盆サマ」は、家族4人だけで静々と終った。
先の大戦での戦死者が1名、昨年だったか、遺族に対する何だかの交付金があったので、その家の主は、そんな金は自分が貰う金じゃない墓に使おうと、戦死者の墓石を立派につくりかえたのが、この春だった。その墓石が建つ先祖代々の墓に参り、さらに、足元が滑る急な山道をくねくね登って、江戸時代中期頃からの銘が刻まれる、もう一つの古い先祖代々の墓に参った。
その「滅び」は、その家系の歴史のなかで、秒読みに入っていることを実感する。
急峻な林の中の墓所には、墓石と、いつごろつくられたかわからない、角のとれた石造りの小さな祠が並んで建っている。仏として供養されたあとは神になるのだそうで、その神になったものたちの霊だか魂だかが宿るところが、その小さな祠ということになっている。銘がわからない先祖も、そこでまとめてめんどうみられる、まことに都合のよい思案のゆきとどいた、神仏混合だと思う。この地域には、無数の小さな祠があるが、それらは、そうして出来て残ったのかも知れない。
ただでさえ20戸ぐらいの集落は、すでに1戸は住む人もない。当代でおわる家も、わかっている。しかも暮らし向きの条件は、ここ数年、悪くなるばかりだ。医者に罹るのさえも困難になってきた。毎日の食事のための買出しも難しくなるだろう。自給のための畑は、イノシシらの支配するところとなった。
しかし、険しい人生の結果なのか、根っからの楽観と諦めか、「滅び」は山の空気のように澄んでいた。飲んでは眠り、その空気をタップリ吸った。
と、ややセンチメンタル田舎だけん、をやったあとで、また下界の暑さの中にもどり、「滅び」など知らぬ都会の欲深く濁った空気を吸い、ありゃりゃりゃ、はあ、あれもやらねばこれもやらねば、なのだな。
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コメント
ボンさん、どーも。
暑くて、声も肉体も枯れています。
しかし、さて、ワタシは枯れた男でしょうか。
うふふふふふ。
投稿: エンテツ | 2006/08/18 16:37
ああ、藤圭子の「夢は夜ひらく」の
はかな気なハスキーヴォイスが聴こえて
きそうな空気感ですね。またエンテツさん
には「昭和枯れススキ」の切なさなども
似合っていそうに感じますが、さて。
投稿: ボン 大塚 | 2006/08/18 09:57