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2006/08/08

念のために「食文化」 覚え書

ま、講演のためもあって、「食文化とは」について、あらためて調べたり考えたりしている。

「生活文化としての食物を理解しようとするには、「生産」「流通」「消費」の三要素を構造的にとらえる必要がある」と、江原恵さんは『【生活のなかの料理】学』(百人社1982年)で述べる。このひとは、いつもリクツっぽいが、まっとうで簡潔明瞭だ。

「ヒトは食の営みなくしては生存できないから、日本における食の歴史は、この国土に人間が住みついた時点に始まる。そしてその食を人間以外の動物ではほとんどみられない何らかの手段によって、より望ましい「たべもの」とする行為を、広義の文化(たとえば、食材をそのままではなく焼いたり煮たりと手を加え、より食べやすくして食べるなど)と解すれば、食の文化もまた、この時点で成立したものといえよう」と、石川寛子さんは『近現代の食文化』(弘学出版2002年、石川寛子・江原洵子編著)で述べる。わかりやすいが、江原さんが主張する、「「生産」「流通」「消費」の三要素を構造的にとらえる」が、忘れられやすい表現だ。

「より望ましい「たべもの」とする行為」は、生産、流通、消費の構造のなかで、行なわれてきた。なかには個人的行為も少なくはないが、その構造ぬきというのは、ターザンでもないかいぎり不可能だな。

ともあれ、人間の歴史は「おいしく食べる=おいしく食べたい心」の歴史だったといえるだろう。権力闘争や英雄に偏向した貧しい歴史は、それを理解できない。

食文化研究の「大家」石毛直道さんは、『講座 食の文化』第一巻「人類の食文化」(財団法人 味の素食の文化センター1998年)の冒頭、「監修のことば」で、こう述べる。

以下引用……

 「食べること」を文化として考えていくのが「食の文化」の立場である。
 食べることに関する従来の研究の主流は、おもに食料の生産にかかわる農学の分野、食物の加工をあつかう調理の分野、食べものが人体にどう取り入れられるかを調べる生理学・栄養学の分野に話題が集中していたように思う。そこでは、食べる人の心の問題にはあまり考えがおよんでいなかったのではないか。
 ”日常茶飯事”ともみえる「食」のなかに文化を発見し、学問研究の対象とする。
 すると、そこに現われてくる「食の文化」の本質は、食べものや食事に対する精神のなかにひそむもの、すなわち人びとの食物に関する観念や価値の体系であるといえる。食べることに関するモノや技術、人体のメカニズムをいわばハードウエアとすれば、これはソフトウエアに当たるものである。

……引用おわり

これも、「食べることに関するモノや技術、人体のメカニズムをいわばハードウエアとすれば」というなかに生産や流通の構造がアイマイになりやすいキケンがある。

同じ本で、責任編集者である吉田集而さんは、こう書いている。「食文化の研究は「食」を文化の問題として取りあげることである。文化とは、人間が後天的に獲得したもの、あるいはつくり出したものである。生得的あるいは生理的、本能的なものではないものであり、技術であれ、制度であれ、組織であれ、人間が後天的につくり出したものであり、とりわけ重要なものは価値観である」

これは、「ぶんか」とはについて明快であり、かつ江原さんの主張に近い。ただ、構造の把握より価値観の把握に比重が偏るキケンがある。

おれとしては、「食べ物」を「文化財」としてとらえる、という表現で、食文化を掘り下げるのがいいかなと思っている。いまのところだが。酒を飲むと、変わるかも知れない。いま少し安ワインが入った状態で、そう思った。

きのうひさしぶりの編集者H岩さんから連絡があり、書評を書いてくれと。本は古くてもよく、おれが選べる。ただいま、本を捜査中。

もう1人ひさしぶりの男、そのときどきによって職業が違う、いまは編集季節労働に従事しているヤナセさん、シゴトの話は呑みながらということに。

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