幸福なき快楽
「幸福なき快楽」というコトバは、数年前だったか? コンニチの消費社会の特徴を語るために流行ったことがあるような気がする。このコトバは、検索してみると、ルソー様のオコトバのようだが、そうとは知らなかったし、ルソー様に回帰することが目的ではなかったように思う。
ま、そのことはぬきに、「幸福なき快楽」というコトバを思い出し、とくにコンニチのような細分化された欲望と消費の時代をよく表しているなあ、とあらためて思った。
このブログでは、「幸福」について、何度かふれている。それは、主に、健康と味覚に矮小化された食を批判する意図があってのことだ。たとえば、こんなぐあいだね。
06年5月26日 健康の増大、幸せの縮小
06年3月4日 「成功」の食と「幸福」の食
05年12月27日 嗜好と「食育」と「健康教」「栄養教」
05年6月4日 家庭にあるコト
このことを思い出したのは、きのう書いたように、大書店に並ぶメディアには、ビンボー人の影が薄いことに気づき、では、誰がそこにいるかというと、細部に興奮し快楽する人びとなのだ。そして、その細部の快楽のためには、必ず消費がつきまとう。近年の「ブーム」といわれるものは、ほとんど、それだ。
人びとは、とても細分化されたマニアックなタコツボのなかで快楽する。同類仲間が共感し興奮しあい快楽する。その快楽を「幸福」と錯覚する。その快楽が継続しないと「幸福」を感じられない。こういうブログも、そのためにカテゴライズされ活用されるのだが。そうなると、消費は、もう麻薬のようなものだ。ガマンできない、カネ出しちゃうね。いやはや、すごいことになっている。
「健康」も「グルメ」も、ようするに、それなのだ。
反中国も反北朝鮮も、もちろん反米も、ま、「靖国」も「反靖国」も、それなのだ。声高にそれを叫ぶことで、自ら興奮し快楽し、溜飲を下げる。そのためにメディアを必要とし消費する。
それらは、出口のない、隘路にはまった欲望と消費の姿ではないだろうか。
それは生活を消費に矮小化してきた結果なのだ。
だからさ、もっと「幸福」の食を意識してみよう、と、あらためて思ったのさ。
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