人間は国が亡んだとて生きてゆける
おれが受けた戦後「民主主義」教育とやらは、国つまり国事の歴史であって、そういう歴史を教育されていると、なんとなく国があって、自分は食べていけるんだな、という気分になる。
しかし、歴史の実際は、必ずしもそうではない。古い昔のことをいえば、「食べること」が先で、それから国が生まれている。それに、比較的新しい時代、いまでも、国が亡んでも生きている人たちはいる。日本の歴史においても、「食べること」のために国が存在したことはないように思う。だからといって国はイラナイということではなく、国が必要ならば「食べること」のための国を未来に構想すべきだろう。ということで、過去の歴史も、そういう視点でふりかえってみるのは、ムダじゃない。
ま、とりあえず。[書評]のメルマガ vol.151(2004.2.9発行)から
■食の本つまみぐい 遠藤哲夫
(4)国事よりも食事が大事
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邱永漢『食は広州に在り』龍星閣、1957年。中公文庫、1975年。
前に書いた、丸谷才一さんが『食通知ったかぶり』で「戦後の日本で食べもののことを書いた本を三冊選ぶとすれば」とやったうちの一冊。食文化的には、何度読んでもイロイロ面白いのは、本書だ。
中公文庫のカバーには、こうある。「美食の精華は中国料理、そしてそのメッカは広州である。広州美人を娶り、白亜の洋館に在って、時に自ら包丁を手に執る著者が薀蓄を傾けて語る中国的美味求真。一読、その美酒佳肴に酔う」。食通を気どる読者が喜びそうな言葉をつらねてあるし、そういう読み方もできるが、邱さんは「食通」であることを否定している。30歳代そこそこのことだからね。
一方、その解説、丸谷才一さん。「邱がわれわれに教えようとしたことは、やたらに格式張った儒教道徳の誤りだけではない。彼はもう一つ、まさしく昭和二十年代の後半において日本人が学ばねばならぬことを説きつづけたのだが、暢気なわれわれは、たかが食べもののことを書いた随筆のなかにそんな大それた教訓が秘めてあるとは思わなかったらしい。彼の教訓とは、人間は国が亡んだとて生きてゆける、ということであった」
じつに東大優等生的な味気ない解説だし、それこそ邱さんが本書で天下国家より食事と、カラカラ笑いとばした事大主義日本人のオカシサだと思うのだが、そういう読み方もできる。単なる「中国的美味求真」の書ではない、イヤまさに「中国的美味求真」か。いま「食育基本法」なるものを制定し、「食育推進国民運動」なるものをやろうという日本、本書を読んだほうがマシのような。
1954年末から「あまカラ」に連載された。『食は広州に在り』とはシャラクセエ。しかし、それが「美食」のことではなく、猫でも鼠でも蛇でも、なんでも食べてしまう広州という意味なら納得できる。邱さん自身も広州出身の奥さんがゲンゴロウを食べるのには、参っているしな。
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