コンビニの棚化するカテゴリーの生活の行方
きのうの「なぜ「食文化」がないのか」で書き足りないことがあった。「文化」というとなんだか気どったかんじだけど、「食文化」の場合、チトちがう。このコトバを使うことで初めて、「大衆の食生活」や「日常茶飯の食」が関心や興味の対象になった。
それまでは、うまいものやうまいものを食べさせるよい店、あるいは食物や農学や生産や加工や料理や栄養…という関心や興味のもたれかただった。この流れは、あいかわらず続いていて、「グルメ」「B級グルメ」「クッキング」「外食」「飲食店」「食品」「栄養」「健康」など、いろいろな表現でカテゴライズされている。
だけど、「大衆の食生活」や「日常茶飯の食」や、そこにある文化に対する関心や興味ってことになると、はじかれてしまう。「料理」というカテゴリーでは、なぜか、レシピが中心である。そこで、ま、いまのところ、「食文化」ってことでないと、「大衆の食生活」や「日常茶飯の食」をすくえないわけだ。
だいたい近頃のカテゴリーは、コンビニの陳列棚みたいだ。細分化されていて、どこに何があるか、わかりやすい。つまり、そのほうが、売り買いしやく、経済効率がよいわけだ。それは産業の思想であって、なにかアレコレ考えながらウロウロしようという考えは非効率であり排除されている。
こういうカテゴライズは、いま、なかなかおもしろいことになっている。スーパーでも売り場や陳列棚はカテゴリーによって整理されているわけだけど、あまりに整理がすすんでしまうと、客の店内滞在時間が短くなってしまう。つまり欲しいものに、簡単にたどりつき、素早く買い物ができる。となると、店内滞在時間が短くなる。しかし、売り上げをのばすためには店内滞在時間を長くしなくてはならない。というわけで、一方ではカテゴリーを細分化し整理しながら、一方では店内滞在時間を長くするためのアレコレの対策をする、という状態になる。ああ、深化する矛盾。
買い物を楽しむのも食事の楽しみの一つで人生の楽しみの一つ。リクツではそうだが、人びとは経済効率一本やりの産業の隷属下にあるため、休日のデパートやショッピングセンターでの買い物以外は、日々の買い物をゆっくり楽しむ余裕などない。アレコレ考える余裕もなければ、そんなことはしたくない。ガイドブックにしたがって効率よくよい飲食店に入り、あるいは絞られた興味や関心のテーマにそった本やビデオやテレビ番組を見て、またそのためにも、買い物や食事をゆっくり楽しんではいられない。
だから、わかりやすくカテゴライズされた売り場は便利だ。店の方も、あるところまでは、その方が効率のよい商売ができる。そのように「進化」してきたのだが…。
消費せよ
人生を楽しめ
疑いを持つな
物欲と嗅覚の肥大したブタになれ
何も考えない消費者であれ
そして労働者であれ
流行はつくってやる
嗜好は用意してやる
従順なものは保護してやる
生産・流通・小売・金融・サービス・医療・娯楽・スポーツ・セックス
すべて私たちが用意する
……と三友京一郎はいうのだが、そしてそういう産業体制下で、効率のよいカテゴライズとベクトル合わせがすすみ、ベストセラーや高視聴率を叩き出す仕掛け人が巧みに演出し、そこに生活は組み込まれてきたのだが。とはいえ、そうは産業の思惑どおりに全てがいっているわけではなく、しかし、そのことについて書こうとかすると既存のカテゴリーに収まらない。というかんじだろうか。
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