なぜ「食文化」がないのか
暑い。この部屋の温度計は、まもなく確実に40度をこえる。毎度のことだ。西日が差し込む部屋は厳しい。厳しい日々は、ニンゲンに何かをもたらすか。何も、もたらさない。厳しくすれば、ニンゲンは正しく育つように思っている人もいるようだが、そんなわけはない。厳しく鍛えれば、ニンゲンは強く育つように思っている人もいるようだが、そんなわけはない。だいたい、いまだに犬の訓練とニンゲンの教育を同じように考えている人がいるから、おどろく。ああ、脳みそが熱くて、わけのわからん正しいことを書いているようだ。
今月の末にスーパーのトップセミナーで講演するレヂュメを10日までに出さなくてはならないことを思い出し、のろのろやっている。食品商業に連載中の「食のこころ、こころの食」の内容にそった話ということが依頼の趣旨なのだが。ま、食文化とは何か、食文化からみたスーパーとか、そういうことだね。
きのうは、書評のメルマガの締め切りで、石毛直道さんの『上方食談』(小学館、2000)について、書いて送った。正確にいうと、この本に収録されている、「錦市場探訪」だけを取り上げたのであり、「ほかは用がない」と書いた。
「錦市場探訪」は、『ミセス』1971年6月号(文化出版局)に掲載され、大変話題になった。おれは、その年の9月に企画会社に転職して、食のマーケティングに関わったのだけど、まだ、その石毛さんと京都の錦市場の人気が継続していて、高まるばかりだった。そしてそれからのち、石毛さんは、食文化研究の中心人物であり続ける。
日本で「食文化」が意識されだしたのは、この「錦市場探訪」のあたりからで、これだけが端緒というわけではないが、そういう意味で、書評のメルマガに取り上げたのだな。
70年代後半に「食文化ブーム」が沸騰し、「食文化」という言葉は大いに広まり、大学の講座にも登場するまでになったのだが……。でもね、いま、たとえば、yahooのカテゴリーには「食文化」というのが、ないんだなあ。これはどうしたことかと思うのだが、ま、そうなのだ。書店の分類にも、普通はない。サイト「ザ大衆食」や拙著『汁かけめし快食學』などは、「食文化」というカテゴリーがないと、非常に困るのだけど、ない。
なぜこうなるかいつも考えて悩み酒を飲み考えるのを忘れるのだけど、産業分類的な思考がガンコにはびこっていて、文化分類的な思考がなかなかできない現状であると判断せざるを得ないのだな。じつに知的な職業の人びとですら、脳みそは、産業の虜、ま、奴隷なのだな。
日本は産業先進国であるかもしれないが、文化はかなり後進的というか幼児のレベルというか、それはまあ仕方のないことだと思う。食文化だって、わずか30年だ。文化は自動販売機で切符を買うようなわけにはいかない。
しかし、なぜ、いま、スーパーのトップセミナーで「食文化」なのかというと、これがオモシロイ。つまり、産業的なカテゴライズというのは、経済効率一本やりで行なわれてきた。カテゴライズとベクトル合わせ。それを繰り返し緻密にしていくことで、経済効率を上げ利益を生む仕組みをつくってきたわけだ。これは、別の言葉でいえばセグメンテーションだけど、一方で、カテゴリーとベクトルにあわないことは、捨てられてきた。ときにはニンゲンごとね。
それにセグメンテーションを繰り返していると、だんだん捨てることの方が多くなり、その中には、なくてもよいように見えるが捨て続けると悪影響がでるものも含まれていたりする。成績一番の子は、何十人かいるから一番なのであって、一番になりたいからといってほかのものを殺したら殺人犯であり、一番ではなくなる。でも、そういう思考で、モノゴトをやってきた。100人の中から1人の天才を見つけるために、99人を捨てるようなことをしてきた。ベストセラーだけが、価値あるものとして注目されてきた。ベストセラーだけに関心がいくと、ロングセラーを育てる育て方は忘れてしまう。1%の需要のために供給することをムダと思うようになる。そういうことが積み重なってきたわけだ。
しかもニンゲンというのは、経済原理的な思考だけで動いているわけじゃない。前に誰かがどこかでいっていたけど、おなじ商品が、値引きをしないコンビニで、安売りをするスーパーより売れていることがいくらでもある。経済原理とはちがう、なにかの文化性が、購買行動を決めていることがあるわけだ。
カテゴライズとベクトル合わせを繰り返していると、隘路にはまって伸びていくはずの売上曲線や利益曲線が、どこかで低下を始める。休憩をしないで、おなじ労働を続けていると、疲れや飽きから能率が落ちるように。それどころか、新しい政策を考えるとなると、もう視野や狭いし頭は固くなっていて融通がきかない。
ということで文化的な思考も、ということになるのだが、これは自動販売機で買うようにはいかない。であるけど、やっておかなくてはいけないことだと、はやく気がつくのは、よいことだろうな。
しかし、これだけ食べものがあふれ、これだけ飲食店があって、食べ歩き本もこれだけあって、「食文化」のカテゴリーがないとは、ニンゲンの脳みそが、いかに産業に隷属しているかを象徴しているようでもある。
ああ、暑いのに、こんなに書いてしまった。バカだなあ。
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