ダシと貧乏と絶望
ザ大衆食「リンクの花園」からリンクしている藤原素子さんの「貧すれど鈍せず」は、最近更新が重なっている。読むと、なるほどなあと思うことが多い。
たとえば、「昆布の佃煮」では、「特にドレッシングとか何々の素とかの類は買うことがない」が「こんな私も使い続けているものがある。そう、ダシの素だ」と。そのワケは、こうだ。
引用……
これはズバリ、経済の問題につきる。
昆布など手が出ない時代が続いた。かつおぶしは毎朝ひとつかみずつ使えば積もり積もって結構な出費だ。
それならば、ダシの素を使ってでも他の食材を買いたかった。
……引用おわり
このあたりは、毎日ダシを使っていないものにとってはピンとこないことだろう。であるから、そういうひとは杓子定規の知識で、カツオ節や昆布でとったダシ以外はイケナイ、ニセモノといったりする。
おれは、もともと貧乏家庭の煮干しのダシで育っているから、カツオ節や昆布のダシは高級な、そして中流意識のものと思ってきた。ま、ようするに、自分が成長してのち、カツオ節や昆布のダシを使うようになって、うーむ、これは正しい中流生活だなあと思ったことがあった、ということだ。
ここ20年ぐらいは、自分の「ダシ」に対する考え方が変わってきたので、ふだんは混合の雑節、ほかにいろいろなものでダシをとる。やはり経済の問題からそうなったのだが、どうしても高額なカツオや昆布じゃなきゃいけないということは、ほとんどなくなった。そもそも貧乏ゆえ、それほど素材にこだわった料理をしないからだな。貧乏人が、中流風見栄をはって、カツオ節だ昆布だという必要はないのだ。
しかし、おれは、最近気がついたというか、シミジミ思ったが、ここではモチロンどこへ行っても貧乏を恥ずかしいと思わず、貧乏丸出しで、貧乏くさいことを書いているし、つねに貧乏くさく、そもそも貧乏くさいのが好きだし、貧乏なのだが、はたと気がついたら、60歳すぎてこれは、世間では人生の落伍者なのだ。
知り合い関係を見れば、死んだか、生き残っているやつは優雅な退職人生に入っている。優雅な退職人生は、パソコンだのネットだのというミミッチイものには向わない。バーチャルではなく「生(ナマ)」の、旅だの料理だの田舎暮らしエトセトラを楽しんでいる。だから、おれは、もっとみじめな気分で、もっとみじめなことを、ここに書かなくてはならない境遇なのだ。
それが、ネットのバーチャルな世界には、探せばけっこう貧乏か貧乏くさいやつがいる。ま、リアルに付き合っているなかにも、そういうやつは少なくないが。それで、ヤアヤアお仲間らしいのがけっこういるじゃないかとヨロコンデ、こうして書いていたのだが、ふと気がつくと、そういう貧乏か貧乏くさいやつは、たいがいおれより年下で、ずっと若いのだ。
そうだよなあ、若いうちは貧乏がふつうだもの。
そして、おれはトツゼン、暗黒の宇宙の果てで野糞をするジジイのような、果てしない絶望的な孤独な気分に襲われているのだ。ああ、もう、ダメだ。先がないのに、この貧乏。「食育」や「グルメ」にケチをつけているばあいではない。とかね。
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