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2006/09/25

目黒のさんまの伝統を考える

日にちは忘れたが、8月のおわりごろの夜、目黒へ行った。歩いていると「目黒のさんま祭り」というのぼり旗が何本も立っていた。芸のない名前だが、ちかごろ気どっている目黒にしては、庶民的なクサイ名前の祭りだなあと思った。

きのう1尾100円のさんまを3尾買って来て焼いて、一度に2人で全部たべた。1年に1度でもいい、こんなに好きなだけさんま焼きをたべられるなんて、シアワセだなあ、とか思いながら。

落語の「目黒のさんま」のセンで考えると、さんまを食べることは「日本料理」の伝統ではない。「日本料理」の伝統は、さんまなどの大衆魚は、「下魚」「雑魚」と軽蔑し料理につかわなかった。だから、「目黒のさんま」は、庶民文化である落語だからできた。

大衆が食べるうまいさんまを知らない殿様の存在は、さんまを軽蔑してきた偉そうな「日本料理」の存在でもある。落語の「目黒のさんま」で笑うことは、そういう殿様的「日本料理」を笑うことでもあるのだな。

しかし、いま「食育」なんぞで、殿様的「日本料理」の一部の担い手が、いかにも自分たちが伝統の守り手であるがごとくふるまい、さんまの伝統を楽しんできた大衆にむかって、「四季のある日本は美しい!」「旬!旬!旬!」とか申して伝統を説く。いやあ、ははははは~

しかも、いまの大衆が、こんなにさんまをくって「旬」を味わえるのは、あの例の、日本は便利になって心が失われたと「日本料理」の一部の担い手たちが嘆く、近代文明の豊かさ便利さのおかげでございます。いまじゃ、かつては、めったにたべられなかった、さんまの刺身までくえるぞ。

殿様的「日本料理」は相変わらず、たいの刺身じゃなきゃ刺身じゃねえとでもいうのだろうか。「伝統」にしたがえば、そういうことだろうな。

ま、とにかくね、近頃は、むかしはよかったと現代を呪うような言説ばかりが、とくに「食育」の周辺では目立ち、「食生活の怖さ」が強調されるけどさ、そんな怨みや恐怖心を煽って、むかしはよかった、むかしのようになれば、って、そのむかしというのは、さんまを軽蔑するような殿様的「日本料理」の板前たちがもっと威張っていられたということなんだろうけど、そんなむかし帰りばかりを言っているより、もっとイマの日本を肯定的にとらえ、イマの日本人がもっている知識や技術や個性などの可能性を、よい未来づくり社会づくりのためにどう発揮するか追求したほうがよいんじゃないの。けっきょく、自分が未来を構想できないがゆえに、むかしはよかったと言っているだけじゃないのかなあ。なんか、そんな気がする、さんまの味わい。

しかし、なんだね、その目黒のさんまの殿様は、大根おろしや醤油をつかって食べたのだろうか? どうやって食べたのだろう? いまじゃ、さんまに、レモン汁やゆずポンなどをかけたりもするね。いわしの場合はひらいて、ハーブやチーズをのっけてオーブンで焼いたりするけど、さんまの場合はどうかな。うまく食べるために、それぞれ自由にやることで、また新しい魅力が育つのさ。そこに伝統が息づいていくのさ。

タイが一等でサンマは下等なんていう伝統じゃ、未来はないよ。だから、そういうのは衰退する。伝統にも盛衰があるのさ。滅びの伝統を押し付けられちゃ、たまんないよ。

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コメント

いやいや、サンマは下等であり続けて欲しいっすよ。

あんな旨い魚がタイのように値上がりされたら、こちとら貧乏人にはたんと喰えなくなりますからね。

投稿: 吸う | 2006/09/26 00:10

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