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2006/11/30

「男」という場合の「男」は、男なのか?

「男の隠れ家」なる雑誌がある。立ち読みでパラパラ見る程度で、買ったことはない。こんなものを買うやつは男じゃないと思っている。

Web検索したら「こだわりを持った男たちのライフスタイルマガジン」だそうだ。いまどきの「こだわり」を持った男たちは、こういう雑誌を読むのか。おれの印象では、この場合の「こだわり」とは「チマチマした」としか思えない。つまり「チマチマした男たちのライフスタイルマガジン」だ。実際、いまどきの「こだわり」など、じつに狭量なチマチマした話ばかりだ。

男なら、こんな雑誌に頼らず、もっとオリジンを求めて、書物にむかったり、街や野へ出かけるだろう。

しかし、なんども書いているが、ツアーだのなんだのと群れをなして立ち飲みやら大衆酒場をめぐる男の姿は、とても男には見えない。そもそも、立ち飲みや大衆酒場の文化は、そういう男の文化ではなかったはずだ。そうではないだろうか、ねえ、立ち飲みや大衆酒場に詳しいみなさん。

では、なぜイマドキ、男たちは群をなしてまで、そこへ行くのか? それは自らのオリジンがないからだろう。自らのオリジンがないから、ありきたりの「名所(有名店なども含む)」ではオリジンを発見できない。そういう男が、立ち飲みや大衆酒場という、変貌する町中で一見時代遅れに見えるがゆえにオリジンの輝きのある存在に通じることによって、それを自らのオリジンと錯覚しイイ気分にひたる。そこらの誰でも知っているような「名所」しか知らないような男とはちがうぜ、ひとより街のチマチマを知るチマチマ優れた存在だと、そういうところにだけ、やたら男の見栄や意地を発揮するわけだ。しかも、じつは金がないために、あるいは気後れがするために「名所」に行けないだけ、という背景もなきにしもあらず。てな感じかな。

どこでもオリジンを求めてきた男なら、そのように何か対象に頼ることはしない。「名所」だろうと知られない場末の飲み屋だろうと、自分は自分で、そこに自分の存在の物語をつくる。そこがカンジンなのだ。男が街で生きるということは、そういうことであり、「名所」はダメで「ディープ」で「アナログ」なところならよいということではないだろう。

11月16日「北九州市「雲のうえ」の素晴しさ」に引用した牧野伊三男さんのオコトバは、そういう男のオコトバなのだ。もう一度、引用。

「 地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか。
 創刊号では「角打ち」をとりあげてみた。これからも北九州の街かどを虫眼鏡で、同時に雲のうえからながめていく。この街にふさわしい歩みのテンポを見つけるためである。」

単に「角打ち」という立ち飲みが庶民的な「ディープ」な「アナログ」な存在だからよいということではないし、いま立ち飲みがハヤリだからということではない。おそらく「雲のうえ」は、対象がありふれた「名所」であっても、それなりのオリジンを発掘するだろう。

新しいものだろうと古いものだろうと、「名所」だろうとそうでなかろうと、それにむかう男=ニンゲンのオリジンが、どうであるかなのだ。そのことを避けて、こだわりもへったくれもない。

ま、おれは男なので、男の話になったが。

Web検索で見つかった、「男の隠れ家」らしい「男の隠れ家」といえば、これが本当の意味で、それだろう。リンクをはらないが、「男の隠れ家~人妻館 待ち合わせ型高級ヘルス」。こういうところへ、ツアーしようか、なあ、自らのオリジンをつくれず、立ち飲みなどの大衆が育ててきたオリジンに頼る、オリジンを失った他者追従男たちよ。

この広い世の中、おもしろいことはたくさんあるのにね。もっと一人一人、自分にあった楽しみをみつけられるはずだと思うがなあ。男としては、たった一人だけの趣味、なんてのがあってもよいはずだし。

関連…
2006/10/26「いいかげんにしろよ、と云いたくなるなあ」…クリック地獄
2006/07/22「なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ」…クリック地獄

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2006/11/29

池袋で高千代と亀の海と男3人の酒

きのう今日、池袋サンシャインシティで「ふるさと見本市」があり、故郷の高千代酒造から招待状をいただいたので、きのう行った。そこに来ている中学同級生のクボシュンさんと、都内六本木なんてところに住んでいる、やはり同級生のハセベさんと一緒に呑む約束もあった。

5時ごろ会場に着き、高千代のブースで和田さんとクボシュンさんに挨拶したあと、ザッと会場をうろつく。案内図の長野県に「土屋酒造店」があったので、もしかすると…と思ってブースへ行く。そこには若い男性が一人。前に立って声を発しようとするやいなや、そのひとが「あっ、エンテツさんですか」という。どうして、そうすぐわかっちゃうんだろうね。

若い男性は、おれが会いたいと思っていた、佐久の土屋酒造店の跡取り若旦那の土屋聡さん。正式の肩書は、専務取締役。土屋酒造店は、ザ大衆食のサイトに掲載の小諸の揚羽屋の話に、たびたび登場する亡くなった揚羽屋のオヤジが好きで、おれも行くたびに呑んでいる「亀の海」の酒蔵だ。その揚羽屋の記事をご覧いただき、メールをもらったりしたが、やっと会えたというわけだ。思ってた以上に若い。小さな酒蔵で、家族で酒を造っている。揚羽屋のオヤジのことなど、あれこれオシャベリ。

高千代酒造のブースにもどり、和田さんが、どれでもお好きなものを一本というので、普通酒の「高千代辛口」をお願いする。どうせなら高い酒をといわれても、呑みなれたこれがよいのだなあ。それに純米の「巻機」は都内でも手に入るが、辛口は手に入らないし。ま、王子の山田屋へ行けば、この辛口だ。大衆酒場の酒なのだ。

そして、クボシュンさんと会場を出て、池袋駅でハセベさんと合流。北口のワイザツゾーンで、居酒屋に入る。ハセベさんは身体の都合で、ビール一杯ぐらいしか飲めない。いくらでも呑むおれとクボシュンさんは、生ビールのあと、イチオウ新潟県に愛を表し、佐渡の北雪から始める。つぎも、なんだっけな新潟の酒、そして宮城に浮気し浦霞、新潟にもどり菊水辛口ってところだったと思う。ま、ありふれたものばかりだ。

同級生と会うと、話はつきない。ハセベさんが飲めないから、テキトウなところで駅近くの東京スターホテル二階の喫茶店へ移動。また話し込む。チトこの3人は、おだやかならざる人生を歩んできているので、話をしていても「古きよき時代懐古話風」にならない。けっこう生臭い。最後の方では、かつての動乱の東南アジアから始まって世界をまたにかけ、某国では政争にまきこまれ逮捕されたりしながら仕事をしてきたハセベさんが、日本人は、もっと性についてフツウに大らかに話し合えるようにならないといけないってなことまで言い出し。お互いの性生活の現状について語りあう寸前で、じゃあ今夜はこれで、ということになる。ああ、助かった。

死んだ同級生の名前を上げ数えながら、けっきょく、幾つまで生きたか、長生きしたかどうかではなく、どう生きたかだよな、ってあたりに話は落ち着いたが、この3人の生き方では、そういうことになるだろう。

おれたちの年代の、とくに男の大部分は、あと10年から10数年のうちに死ぬのだ。だからといって、どうってことはない。こうやっておれは生きてきた。それだけでよいのだ。成功だの失敗だの、正しいだの間違っているだのは、誰か、そういうオシャベリが好きな連中がしていればよいことだ。

帰って、彼らとの話を思い出しながら、もう一杯と夜はふけたのだった。
今朝おきてから、また呑む。
暴走でも、暴走酒日記になりそうだ。

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2006/11/28

朝のお目覚め音楽は倉橋ヨエコで「やさぐれ」る

今年は、チト「暴走」が足りなかったと反省している今日この頃だ。それはそれなりに、また別の体験があったということでもあるが。しかし「暴走力」の衰えをかんじることもあって、それは、とてもサミシイ。

「暴走」というのは、じつにエネルギーがいる。自分の「暴走力」も衰退しているようだが、時代の周りの空気が、ますます「暴走」を許さなくなって、つまりチマチマした「お行儀のよい」圧力が強まっているかんじもある。とにかくチト「暴走」が足りなかった。

そのように反省し、ヨシッ、自分の「暴走力」の低下にも、チマチマ「お行儀よい」圧力にも負けず、さらに「暴走」へ、と思っているときに、なーんと、こんなおれを鼓舞するかのような音楽に出会った。

「月球儀通信」さんのところで知った、倉橋ヨエコ、最高!こういうの大好きだ。今日も朝おきると、まずコレ。「東京ドドンパ娘」「人間辞めても」「恋の大捜査」……

「月球儀通信」さんの「最近気になる / 『ぼくはくま』と『倉橋ヨエコ』」で知ったYou Tubeで聴けるよ。……クリック地獄。アニメも、いいっ!

「月球儀通信」さんによると、これは「ヤサグレ歌謡」ということらしい。なるほど、たしかに、この「ヤサグレ感」がなんともいえないし、おれの「暴走力」にドドンパドドンパと火をつけるかんじがあるのだ。

朝食は、バッハやモーツアルトではなく、「ヤサグレ歌謡」を聴きながら。

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2006/11/27

下田の大衆食堂の暖簾は「白」なのか?

11月15日に「下田へ行って大衆食堂」を書いているが、いまそのときの写真を整理していたら、撮影した三つの食堂の暖簾が、みな白地に黒文字なのだ。画像、クリック地獄拡大。
Simoda_syokudo_noren03

これは偶然か、それとも、よく見ると同じような規格だから、もしかすると揃えているのか。気になる。東京なら、すぐ薄汚くなってしまうだろうが。

下田まで行くと、関東とはちがい陽光が強い。空の青に海の青、強い日差しには、白い暖簾が似合うかも。入った食堂にいた、漁業関係と思われる還暦オヤジも上下とも白のジャージだったし。

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2006/11/26

呑斉会、若い酒好き女に囲まれて

呑斉会は会員でないと会の通知はないし参加申し込みもできない。会員でないおれは、今回は武井さんが参加できなくなったから、武井さんを通しササキさんに参加申し込みをお願いした。ササキさんは若い女性の編集者だが、名刺にトックリと盃のイラストを刷っているぐらい酒好きだ。呑斉会で1度、それから先日、池袋の永利で一緒に呑んでいる。

会場である中野の「大将」には、おれが先に着いた。主宰者の高瀬斉(たかせひとし)さんに会費を払い、ササキさんの席を向かい側に確保する。ササキさんあらわれ座る。乾杯が終ったころ、以前この会で隣の席だった、ホリコシさんがあらわれ、あいていたおれの隣にすわる。ホリコシさんも女性編集者。ササキさんもホリコシさんも酒がらみの仕事もしているので、詳しい。

そして、そのホリコシさんの前に、おれの筋向いだが、子連れの若い女性が座った。子連れは初めてで、あらわれたときに会場が一瞬ざわついた。名刺交換をしたら、「唎酒師、食育デザイナー」の肩書の新倉ゴマさんだ。すごいなあ。唎酒大会などで、いい成績をおさめているらしい。お子さんは3歳のお嬢さん。

というぐあいに若い酒好きというか酒通というか酒豪の女性に囲まれて、呑んだ呑んだ。

会場は50名~60名入る。呑斉会の正式の名前は「呑斉の市販酒を楽しむ会」であり、これは高瀬さんが町中の有力な酒屋さんにお願いし、オススメの酒をそろえてもらって呑むところに特徴がある。今回の酒屋さんは、京都の錦小路に店をかまえる、津之喜酒舗さんだ。創業が天明8年の老舗、社長の藤井輝男さんは、まだ若く元気がいい。近くの新京極の、あの大衆居酒屋食堂スタンドへは週に1度は行っているそうだ。

その藤井さんは、酒米の生産者とも交流を深めて欲しいと、綾部市の若手農家、西山和人さんを連れてきた。西山さん、保育士をしていたがやめて酒米つくりを継いで3年という、会場でも最年少と思われる若者。伏見の招徳酒造が、その西山さんが育てた酒米、減農薬の日本晴で造った酒に、「西山」のラベルをつけた。それを持っての参加だ。

低迷と廃業などのニュースの多い清酒業界だが、若い人たちの熱気に可能性を感じた。能書きたれずに、若い力が活躍できるようにすれば、大丈夫なのだ。

さてそれで、藤井社長が用意した酒。

みやこつる 純米大吟醸 無濾過原酒 (京都 伏見 都鶴酒造)
ひょうたんから駒 (丹後 ハクレイ酒造)
月の桂 祝 純米吟醸 (京都 伏見 増田徳兵衛商店)
松の司 心酔 山廃純米吟醸 (滋賀 松瀬酒造)
松の司 純米大吟醸 黒ラベル (滋賀 松瀬酒造)
招徳 西山 純米 (京都 伏見 招徳酒造)
梅の宿 純米酒 温 (奈良 梅の宿酒造)
梅の宿 ゆず酒 (奈良 梅の宿酒造)
相模灘 純米吟醸 (神奈川 久保田酒造)
能古見 純米吟醸 中汲み (佐賀県 馬場酒造)
不老泉 山廃純米吟醸 中汲み (滋賀 上原酒造)
富翁 丹州山田錦 純米吟醸 (京都 伏見 北川本家)

以上、12種。梅の宿は食前酒なので、最初に一杯ずつ飲んで、ほかは呑み放題ぐらいあった。

これらを口にふくんでは、ああでもないこうでもないというのが楽しい。単純に良い悪いの話ではなく、酒の表情について語り合うというのかな。かなり詳しい人たちなのに、決して通ぶらず、呑みながらの会話を楽しむ。食べる脳が自由に活発になる。

「これ、どう思います?」「これはね、モダンな味ね」「じゃあ、これはクラシックというのかな」「この酒はおもしろいね、舌のうえでボソッというかんじで消えるよ」「でも続けて呑んでいるとよいかんじになる」「これは、ちょっと味がばらけている、苦味が突出しすぎ」「ちょっと、こういうの暑苦しい味というの」「人間も暑苦しいのはいけませんかね」「えっ、ワタクシ的には、悪くありませんね、この田舎っぽいところがいい」「この、そこはかとなくある雑味が、たまらなくよいですね」「わたしはこういうのダメ」「舌の上の感触はよいのに、ノドにイガイガが残るね」「この煮物のシイタケを食べて呑むと、また違った味になります」そして燗をしてみて「うーん、これはよくなった」「おもったほどよくはならないね」とか……とか云いながら、なにしろ全種類を一杯ずつ呑んだだけでもけっこうな量になるから、もう途中から酩酊なのだった。

こういう酒の呑み方も、一つの「大人の食育」でありますね。
地産地消の清酒酒造や酒米農家のためにも貢献度は高いし、食育予算から補助金もらえないかなあ。

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2006/11/25

「食育白書」に対するオモシロイ反応

政府が「食育白書」を発表し、その反応がブログをにぎわしているが、たいがいは例によってロボットのような、政府の発言の口移しで、自ら学び考えるところが少ない。

しかし、まさに、それが、つまりこれまで、自ら学び考えることを怠り、政府のいうままの食糧政策を選択し食べてきたことが、こんにちのような事態をつくったのだ。そしてまた、それへの反省もなく、相変わらず、そのまま政府の「食育白書」に従っているだけという、愚かな事態が大勢ではある。

が、しかし、そうばかりではない。

今回の「食育白書」は、政府の食育の意図と馬脚をあらわしているので、そのうちゆっくりいたぶってやろうと思っているが、とりあえず、おもしろい発言四つ、ここに紹介したい。

この四者はおなじ考えではなく、ちがったところから「食育白書」を批判している。それがトウゼンだろう。自分の生活に責任を持とうとするなら、食に対する考え方は人間の数だけあってトウゼンなのだ。それを理解しないか無視するところに存在するのが、なんでもかんでもマニュアル的官僚的食生活に導き片付けようという「食育白書」の「食育」なのだ。今回の白書で見えたのは、その背景にある昭和戦前への郷愁あるいは意図的な回帰主義だが。ともかく、それは現代社会が高度化複雑化していることを学び考えない悪いアタマでもある。

■ちびっ子3人連れ珍道中 in スウェーデン
食育~スウェーデン~
http://blogs.yahoo.co.jp/onjuse/24265346.html
朝食は大事!結構みんな解ってる。
一人で食事を取らせるのは良くない!これもみんな解ってる。
健康センターなどの自治体組織から教育されるから。
知識の普及はそれなりに出来てる、と思う。

でも、仕方なく・・・・て場合が多いんだと思う。
それに対して何か方法を考えるのが政策なのかも。

■由美の人生転換日記
食育白書って、、、?
http://blog.goo.ne.jp/fukurou_1900/e/299c57c927737e4ec78f70899daf9e3b
マニュアルがないと、何もできない人が
多すぎると思います、、、

(社会は、全てをマニュアルで管理するのが
 楽で、安全だからではありますが
 弊害として、一部を除いて発展性のある人は
 いなくなったと思います、、、ここは難しい事ですけどね)

そもそも、なんでいまさら
国が「食育白書」を作るかですよね、、

■北海道の片隅で?と叫ぶ
食育以前の問題がないか?
http://blogs.dion.ne.jp/blackbeans/archives/4586767.html
「家族そろって毎日夕食が取れない」「バランスある食事がとれない」のが問題だという認識があるのなら、その原因を解決しようという発想はないのだろうか?

■Nenpilog
食育白書
http://nenpiro.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_af9e.html
「孤食」がいけないって、あなたたち日本の伝統的な食文化を否定する気ですか。


けっきょく今回の食育問題は、自分の食生活のことは自分で学び考え責任持った選択をするか、それとも政府の示す「型」「国民運動」に従う無責任を続けるかの選択になるだろう。そういえば、食育の分野でも最近は「自己責任」という言葉を聞かないな。政府は国民が自ら学び判断することを嫌がっているのだろうか。そのくせ、医療や福祉だけは自己責任で、とかね。

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呑斉会に備え酒を呑みながら考えた

今日は高瀬斉さん主宰の呑斉会の日なので、酒を「たくさん」より「大量」に呑む日だ。もちろん大量に呑まなくてもよいのだが、おなじ会費だから、おれは呑むのだ。

写真家の武井メグミさんに誘われて参加しているのだが、今回は誘惑した本人は来ない。誘惑して捨てるのか、コノヤロウ。とはいえ、ようするに酒があればよい。女にふられても呑みに行く。

いろいろな呑み会があるが、清酒を一度に何種類も大量に呑めることにおいて、この会は最高かどうか知らないが、よいのだ。

なにごとも「偏執」はよくない「こだわり」なんか人生をつまらなくするだけと結婚もまだたった3回のおれにはよい。途中からベロンベロンになることもあって、何種類もの清酒の銘柄と特徴を覚えられるわけではないが、そんなことは期待してない。いろいろな違いを感じる感覚を、「磨く」「鍛錬する」というと大げさで、たんに楽しむのだ。それに、こんなにも変化を楽しめる、間口も広い奥行きのある清酒が、おれは好きだ。

そういわけで、今朝は、今朝も、呑みながら、呑斉会のために備える。

酒を呑みながら考えた。この世は「健全」が尊ばれる。おれのように「不健全」な、文章からして「不健全」な男は信用されない。

食の話をごらんよ、食育の話をごらんよ、正しい、道徳的な、「健全」そうな人たちばかりだ。

代議士先生、官僚、マスコミ……この世の権力と権威の頂点にいるような人びとをはじめ、「健全」を説く人たちがたくさんいる。ああ、清々しいキラキラ輝く美しい凛とした主張そして文章よ日本よ。「不健全」は肩身が狭い。

しかし、「不健全」こそ自然であり、軍隊生活を思わせるような「健全」こそ不自然ではないか。みなたくましく自然に生きれば「不健全」なのだ。もっと「不健全」に居直ろう。

「不健全」こそ歴史であり文化であり伝統だ。たとえば、あの平安バカ助べえ貴族たち、じつに「不健全」だ。むかしは「健全」を説くものなどいなかったのだ。上から下まで堂々「不健全」、これこそ正しい姿であり、成長のエネルギーだ。

そう朝から「不健全」な酒をやりながら考えた。
今朝の酒は、一昨日から続いているおでんと焼酎の湯割りでしたね。

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2006/11/24

食育に関係し、再び「誤解 自然農法と有機栽培」について

呉越同舟、同床異夢、玉石混淆の「食育」だが、すくなくとも「食育」を説くものは「自然農法と有機栽培」のちがいぐらい、シッカリ知っておけ、と云いたい。

昭和の戦前の食生活は自然で健康だったから、いまの日本は長寿国になれたのだ、とか、戦前の自然な食性にもどれば、みなが健康で長生きできる、てなことを云っているひとがいるが、責任ある発言といえるか。

だいたい、食文化を論じるのに、文明レベルの問題も料理レベルも問題もごちゃまぜにしおって。ああ、それから商品栽培農業は、戦後の金儲け主義から始まったのではなく、江戸期に、とくに西日本から盛んになって広がったのだ。もっと責任ある発言をしないと「食育」のイメージダウンになるぞ。

ってことで、去る3月17日に掲載した、「誤解 自然農法と有機栽培」だ。……クリック地獄

わかったか!エセ自然主義者、昭和戦前原理主義者ども。

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これからアイロンかけをするので

家事も国事も「分担」なんてことではなく、誰でもドンドンやればよいのだ。戦争やりたいやつは、平和日本の国内でテロや火付けをやって英雄気取りになっているのじゃなく、矢でも鉄砲でも持って憎い「敵」国へ行って、ドンパチやればよいだろう。

おれか?おれは、これからアイロンかけをするのだ。

アイロンかけは、嫌いじゃない。

おれのオフクロは、おれより2つ下の弟(2歳で死んだ)が生まれたとき、昭和20年ごろだな、肺病に罹り、一生肺病で苦しんで59歳でくたばった。肺病人が一人いると一家が倒産するといわれていた時代だ、ま、ウチは2回も倒産してスッテンテンになった。そのことでもオフクロは苦しんでいたな。みんなに迷惑かけたくないから死にたい、なーんてことも言っていたが、なーに人一倍生きる執着が強かったのだろう、自殺することもなく、一家が傾く長期入院大手術にも耐え、肺活量800CCぐらいで、よく生きた。

んで、そのことじゃない。だから、オフクロは少しで家計の足しにと、身体の調子がよいときは、裁縫を教えていたのだ。和裁も洋裁も教えていた。もっとも、腕はよいが、肺病がうつるってんで、あまり繁昌はしていなかったが、だけど、そういうことを気にしない病院の看護婦さんとかがね習いにきていた。

ま、それで、おれは門前の小僧で、ミシンをかけるなんてお手のものだし、アイロンかけもできるようになっていたが、おれが高校卒業して18の春に上京するとき、「一人暮らしでもアイロンぐらいちゃんとかけるんだヨ」とオフクロが、あらためてアイロンかけを伝授してくれた。もちろんアイロンも買って持たされた。

うちのオフクロの教え方は、じつに理にかなっていて、いまでもその原理で、どんなシロモノであろうと、うまくアイロンをかけられる。

じつに理にかなっていることに気がついたのは、比較的あたらしい。というもの、バブル崩壊後、シャツやブラウスの生地やデザインつまり縫製が、かなり変わっているのだ。しかし、どんなに変わっても、おふくろが教えてくれた原理にしたがえば、うまくやれる。もちろんそれは、おふくろの原理ではないかも知れないが、なにしろおれはアイロンかけはオフクロに教わった以外、だれにも教わってないし本でも読んだことがないので知らないだけなのだ。とにかく、おれがオフクロにアイロンかけを教わったころ、1962年の3月ごろか、そのころのズボンもシャツも、いまとは比べものにならない単純な縫製だった。いまんのは、ほんとに複雑だねえ。

うまくやれるとは、シワを出さずに、着たときにキチンと仕上がって見える、ということだ。ここだよ、着たときにキチンと仕上がって見えるというかけかた。

ま、講釈はこれぐらいにして、これから楽しいアイロンかけだ。
しかし、最近のブラウスのアイロンかけは、ほんと縫製が複雑で時間がかかる。
その複雑のものを、うまく仕上げたときは気分がよい。

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2006/11/23

「わたしの食べ物」について……考える

Oden_061123『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』と『わたしの文房具』を、後者はあとから読み始めたのだが、ほぼ同時に読み終えた。

21日に書いたように、『わたしの文房具』は、どういう文房具がよいかということではなく、文房具との関わりや関係性のコダワリを書いている。と、おれは読んだ。『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』もまた、昭和の流行歌やうたとの関わり関係性のコダワリの話なのだ。それは、自分が、何に、なぜ、コダワルかの「発見」の話でもある。なにかのコトやモノを選ぶというのは、そういうことなのだよなあ、とあらためて思った。

小沢昭一さんは、藤山一郎さんの歌が好きだけど、藤山一郎の歌ならよいというわけじゃない、古賀政男作曲の藤山一郎の歌であればよい、というわけでもない。ま、つまりは、ブランドとか有名とか人気とかではないのだ。『わたしの文房具』の話も、そういうことだ。『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』は、一つ一つに、「柳青める日 藤山一郎について……考える」というぐあいに見出しがついているが、じつは歌手とうたのことを考えながら、小沢昭一さんは自分のことを考えている。『わたしの文房具』の木村衣有子さんも、またそうだ。

何かを選ぶには、ワタシはこうだから、こう思うから、これを選ぶ。これを選ぶワタシは、こういう人間なのだ。という自覚は、なにをやるにも必要なことだろう。コトやモノとの関係や関係性のコダワリは、ひとの数ほどあるし、あってよい。「あってよい」ということは、なるべくその一つ一つを理解していきたいということも含めてだが。(実際そんなことは一生かかっても無理かも知れないが、それをやるのが人生かも知れない)。とにかく、どこの偉いひとがなんといおうと、ワタシには「わたしの食べ物」がある。

こうやって書くと、そんなことアタリマエじゃないかと思うひとがけっこういると思う。しかし、実際は、有名ブランドや○○国産ならよいなどを筆頭に、有名な誰それさんがほめていたからとか、お店のオススメだから、昭和のむかしの生活はよかった、戦前の食文化はよかった、など、さまざまな短絡的教条によって、モノゴトが選択される例は少なくない。最近では、「食育基本法」なるものも施行されて、アレを食べるべきだコレを食べるべきだという「干渉」も、じつにニギヤカだし。

この二冊の本を読み終えて、今朝、めしにおでんを汁ごとかけて、それをツマミに酒を呑みながら、いろいろ考えているときに、フイに、ずいぶん前に制作に関わったテレビ番組を思い出した。フジTV『ザ・ノンフィクション』の「東京下町人情食堂物語」や、そのあと何本かだったが、あれは、コンニチ的視聴者のコンニチ的低俗テレビ的興味や関心で「視聴率」を確保しながらも、演出の松村さんは、竹屋食堂や他の大衆食堂の常連たちがナゼそこへ行くかを、ちゃんと描いていたなあ、と思い出した。あの番組について、フリーの編集者の堀内さんは、「竹屋食堂に来る人たちが、なぜそこに来るのかよくわかりました。よかったです」と言っていたが、はたして、どれぐらいの人が、そのように見てくれたか。いいねえ~下町の大衆食堂には人情がある昭和がある…、といったステレオタイプなアマタでは、そこんとこは理解できないだろう。

そういうわけで、クリック地獄で拡大の画像は、今朝のおでんぶっかけめし、なのだ。

今夜もまた、このおでんにダシを足し、タネもぶちこんで煮る。きのうより今日、今日より明日とうまくなる。飲食店のおでんは、日によってあまり味をかえることはできないが、自分のおでん鍋は、思いつくままにダシを足して、毎日の味の変化を大きくつけて楽しむこともできるのだ。おでん、オレ流こそ、おでん鍋のタノシミ。

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2006/11/21

わたしの文房具で小沢昭一的

先日、木村衣有子さんから新刊の著書『わたしの文房具』(㏍ベストセラーズ)をいただいたのでパラパラ見ている。モノとしての文房具へのコダワリというより、生活や仕事の道具としての文房具との関係や関係性におけるコダワリを書いているので、あまりモノに執着がないおれも楽しめる。

写真もタップリつかい、もちろん、オシャレなできあがり。台所道具や器などについても、こういう感じの本が欲しいなと思う。ま、おれとしては、いま『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』を読んでいることもあって、もっと「小沢昭一的」のほうがよいが、なーんて思ったりするが、それじゃあ売れないだろうからなあ。

第2章は「文房具と人」ということで、料理研究家の福田里香さん、イラストレーターの得地直美さん、漫画家の菊池直恵さん、デザイナーのナガオカケンメイさんにインタビューしている。おれは知らないひとばかり。おれはヤッパリ時代遅れよ。

で、ナガオカケンメイさんのページの「よく行く文房具店」に、「「コンビニです」。どこでもいつでも誰でも行けるコンビニエンスストアやホームセンターが、「もうちょっとデザイン的によくなってくれたら」といつも考えているから、ナガオカさんはついそちらに足が向く。」とある。

おれのばあい、住んでいる北浦和の文房具店が「壊滅」して以来、日常の文房具はコンビニと百円ショップで調達している。コンビニでは、文房具を買うためではなく立ち寄ったときでも、文房具をながめることが多い。おれがよく行くコンビニでは、数年前とくらべると、アイテムが増えているようなかんじがする。これは前からあったが、まだ買ったこともない使ったこともない「修正テープ」とやらもあって、あれはいつどう使うのかと思う。

ナガオカさんの、コンビニが「もうちょっとデザイン的によくなってくれたら」という考えは、プランナー稼業をしていた80年前後に、たまたまCIなどの関係もあって挑戦したことがある。ちがうコンビニチェーンだったが、2回ほどチャンスがあった。そして、どちらも外国人デザイナーとの仕事で、ようするに当時は、店舗デザインに対する考え方も技術もちがった。アチラが「上」ということで。この話は書くと長くなるから、またそのうちということで、そのデザイナーは一人は日本に滞在のオランダ人で一人はアメリカのデザイン会社のイタリア人だった。経営者の「よいデザインにはコストがかかる」という心配もクリアして……とくに片方のオランダ人デザイナーが担当したコンビニのほうは、ホボ当初の案どおりに実行できた。が、しかし、これがまあ、大変だった。

ようするに確かに、日本の空間に対するデザイン認識や技術、あるいは売場を食文化や生活文化の一端を担うものとして考えるようなことは「遅れている」のだが、かといって、遅れているおまえらは…っていう調子でやられてもねえ。

ま、国内でも、インテリどもが、庶民を見下しますから、外国人のモンダイとは限らないが。どうにも、インテリどもというのは頭でっかちの困った存在。という、またもやズレた着地で、オシマイ。

そうそう、この本に付箋が載っている。いまイチバン日常的につかう一つだが、そういえば、すこし前までは、薄い白い紙でアマタが赤い「和風」な感じの付箋があったが、あれは最近みかけないねえ。あれは、どうなったのか。おれは1960年代後半、経理の仕事をやっていたときに使い始め、かなり長いつきあいだったが。「小沢昭一的」には気になる。

ま、この本を読んでいると、そのように自分と文房具に関するアレコレをふりかえることにもなるのですね。

木村衣有子さんのブログ……クリック地獄

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2006/11/20

トレーサビリティ・システムが必要な農業に誰がした

アメリカのBSEが問題になって、トレーサビリティ・システムが導入されたのではない。日本でBSEが発見され、あわててそれを導入したのだ。それが、ほかの分野まで拡大されたのは、そうまでしなくてはならない農業があるからだろう。しかも、トレーサビリティ・システムは、安全を保障するものではない。使ってはいけないモノを使っても、使用者が登録しなければいいのだ。ようするに、トレーサビリティ・システムの導入は、それまでの使ってはいけないモノを使うような農業を「改善」したわけではない。

トレーサビリティ・システムを「誇る」なんて、とんでもないことだ。トレーサビリティ・システムが必要な農業に誰がしたかということを、よく考えてみよう。消費者が、そうさせたのか。消費者が「安い」ものを求めるから、仕方なく、そうなったのか。消費者が「安い」ものを求めては、いけないのか。そうではないはずだ。

「食育基本法」による「食育」は、そこのところを誤魔化してはいないか。戦争遂行責任者が敗戦後にわかに「戦争は国民の総意だった」といったり「平和民主主義者」になるように。

トレーサビリティ・システムの導入を恥じない屈辱と思わない農業を、もっと問題にすべきだろう。

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誕生会、10歳は「てんさい」という

Puan_061120なんとなくアワタダシイ。ので、とりあえず、きのうのこと。

あっこグループの「すーさん&なーしゃの誕生会を口実に」食い飲む会。3時からデレデレ開始だったが、おれは4時ごろ西荻窪「ぷあん」に着く。ちょうど、先に始めていた連中が頼んだカオソイが出来てきた。かぶりつきなが飲み始める。カオソイ、うめえ~、もちろんビールも。

参加者は最終的に大人10名に、ガキが、生まれて数ヵ月と1年数ヶ月と10歳になったばかりのなーしゃの3名。なーしゃは、自ら「10歳」は「てんさい」であるという。ま、10歳のときだけの「てんさい」なら許すとしよう。そのなーしゃと母すーさんの誕生会のはずが、ふたをあけてみたら、ほかにも2人11月の誕生日、しかも夫婦そろって前日の18日誕生日というカップルがいて、おどろき。

そのカップルは2人とも1970年生まれ、そしてあっこ夫妻と、久しぶりにタイ人妻を連れて参加の上海亭も同じトシだそうで、上海亭妻の腹には数ヵ月のガキが。つまりは、すーさんとおれを除くと(まだ40なかばのすーさんをおれと一緒にしてしまうが)、ほかはみな繁殖期の連中なのだ。

そういや上海亭には、タイ人妻と結婚にこぎつける前、一昨年去年とあしかけ2年にわたって、国際結婚のための諸手続きも含め長いノロケ話を聞かされて、おれもよくガマンして聞いていたが、ま、とにかくメデタシめでたし。もう一人、この9月だったか?タイ人女性と結婚式をあげた男は、都合悪くて参加できず。タイ人女性、そんなにいいのか、うーむ、上海亭の妻、よいなあ、おれもタイ人女性と……とか思いながら、ま、とにかく飲む。しかし上海亭の妻、すでに両親はなく、しかも父親は戦死!つまりタイ南部の戦闘で、そして母もそのあと病死。その話を聞きながら、ふーむ。

8時ごろか? いよいよケーキカット。画像クリック地獄拡大。あっこが、静岡のケーキ屋から取り寄せたという、50センチの長さのロールケーキに、やはりあっこが焼いたクッキーをなーしゃが立て、ローソク点灯電灯消灯。

はっぴばすでーつーゆーを歌い、ビールを飲みながらケーキを食べる。

9時ごろかな?解散。

外は雨だったが、この日も「ぷあん」は繁昌の大忙しだった。「ぷあん」は安くてうまくて、2階には畳の部屋もあって乳飲み子がいても寝かせておけるし。

しかし考えてみると、このあっこグループは、共通するものが何もないよなあ。くくりようがない。接点にあっこがいるだけという楽しい仲間だ。

あっことはいつどこで出会ったかと思い出してみれば、たぶん5年ぐらい前だろう。おれがある業界のひと2人に、ある編集者を紹介してくれと頼まれ、神楽坂の鳥忠で飲むことにした。その日たまたま、その直前に編集者と会っていたあっこが、そのまま一緒についてきたのだった。それが最初で、そのあと一緒に仕事をしたこともない。独身だったあっこは、よしばんと結婚し、よしばんは新婚早々上海へ単身赴任、一年後帰国夫婦生活に励んだ証明として数ヵ月前にガキが生まれたのだった。おれの子供じゃなくよしばんの子供であることは、ガキの顔を見ればスグわかる。

そういや、あの日のあの業界の2人は、その前におれが引き合わせたのだが、若いオトコとオンナだからタチマチただならぬ関係になり、三角関係がこじれ別れ、オンナは別のオトコと結婚したのだった。短いあいだにイロイロあるなあ。みな、けっこう忙しくやっているなあ。人間関係はおもしろいが忙しい。

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2006/11/18

情報を蹴散らして詩人の感性を取り戻せ

16日の「北九州市「雲のうえ」の素晴しさ」に書いた「雲のうえ」には、本文冒頭に平出隆さんの「半島と廃墟と雲と」があって、すばらしく、いろいろ考えさせられた。

これは、門司港周辺の呑みガイドとしても読めるのだが、その書き出しは、こんな風に始まる……

 北九州に帰省すると、その変わりやすい大気や多彩な地形を、いわば肴にして呑むことになる。たいがいは小倉の鍛冶町や堺町や紺屋町での一杯になるが、店を門司港に切り替えるだけで、まったく別の国の酒になる。洞海湾の向こうの若松で一献となったら、ギリシヤかどこかで呑むような遠さである。

……というぐあい。

そこに住んでいたことがある体験をやどした身体で、ぐいぐい「肴」である大気や地形を掘り起こしていく。

「店を門司港に切り替えるだけで、まったく別の国の酒になる」におどろいた。

それは「詩人の感性」の働きだといってしまえば、それでオワリで話にならない。そうではなく、じつは、こうした感性は誰でも持っているのに使わないでいることが多いのではないかと思った。

たとえば、たまたま用があって、雑誌『食楽』12月号を見た。これはどうやら食べ歩き飲み歩きうまいものが趣味の、近年では「グルメ」といわれたりする人びと、むかしながらの呼び方をすれば「好事家」ということになると思う、そういう人たちがターゲットの雑誌のようだ。

特集が「「新蕎麦」珠玉の一杯」と「「ブランド魚」に興味津々」だが、全面的にペダンチックな情報や知識にあふれ、人間らしい感性の表出が、ほとんど感じられない。それはまあ、「情報誌」だから、ということなのかも知れないが、ただの情報誌にしては、やたら能書きが多い。自分の身体で魚や蕎麦を見る知る味わう前に、情報として「ブランド魚」や「珠玉の新蕎麦」が詰め込まれるのだ。これを読んだ人は、その情報のとらわれびとになり、自分の身体でモノを見る知る味わうことができなくなるのではないかと思った。

しかし、万事、そういうぐあいになってきている。街を「感じる」にも、とてつもない知識、たとえば1920年代の建築様式やら、地域の地理や歴史を知らなくてはならないかのような「仕組み」がある。

そういう情報や知識は、なくてもよいとはいわないが、そのために自分の身体で感じとるべきものが押しつぶされるのなら、そんなものは蹴散らす必要がある。まず、自分の鼻や皮膚や目や耳や舌を働かせ、空気も吸ってみて噛んでみて、ときには立ちしょんして……感じること、それがなくてはなあ。

その16日も引用した「地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる」ものをつかむには、そういうことだと思う。

しかし、平出隆さんて、すばらしい詩人だなあ。ウチにも一冊、本があるはずなのだが、探したけど見つからない、さらに探してみよう。

おれも「大衆食堂の詩人」だからなあ。いちおう。

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2006/11/17

時間がないときの更新法

ブログについては「評論家」までいて、ああだこうだいわれているけど、ようするにこれはばら撒き手段つきの半加工の紙を提供され、それに勝手に書いているようなものだ。それを「日記」に見立てようが「トイレットペーパー」に見立てようが「チラシ」に見立てようが勝手だが、どうも欠けている議論というのは、「公開」しているかぎり「公共性」のあるメディアだということについてではないかと思う。「公共性」とは、というと、また難しいことになるが、いまは、それを書いている時間的余裕がない。でも更新は、できるかぎりしたいと思うのは、かなりデタラメでイイカゲンなおれも「公共性」については、それなりに考えるところがあるからだ。ま、だけど、これは「日刊」を約束したものではないし、ま、それはともかく、時間がないときの更新は、どうするか、いま今日のような場合。

それは人様のおもしろいネタにリンクをはることだ。
いやあ、最近、拝見して一人で大笑いしたのは、右→のトラックバックにもある「KQZ on authentic 備忘録 〜いまだ移行中〜」の、11月8日の「ひさしぶりに空振り」だ。

以下引用……。

このところ人を紹介することが多い、と書いたことがあるわけですが、久しぶりに空振りしてしまった。

「彼はねー、色々と情報持ってるんだけど、なんていうか切れすぎるんだよねー。
 ちょっと危ないというか。
 KQZさんみたいにぼーっとしたふりしてて実はわかってる、って方がいいんだよねー」

あのー。
ぼーっとしてるように見えますかワタシ。
というかふりじゃないんですが。

……引用おわり。

「彼はねー、色々と情報持ってるんだけど、なんていうか切れすぎるんだよねー。」っての、実際に、よくあるんだよなあ。最近、とくに、なんだか、こういうかんじの「切れすぎ」風の人が多いような気がする。

そして、そのあと、ホントおかしい。一度しかお会いしてないが柿添さんの顔を思い浮かべ、ゲラゲラ笑ったのだった。

柿添さん、時間がないときのネタにしてすみません。

おれも古い友人には「ぬーぼー」といわれてきた。なかもそともホンモノの「ぬーぼー」なのだ。

いじょ、本日の更新、おわり。10分かからない。

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2006/11/16

北九州市「雲のうえ」の素晴しさ

いろいろな印刷メディアをいただいているのだけど、ほかの話題で紹介しそこねているうちに日にちがすぎている。その中の一冊、北九州市企画政策室にぎわい企画課発行の「雲のうえ」は、ゼヒ紹介したいので、ここに。

北九州市出身で、当ブログでたびたびネタにさせていただいている、美術系同人誌「四月と十月」編集長であり、サントリーのPR誌「WHISKY VOICE」のアートディレクションと絵を担当したりの牧野伊三夫さんが編集委員なのだ。

で、送付状に牧野さんの挨拶があって、こんなことが書いてある。「このごろ私の郷里小倉は、隣町の筑豊炭鉱も閉じ、八幡製鉄所も縮小して、だんだん人が減ってきました。しかしながら、明治期より工業都市として発展をしたこの街には、まだまだ見るべきものも多く、ことしは海のなかに空港をこしらえて、「スターフライヤー」という黒い飛行機を飛ばしたりもしています。お里自慢のようで恥ずかしいですが、このような北九州の姿をお伝えしたく、まことに勝手ながら出来上がった雑誌をお送りいたします。」

その牧野さん、「雲のうえ」の編集後記で、このように述べている。以下引用……

 かつて司馬遼太郎が歴史小説で、近代国家の草創期であった「楽天的な」日露戦争までの明治時代を、「坂の上の雲」にたとえた。誰もが青い天の雲のみをみつめて坂をのぼった時代をはるか後にして、雲のうえに出た今、ひらけているのはどんな風景なのだろうか。ことしは新北九州空港も開港した。古くから国の政策のもと、製鉄を中心とした工業の面で日本の近代化をになってきたこの街から、遠く近く、それを見たい。
 日々の暮らしや街の表情からみれば、北九州は、方々で急速に消滅しつつある土地のにおいや陰影といったものを、まだ残している。地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか。
 創刊号では「角打ち」をとりあげてみた。これからも北九州の街かどを虫眼鏡で、同時に雲のうえからながめていく。この街にふさわしい歩みのテンポを見つけるためである。小誌が街づくりに、そして市外から関心を寄せていただくよすがになれば幸いである。

……全文引用してしまった。

とくに、「日々の暮らしや街の表情からみれば、北九州は、方々で急速に消滅しつつある土地のにおいや陰影といったものを、まだ残している。地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか」というところに、激しく力強く共感した。

いつごろだったか、「地方の時代」がいわれ始めたのは。それは、ようするに一極集中の中央集権システムのもとで成長してきた経済の崩壊を意味し、いまでもその大きな流れの過程にあると思うのだが、もう一極集中しすぎた中央集権システムは、もたない、かといって地方に自立の途が開けたわけではない、というかんじが続いている。んで、地方は、これまでの中央集権システム下での成長や発展をモデルにしてもダメだということは、すでにハッキリしているのだ。

ごくアタリマエのことだけど、自分で自分の生き方を築くしかない。というときに、テレビや全国紙マスメディアを眺めていても、そんなところには回答はないのよ。それらは崩れゆく中央集権システムの支えだったのであり、いまだそこにすがってイノチながらえようとする連中の墓場でしかない。

ならば、どこに地方の活路があるかというと、ここで牧野さんのが述べていることなのだ。と、おれは、じつは、このことは1980年代なかば、中曽根リゾート法、竹下ふるさと創生一億円のころに、いろいろな、そのテの「地域活性化」プランにからみ身にしみたことなのだが。

それはともかく、それで、今回の特集は、牧野さんの編集後記にあるように「角打ち」なのだ。「角打ち」とは、立ち飲みがハヤリの東京では姿を消しつつあるが、立ち飲みの原型といいましょうか、酒屋の店先で立ったままイッパイやる、あれのことなのだ。

で、なななンと、この特集のライターは、あの「酒とつまみ」編集長の大竹聡さん。特集の扉に、「酒屋の店先で、さくりと一献。誰がつけたか、その名は「角打ち」。」と書いている。

Kumonoue_1そして、写真もいいねえ。左は、牧野さん絵の表紙、右は本文なかの写真からスキャンした。

読んでも見てもすばらしいが、なにより、やはり、また繰り返すが、「日々の暮らしや街の表情からみれば、北九州は、方々で急速に消滅しつつある土地のにおいや陰影といったものを、まだ残している。地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか」ということで、たかだか町中の労働者大衆の日々の楽しみにすぎない「角打ち」にスポットをあてる。この、大胆さ、いや正しさ、このセンスは、ほんとにいいねえ。これはお役人や都市計画屋や都市社会学など、都市の専門家からはゼッタイに出ない発想だろうし、これからも「地方」には、こういう発想がゼッタイ必要だと、おれは力強く共感した。どの地方にも「地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる」ものがあるのではないだろうか。

雲のうえ

編集委員会……牧野伊三夫、有山達也、大谷道子

もくじ

エッセイ 「半島と廃墟と雲と」 文・平出隆  (平出隆さんが故郷の門司港を綴っている。ああ、なんてよいんだろう、すばらしい!)

特集 「扉のない酒場へ。」 文・大竹聡 写真・斉藤圭吾
    赤壁酒店(旦過)、宮原酒店(折尾)、井形酒店(春の町)、酒のキリン屋(黒崎)、高橋酒店(折尾)、田中酒店(戸畑)、魚住酒店(門司港) 
    
    「街のうた 三交代の一日」 文・大谷道子
    「酒屋を見たらとりあえず入ってみる、という姿勢でいるべきだ。」 文・大谷道子
    河口酒店(城野)、野村酒店(若松)、中島酒店(黒崎)、末松酒店(室町)、高田酒店(戸畑)、はらぐち酒店(戸畑)、弥永酒店(西小倉)

連載 街と芝居と人と日々


街の呼吸が伝わってくる特集「角打ち」、そこへ行ってその人たちと会いイッパイやりたくなってしまう。これこそ「文化」といえる財産なのだなあ。しみじみ、そう思ったね。名所旧跡や文化人だけが文化じゃないのよ。こういう、押付けがましい型にはまったPRをこえるPR誌を発行した北九州市、前途はまだまだ大変だと思うけど、がんばってほしい。

そうそう、「北九州市角打ち文化研究会」なーんてのもあるぞ。
http://www.kakubunken.jp/

ああ、「雲のうえ」にコーフンした。

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2006/11/15

下田へ行って大衆食堂

Simoda_yosidayaま、そういうわけで、この身体にしみついたアクやアカを酒のニオイを、すっかり洗い落としてこようと、伊豆の下田へ行った。

で、しかし洗い落とすどころか、どうしても身体が、下世話なアクやアカのほうへドンドン行ってしまうのだなあ。何も考えずにフラフラしていても、あちゃこちゃの路地に入ってしまい、そして大衆食堂の前でカメラをかまえシャッターを切っているという。別に大衆食堂を求めて行ったわけではないのに……。

それが、また、よいぐあいに大衆食堂と出会うのだ。吉田屋食堂、つるや食堂、三軒目は丸川食堂……。どれも観光客など立ち寄りそうにない、漁業地元民のニオイがするところ。三軒目の丸川食堂に入ってみたら、まさに、漁業関係者らしい人たちが6人ばかり、威勢よくめしをくっていた。「12月の○日には、○○ホテルでデナーだぞ、デナー……」なーんていいながら。

いちおう、温泉にも入り、いちおう、魚もくらい、いちおう、酒もタップリのんで。アクもアカも酒のニオイも落とさずに、ますますアクとアカと酒にまみれようと元気をつけてきたわけであります。

食堂のレポートは、ますますたまる一方だけど、たぶん近々にザ大衆食のサイトに掲載するツモリ。

画像は、吉田屋食堂。クリック地獄で拡大。この先は、幕末に花街があったところ。その名残りの雰囲気を利用し、いま観光名所にしようというのか、「ペリーロード」とかチト米帝国にヘツライ風の名前をつけ、画像の奥にも見えているようなナマコ壁風の街にする動きもあるようだけど、吉田屋食堂はこんなアンバイでした。

とりあえず、今日は、こんなところで。

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2006/11/13

池袋で泥酔と迷宮、そして浦和の寒空

うげえ、いつも頭痛だけの二日酔いが、吐き気がするダメージはひさしぶりだ。ま、とりあえず書いておけば、きのうは池袋の永利に5時集合。気分を出してか夫妻で中国服姿の武井さん主宰の飲み食い会。総勢11名? これだけいれば、いろいろなものが食べられる、まわりの中国人たちの喧騒に負けることもない。しかし、ここで紹興酒をやりすぎたのが、あとあとまで祟ったか、そういや隣席の佐々木さんが紹興酒の二日酔いはヒドイですよといっていたなあ。

まあ、それでもう一軒ということで5人だったか6人だったか。豊田屋へ。ここでもう完全に出来上がったね。もうどろどろよれよれ身体は襤褸切れ状態。帰ろうと席を立ち、女武井さんが送ると。しかし、どっちが送るのか送られるのか。歩き出せばますますまわるネオン街、視界は暗転。なんだか黒い巨大な池袋の駅があった。

そしてだよ、なんだか寒いなあと気がつけば、あれれれ、どこにいるのだ、ここは浦和の県庁通りじゃないか。どうして、ここに?おなじ浦和区内でもウチまではだいぶあるぞ。寒いなか頭痛を抱えて歩いて、気持悪くなるし、あのへんからだと、酔ってなくても40分ぐらいは歩くだろうから、ま、とにかく遭難せずに無事たどりつく。2時半ごろか?そのまま布団にドタッ。

さきほど、財布を見たら、タクシーの領収書六千数百円、飲み屋の計算書二千数百円残し、からっぽ。はあ、やれやれ。さらに飲んで、タクシーか、はたして女武井さんとは、どこで別れたのか。このひとは、いつも風のように姿をくらます。なんだか暗い洞窟のような中に、となりに知らないオンナがいたような気がするが、あれはどこかの飲み屋か、それとも帰って寝てからの夢か。

なんにせよ、なぜこうまでして帰ってきちゃうのか。10月25日に「ワタクシの泥酔帰宅の謎が解けた?」を書いたが。そんな謎がとけてなんになる。

一緒に飲んでいたニシヒラさん、この方は、豊田屋でもうおれができあがってから見えた方で、じつにコキタナイ大衆酒場が似合うカッコイイおにいさんで、うれしくて握手を求めたような……という記憶があるだけなのだが、夜中に心配され、おれのウチに電話をいただいたのだった。すみませんでした。豊田屋を出たのは10時ごろらしい。約3~4時間の迷宮だから、おれとしては珍しくないが、ま、とにかくケガもなくて、よかったよかった。きっと、また、こりずにやるのだろうなあ。なにしろ脳細胞がね、いけないんだよな。ま、しかし、これからは凍死に注意しないとな。

とにかく、このひさしぶりの吐き気が気持わるいよ。

最近のトラックバックに「お上からの要請(近江八幡の料理人)」がある。うれしいね。庖丁式もやる料理人の方のブログ。ぜひ、ご覧ください。……クリック地獄
このことについては、酒毒が抜けてから書きまする。酒毒、いつ抜けるのか。

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2006/11/11

またもや「東京の味」をグググ楽しむ

きのう書いた、保育社文庫本カラーブックスの『新訂 東京の味』(添田知道・編)と『続 東京の味』(石倉豊・桜井華子 共著)を、まだ見ている。

たくさん気づいたことがある。その一つ。この本は、複数の著者がいるが、誰も「究極」だの「真髄」だの「逸品」だのという言葉をつかっていない。「旬」や「秘伝」という言葉もいまのところ見当たらない。「驚愕」も「感動」もなし、「とびきり旨い!」なんていう表現もなし。ま、つまりは、そういうハッタリ言語は、ほとんど使われてないのだ。

そして、また、ちかごろ、そういうハッタリ言語のハヤリに対して対極というべきか、内容がない文章を、キレイな写真と「ですます」調という丁寧な表現をもって上品を演出して誤魔化す傾向がみられるが、そういうこともない。

ま、それなりに食と教養や道楽にカネとヒマをかけた人たちが書いているのだが、かといってそれを自慢するわけでもない。が、文章の背後には、大急ぎで数だけ追いかけて食べ歩いているものには書けない、味噌汁のダシみたいに利いている、深くて広い知識がある。

たとえば、『新訂 東京の味』には、神田司町の「みますや」が載っている。ここは、「高級化」することなく、いまでも「大衆酒場」といえる状態のままだが。それを、編者の添田知道さんが書いている。こんなアンバイだ……。

 赤い提灯と縄のれん。柳が一本。その垂れ葉をなおも青々と見せるガラス灯に「創業明治三十八年」とある。日露戦争の年である。そのころ、このあたり三河町といって、労務の人市もたった。いわゆるめしやの実質主義をいまも保って、食べるによく、飲むによく、すわるところも、椅子卓も、みないれこみの気安さ満点である。
 おもしろい肴にもぶつかる。バイがあったり、タニシがあったり、ドジョウの丸煮もあるが、うであげたカニの甲羅に値段の数字を書いたのが大ざるに積まれていたりしたこともある。奴豆腐がうまい。ずるずるのアメリカ大豆オンリーではない。ちゃんと箸で食べられる。アナかばもいい。品書きの板がずらりとかかっているのを見てもたのしい。季節の鍋は肉もの、魚もの、ひととおりやる。ふぐちりもやる。
 夕刻から混んでくるが、いかにたてこんでも客に、妨げ合うことがない。談笑さかんな組々のなかで、一人でだまって徳利をならべている孤愁の姿もあって、好もしい眺めだ。皿も鉢もとちゅうでさげることをしない。その数で計算するからだが、これがまた迅速でおどろくほど。総じてさばきのあざやかなことがこの店の特徴である。(添田)

……全文、引用してしまった。

必ずしもおれの好きな表現ではないが、興味や趣味のちがい、あるいは思想のちがいをこえて、その文章に納得できるものがある。

ということで、では、おれのための食べ歩き文の見方考え方、その1。

内容がない、何に興味や関心があるのかすらわからない、キレイな写真や、ハッタリ言語あるいは「ですます」調で誤魔化すものは、バツをつけ捨てましょう。

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2006/11/10

古本「東京の味」をムムム楽しむ

このあいだ、池袋の古書往来座に寄ったとき、保育社文庫本カラーブックスの『新訂 東京の味』(添田知道・編)と『続 東京の味』(石倉豊・桜井華子 共著)があって、どちらも200円だったので、買ってきたのだった。お店のガイドだが、これが、おもしろい。

前者は、昭和43年(1968)初版の昭和51年(1976)新訂重版のもの。後者は、昭和48年(1973)発行のもの。

前者は新訂重版とはいえ、この時期はインフレの時代だから、価格を改めたもので、店の案内などは初版のままのようだ。銀座などの「老舗」がズラリならぶ。大衆食堂のラーメンが百円ぐらいのころに、定食2千円3千円の店が多い。それでも、こうしたガイドが、大衆的な文庫本カラーブックスになったのは、60年代に入ってからの高度経済成長で、60年代後半には丸の内日本橋大手町などの都心のサラリーマンを中心に「高給取り」や社用族がふえたからだろう。が、しかし、その内容は、まだ高度経済成長期以前の江戸から地続きの東京の食通文化をしのばせるものが十分ある。

ところが、後者は、ガラリ変わる。表紙のタイトルのサブに「ヤングのムードと味覚の店」とあるぐらい、「ヤング」を意識している。それは、市場全体が、あるいは日本全体が、ヤング=団塊の世代を意識したあらわれとみることができそうだ。1968年から1973年のあいだの大きな変化を感じさせる。

後者では、ナント、見開き2ページをつかって、「マクドナルド三越店(ハンバーガー)」の紹介がある。しかも「マキシム・ド・パリ」も載っているのですぞ。

マクドナルド三越店の紹介の見出しは「アメリカ風 ハンバーガー」、記事は、こうある……

 日本上陸したアメリカのハンバーガー旋風の成功第一陣。
 昭和四十七年一〇月八日、日曜の歩行者天国の日だと思うが、全世界のこのチェーン店売上げの世界一を記録した。何しろ温かいうちに食べるとなるほどおいしい。
 冷めると大したことはないと感じるのだが……皆がまわりでうまそうにパクついているのでこちらも大変おいしくなってしまう。そんな感じである。
 ベストセラーの三つは左の通りで、日本のヤング好みらしい。
 ビーフバーガー一〇〇円、 ビッグマック(三段重ね)二五〇円、チーズバーガー一二〇円。

……以上、全文引用。三越店とは銀座4丁目の三越店で、写真は、その前の歩行者天国の雑踏のなかで、高校生ぐらいの娘と母親が立ったまま、ハンバーガーを食べているところだ。

ほかに、「アメリカ生まれのドーナッツ」の見出しでダンキン・ドーナッツが、「フライドチキン」の見出しで「ケンタッキーフライドチキン」が……。全体的に「江戸」の姿は引いて、ヤングの洋風が前面に躍り出た感じだ。

なるほど、これは当時は「東京の味」だったのかも知れないが、最初の江戸の面影がある「東京の味」とくらべると、かなり趣がちがう。「東京の味」はグラグラしている。「東京の味」がグラグラしだしたのは、「戦後」ではなく、この時期もっとも激しかったのではないかと思われる。ま、自分の体験からしてもそうなのだが、それをあらためて思った。

んで、まあ、今日も小春日和で、パソコンを捨て外へ出たいので簡単にするが。

日本橋の「たいめいけん」に、ごくアタリマエのように「一階は大衆食堂」という記述があるのに、おどろいた。おれも70年代に何度も入っているが、たいめいけんを大衆食堂と思ったことはない。

しかし、あの時代、あそこを大衆食堂と思っていたひとがいたことは、おどろきだけど、なるほど、人によってはそうかも知れないと思った。たしかに、あそこは、大衆的な食堂だった。とくにおれなどは、ラーメンかカレーライスかレバカツかメンチカツしか食わなかったし。それが当時のおれには大衆食堂とは思えなかったのは、ふだん利用していた大衆食堂から比べると値段も少しだけ高く「高級」なかんじがしたからかも知れない。しかしあのへんの人たちにとってみれば、それはとくに高級のわけではないフツウの場所であり値段だろう。とにかく、そのように、当時の「大衆食堂」のイメージは、かなり幅があったということだな。「大衆」を型にはめることはまちがいだし、できない。

03年2月13日「マック」に、翌72年の春ごろ三越店でマックを初めて食べたことを思い出して書いている……クリック地獄

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2006/11/09

小春日和の日にパソコンにむかうなら

きのうは日記を書くまもなく酩酊眠り、さて、きょうもまたエエ小春日和。こんな日にパソコンに向わなくてはならない方に、ごらんいただきたいのは、コレ、です。と、自分は手抜きして、オススメ。

ちかごろ話題のテーマ。

「ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)」のオコトバをかかげる、右→サイドバーにトラックバックがありますが、コメントでもおなじみの「 Wein, Weib und Gesang」さんの「欧州からみる和食認証制」……クリック地獄

そして、「食の本~感想・記録・書評みたいなこと。食のニュース批評・食文化の研究を通して食事力を鍛えてます」のオコトバをかかげる「非@食べ歩き」さんの「海外日本食レストラン認証有識者会議の設置」……クリック地獄

またまた日本の思いあがり恥さらし。ま、日本の有識者など、ロクデナシばかりだから、いま日本はこんなことになっているのに、まだまた恥をさらそうという。本をたくさん読み有識になると、自分はエライと思い上がり、恥を知らない人間になるらしい。日本には「有識料理」とよばれるものもあって、まあこれが日本料理の伝統を誇りながら日本料理の伝統をダメにし衰退させてきたのだけど。ようするにチットばかり物知りになると、その知識を鼻にかけ、ほかの人たちを見下げ自分の知識の「型」にはめようとする。現実を見通すこともなく、理想もなく。新しい試みがあると欠点を探しては「型」にはまっていない気にくわねえとイチャモンをつける。日本の有識なんてものは、そんなものだ。なに?「日本型食生活」だって?あんなものは厚労省型有識者と農水省型有識者の利権争いの結果じゃねえか。サルも出る大学を出て高学歴化し、サルも読む新聞を読んで、このようなことをいつまで続けるのか。どんどん、新しい試みをしよう。

と、書もパソコンも捨て、小春日和の空の下へ。こういう日には、仕事中でも、なんとか口実をひねりだし、外へ。むかしなら、たばこを買いに行ってくらあと簡単に仕事場を離れられたのだけど、はて、いまはどんな口実があるか……。

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2006/11/07

日本食育学会設立大会、とな

大泉一貫さんの「今日の一貫」を見て、「「食育利権集団ができつつあるようだ」とな」を書いたのは9月8日だった。……クリック地獄

11月1日の「今日の一貫」には、その食育学会について、設立大会の案内がある。「日本食育学会設立大会のご案内です」……クリック地獄

11月17日(金曜日)午後1時から4時50分。場所=東京農業大学(世田谷区、小田急線経堂駅から徒歩10分ちょい)

記念講演は小泉武夫さん。記念シンポジウムは中村靖彦さん(元NHK解説委員)がコーディネーターで、パネリストは服部幸應さんほかで、テーマが「食育の原点〜味覚を育てる〜」だから、およその内容は想像がつく。

自分たちだけは正しい食生活をしてきたという前提で、いまの日本人は味覚が狂っている、食を大事にしない国は滅びる……、てなことだろう。いえいえ、小泉さんには今年のはじめ研究室でお会いして上等な酒までいただいてしまったし、たいへん愉快で熱心な方だとはわかっていますが。

ま、とにかく、やはり、先入観を持ってはいけないか。

大泉一貫さんは、このようにおっしゃる……。

食育に関してはよく分からないのが正直なところです。
中村靖彦さんとのつきあいで、こんな事になっています。
食事バランスガイドなどといわれてますがこれもよく分かりません。

(略)

「体にいい、悪い」論議、「これを食べるな、あれを食べるな」論議、「箸のあげおろし」などを課題とすると、食育の根本が失われてしまう様に思ってしまいます。

はてさて、この設立総会シンポ、誰が何をいうか、まだまだ統一的価値観が形成されてない学会なだけに興味津々です。

意を同じくする人、そうではない人が、明確に分かれてしまう気もします。
それだけにおもしろい学会と思います。
私のような人間もいるのですから、多くの皆さんの参加をお願いします。

……引用おわり。

うーむ、たしかにおもしろそうだ。しかも、参加費は、タダだ。タダで、この顔ぶれ。悪くないなあ。

だけど17日は予定があるからなあ。残念だなあ。でもせっかく開かれた設立大会なのだから、みなさん、時間のある方は参加されたらどうですか。

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池袋辺境徘徊のち西川口いづみや

もう一昨日になった5日のこと。池袋駅から明治通りを南へ、古書往来座、気になる料理本を数冊買い、鬼子母神へ。1992年ごろか? 江戸期に門前で営業していた料理茶屋の発掘跡を見学した。わずか1メートル下に江戸が埋まっている不思議を見た。発掘された陶器、青絵が多かったがトックリの五合ぐらいの大きいのがみごとだった、おもしろかったのは土を掘っただけの便壺で、意外に小さかった。

あのあとは何になったのかと思ったら、ミニ公園便所になっていた。つまりは、ミニ公園便所の建設がなかったら発掘はなかったのだ。

バブルの開発ブームがもたらした、よいことといったら、いらぬ工事の活発で、地下に眠っていた江戸の街のホンノ一部でも発掘する機会ができたことだ。おかしいことに、それまで江戸については、ほとんど文献が頼りだった。文献なんぞは、欲深い人の心を介しているから、デタラメが多い。ま、人間なんて自分に都合のよいことしか書かない。文章を書いて偉そうにしているやつにロクなやつはいない。だいたいハッタリで根拠がなくウソが多い。すくなくとも真実からは遠い。祖父母の代にさかのぼれば、もう何をどう食べていたかもわからないで、歴史や伝統や社会や文化やクソを論じる。その根拠はといえば、活字の世界の権威あるいは権威的存在であり、生活ではない。

以前に江原恵さんと、江戸庶民が実際に日々食べていた料理を調べようと、アレコレ文献を集めたことがある。しかし、その内容たるや観念的なものが多く、近代になってからもそうだが、それは男がブンガクを支配してきたからトウゼンでもあるが、しかし、こんな観念的な文章で伝統だのなんだのになるのだから、手書きの家計簿の一冊でも残してもらっていたほうがよほど役に立つと笑ったものだ。ま、それで江戸遺跡の発掘がもたらした、いちばん大きな成果といったら、江戸の人間は想像以上に多くの獣肉を食べていたということで、肉食の歴史の見直しが始まったことだろう。

しかし、まだ江戸遺跡の発掘は足りない。発掘のための予算はなく、ビル開発工事の最中にみつかって報告があったものしか、調査されてないのだ。ほかはひっかきまわされたか地面の下。ただでさえ中央である東京は活字と観念の都なのに、イジョーに発行部数の多い大新聞を頂点とする空虚な事大主義の活字文化は衰退してきているとはいえ、まだまだ続く、やれやれ。

そのように、鬼子母神のミニ公園便所の前でタメイキをつき、東京音大の前をとおって、南池袋の東通りを突き抜け東池袋に出た。そこは、もう工事がおわったかおわりつつある超高層ビルが建ち(きのうの写真)、そしてその近隣は殺伐とした荒地。かつてあった街がつぶされ、何という名前だったか東京空襲を経験した作家が何かに書いていたが、「空襲のあと」のように巨大な暴力がふるわれた様子が広がっていた。こんなことのくりかえしじゃ、人の心もすさむだろう、いやすさんでいるから、こういうことになるのか。

Ikebukuro_higasisyoutenとにかく路地に入る。朝日食堂の無事の画像は、すでに掲載した。その写真を撮っている位置から背後に都電の踏み切りがあり、わたると東池袋の商店街になるが、このあたりは、まだほとんど変わっていない。日曜日なので休みが多く、駄菓子屋の店先だけが迫る夕闇の中で灯りをともしていた。画像、クッリク地獄で拡大。歩いていると狭い路地から、トツゼン洗面器を持って銭湯へ行くらしい老人があらわれた。思わず、この人は、どんなものを食べているのだろうかと思った。

もどって、すっかり有名になった大勝軒の昔のままのボロ店の前を通り、サンシャイン横の西友があるビル。ここは、かつて、ファミリーマート関東地域本部があって、よく仕事で来たところだ。そこを東、造幣局のほうへまがり、造幣局のところで北へ、春日通りにむかう。春日通り、都電向原駅そばには赤城食堂があるが、休み。大塚駅に向って下り、もしかすると和田屋食堂なら駅に近いからやっているかと期待したが、やはり休み。もうずいぶん歩きっぱなしで、腹も空いているし、ビールも飲みたい。

食堂チェーンはやっているが気分じゃない。和田屋食堂のところから三業地のほうへ向って歩くが、ほとんど休み。あきらめて、北口側へ行き、確実にやっているはずの鳥忠へ。ここならまあ、大衆酒場の気分で飲める。カウンター席では、若造サラリーマンが文庫本を見ながらイッパイやっている。今日は仕事だったのか、ご苦労さん、あんた営業マンだね。おれも、むかし営業していたころは、休みなしでやっていたよ。ま、営業といいながら、昼から酒場に入っていたこともあるけどさ。

ビール、ビール、ビール! なんだか土建屋系職人が多い。みな三連休なしで仕事だと、景気よさそうな話をしている。ミニバブルだ。ビールのあとは、燗酒! おれも若造サラリーマンの真似して、古書往来座で買った本などを取り出して見る。酒場で本を読むなんてキザで照れるなあ。おおっ、この本、おっ、この写真、歌舞伎町のフロイデじゃないか。1970年ごろのフロイデの前の細い路地の写真があるなんて。こういう本なら、いいねえ。でも、これ、活字じゃなくて写真かあ。そういや写真は家計簿のように生活の仔細を残しているなあ。

で、帰りの電車に乗ったのだが、なんだかもの足りない。何かが足りない、やっぱり鳥忠では、何かが足りないのだよなあ。そうだ、西川口いづみやへ行ってみよう、と途中下車。うわははははは、やはりいづみやだ、もうオヤジたちでイッパイだ。うるせえ~、にぎやか~。そうなのだオートの帰りなのだ。オートの新聞を広げて、ああでもないこうでもない、下品で屈託なく。95パーセントぐらいは、その客。いやあ、オヤジたちは、いいねえ、この雰囲気だよ。おれのとなりは、タクシーの運ちゃん。オートは、まるでダメだったらしい。

ま、それで、はて、なにを飲んだか思い出せない。たぶん燗酒か、つまみは煮込み豆腐だけだったと思うが、とにかく勘定するときに千円でおつりがきたのだなあ。ま、それで、気分よく酩酊帰宅。

ああ、もう書くの、めんどう。

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2006/11/06

再開発真っ只中、東池袋の朝日食堂

Ikebukuro_asahiきのう再開発中の東池袋へ。都電東池袋4丁目駅の近くには、『大衆食堂の研究』に掲載した朝日食堂があるのだ。まだ無事だろうか。

休みだったが健在の様子だった。近所で工事があると、食堂にとっては、よいことが多いのがふつうだが、しかし、再開発ビルの波は、すぐそこまできていた。とりあえず、今日はこれから忙しいので、朝のうちに写真だけ。クリック地獄で拡大。

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2006/11/05

板橋区大山「かどや食堂」そして街と料理

きのうは東武東上線の大山駅周辺を歩いた。大山駅南口近くには『大衆食堂の研究』に掲載した「かどや食堂」があって、10数年前ぐらいには何度か入ったのだが、いつごろだろうか工事中とカンチガイして、あそこは建て替えたと思い込んでしまっていた。建て替えのあとはどうなったかと思って行ったら、前のままだった。ひさしぶりに入って日替わり定食を食べた。店もめしもかわりなかったが店の人のジジババ度は深まっていた。

大山駅のかどや食堂がある南側と北側では、飲食店の様子がずいぶんちがう。北側は踏み切りそばから、つぼ八、かまどま、はなの舞、庄屋、えん屋……といった居酒屋チェーン店が軒をならべるように密集している。一方、南側は、ホッピーが似合う古いもつやき屋などが軒を連ねる。これだけ狭い地域にこれだけ密集していると、気づかなかったことが見えてくる。

おととい行った船堀でも、そうだった。徳のある松江1丁目から船堀通りを船堀駅へ向って歩くわずか二キロのあいだに、飲食店の景色がどんどん変わる。つまり、生業の喫茶店や食堂や酒場のある街から、ファミレスのように産業化された飲食店しかないニュータウンへと、それは、ちょうど、昭和30年代から高度経済成長期を経過しニュータウンとニューファミリーが生まれた流れなのだ。それと同じ歴史がくりかえされ、しかも混在するのではなく、一本の通りに年表のように並んでいる。

こういうところでは、「街と料理」の関係をテーマに見ると、とてもおもしろいことに気づいた。いろいろ考えることが多かった。最近は、どちらかというと資料ばかり見ていたが、やはり本が語ることはホンのわずかであって、たった1キロから2キロばかりの一筋の通りが語ることは、すごく多く自由で、得るところは無限に思われた。

そもそも書物ギョーカイには、偉そうなものいいの評論家やエセ評論家が盾にする「文芸」といった文章の型(芸)などがあるが、そんなものは街では一片の価値もない。ま、街が言語を生むという自覚が活字文化にあれば別だが、そうした自覚はあまり見られず、おれは書物をたくさん読んでいるゾという連中が偉そうにしている。かくて文芸は型にはまることが目的になり街の精神から離れ衰退し、その文芸に支配された料理も街からはなれ型にはまり活力を失う。

街にも型はないことはないが、紙の上に活字で固定化されているのとはちがい、生きていて、型にはめようとする動きも型にはまるまいとする動きも呼吸している。街で呼吸している料理だけが生きながらえるのだ。このかんじにふれるのは、本では無理だ。路上は素晴しい!

ま、しかし、2日続けて歩き回るとくたびれる。酒も飲んで帰ってくるのでクタクタデレデレ。が、おもしろくなってきたので、今日もまたやるか。

かどや食堂のカレーライスは400円で、味噌汁付きだ。

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2006/11/04

江戸川区松江の徳へ

Matue_tyuukaきのうのこと。都営地下鉄新宿線船堀駅は地上駅で、駅前には、高いタワーがある大きな建物があった。なんだかなと思ったら、江戸川区総合区民ホールだ。タワーの最高部は展望台らしい。江戸川区南部ニュータウン開発バブルウハウハ有頂天行政の象徴のようなタワーだと思った。

船堀街道を北へ、街路樹というより細長い公園というべきか、これまたバブルイケイケドンドン有頂天行政の象徴のような「緑」の小道が道路わきに続く。が、その奥行きのない文化そのままに数百メートルでオワリ。中高層のマンションは姿を消し、工場と住居混在の古い労働者の街へ。歩いている人間の雰囲気までかわる。おっ、鉄工所があるぞ、おっ、『下町酒場巡礼』に登場の「伊勢周」はココかあ、おっ、そそられるたたずまいの中華屋、でもこれから食堂へ行くのだからガマン……と、約2キロ歩いて、めざす松江一丁目のベルタウン商店街。

まずは、裏のほうへまわって、食堂「徳」の位置を確認。なーるほど、たしかに聞いてたとおり、高速道路の下脇だ。暖簾は出ているがシャッターはおりて、5時過ぎればあくだろう。商店街にもどり、すみからすみまで歩く。ははん、北のさいはてに単身赴任中の男が電話のむこうで、うまいパン屋と云ったのはココだな、おっ、豆屋があるぞ、とか……。4時過ぎという時間、買い物客の姿はあまりみかけないが、かといってそれほど極端にさびれたシャッター商店街というわけでもない。銭湯が2つあるし。

歩きつかれたので、船堀街道に出て、来る途中でみかけた気になる喫茶店、ま、昭和30年代風喫茶店ですね、そこで一休み。近所の常連一人暮らし風ジジイが喫茶店のババアと大きな声で世間話。5時がすぎてから、徳へ。

おおっ、徳! 赤に白抜き文字の「食堂 徳」の行灯看板、いいねえ。そして暖簾は、文字のない白い布。
テーブル3台だけの狭い店内には、「求む鉄工鳶」と手書きの貼り紙が。
 
この徳は、ある宴会で斜め前に座っていたIさん、このあたりの地元民らしいのだけど、ナント「ザ大衆食」の読者だったのだ。そこで話がはずみ、「やっぱりね、ああいうところが一番いいよ」と教えていただいた。そして、北のさいはてに単身赴任中の男も、在京中はこのあたりを徘徊していたのであって、徳のホッピーはいいようまいよ~と電話のむこうで云っていた。

さて、それで、その徳へ入りました。ホッピー、これはね、おれが上京した60年代にはフツウだった、氷は入ってないでジョッキに注いで出てくるやつ、となると注ぐ店によって出来がちがう、そして、たしかに徳のホッピーはちがった。冷えぐあいと味のバランスがみごとだねえ。オカワリッ! もちろんココは食堂で、もうガツンの力みなぎるめしでしたよ。そして、めしだけをサッと食べていくお客さんもいるから、狭い店で新参者がゆっくり飲んでいては迷惑になる。ホッピー二杯にとどめ、めしを胃袋に押し込んだ。とにかく、Iさんのおっしゃるとおり。

ってことで、徳の詳しいことは、タブン近日中に、ザ大衆食のサイトに。そういえば、まだ赤羽の竹山食堂も掲載してないが。まっ、のんびりね。
写真は、船堀街道の途中で見かけた、そそられるたたずまいの中華屋。クリック地獄で拡大。

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2006/11/02

さまざまな食育カタログ

今日発売予定の『現代用語の基礎知識2007』が届いた、この1683-84ページに、「さまざまな食育カタログ」を書いている。10月22日に紹介したように、23の用語を選び解説している。

たとえば、最初の「感謝の念」は、こんなぐあい。

「食育基本法(基本法)の特徴的なキーワード。第三条「食育の推進に当たっては、国民の食生活が、自然の恩恵の上に成り立っており、また、食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて、感謝の念や理解が深まるよう配慮されなければならない」。人々の心の問題にふみこんでいること、生産者本位・保護に「配慮」が傾きかねないなど、消費者の反発や危惧もある。感謝を説くのではなく、お互い感謝されるよう努めましょう。」

また「食育推進会議」では、そのメンバーを紹介しつつ、「「お上」と産業と栄養と教育の関係者の色濃く、消費者は影が薄い。従来の「官製運動」を脱皮できるか。」

それで「食育推進基本計画」については、「法律を盾に一方的な価値観や世界観の押し付けにならないよう、お互い気をつけたい。」

そして「食の乱れ」では、「大量の残飯が出るようなまずい給食、多量の農薬を使う効率優先の農政と農業、儲け主義の商売などが、感謝の念の中で免罪されないよう気をつけたい。」

とか……短いなかに、食育基本法の本質と対策がギッシリつまっている。ま、手にとってご覧ください。

11月、イヨイヨ忘年会シーズンだ、イベントも多いなあ、アレコレあるなあ。どんどんスケジュールがふさがっていく。そしてバタバタと死へむかうのだ。ああ、あとどれぐらい飲めるのだろうか。

さきほど、ある地方都市のひとから電話があって、長話になった。人口4万、みな生活が苦しいという。30代で生活に押しつぶされたように生気をなくし、とても30代には見えないという。もう田舎の人のよいところのかけらもなくなりそうだ。テレビで見る東京が、おなじ日本とは思えないという。東京は昭和ブームらしいけど、こっちは昭和30年代で歴史がとまって沈滞したままだという。

食糧生産の基地が、その有様だ。

「がんばれ」というのは簡単だが、溺れかけているひとに「がんばれ」というようなものだからなあ。気の利いた言葉や表現が意味あるのは、せめて「ブログをやるサル」ぐらいの「経済力」があってからのことかな。大きな「格差」は、自前のパソコンを持ってネットにつながれるかどうかあたりに、もしかするとあるのかもなあ。

「働けど 働けどなお 我暮らし 楽にならざり じっと手を見る」と書く石川啄木には、(それでもまだ)紙と筆記具があったということか。

工業の成長で、紙がクズのように安くなるのは、70年代後半だろうか? 印刷代も安くなり、80年代にはメディアの過剰供給と過当競争の時代へ。90年代に電子メディアが、そこへ加わる。現実より、メディアのなかの、あるいはメディアを媒介にした価値観や世界観を基準にする生活(ライフスタイル?)が普及し、「バーチャル」だの「リアル」だの……。しかし、いくら安くなっても、それを後回しにする、あるいは後回しにせざるをえない生活が、広くある。紙メディアの時代から、そうだったのだ。

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2006/11/01

まだまだ、『汁かけめし快食學』オッ声 16

それで、きのうヤフーのブログ検索で「遠藤哲夫」を調べたとき、最近の10月26日に『汁かけめし快食學』を紹介している方がいて、おおっ、そういえばこのブログでやっていた「『汁かけめし快食學』オッ声」を最近はやってなかったなあと思いついた。んで、16回目をここに。

衰退する出版界読書界を象徴するかのように、権威筋身内でほめあってやっと線香花火のように売れる最近の、塩山芳明著南陀楼綾繁編『出版業界最底辺日記』、南陀楼綾繁著『路上派遊書日記』、向井透史著『早稲田古本屋街』のサルがよろこぶ三大オナニー本とちがい、『汁かけめし快食學』は、専門家に無視されても権威にまどわされることなく真摯に本とむかいあい自分を信じ真実を愛する読者に、このように読まれ続けているのだった。ああ、これこそ、偉大な書物の姿ではないか。しかし、この本は、スタートダッシュの短期間に売れなかったゆえ商品価値がないものとして、やがて絶版になる運命にあるのだろうが……細々ゆっくり、サルより人間によろこばれる本を、よろしく~。

06年10月26日
奄美諸島史の憂鬱 気になる汁かけめしと鶏飯
http://amamiislands.blog52.fc2.com/blog-entry-121.html
そう、奄美の汁かけめしといえば鶏飯だ。そういや、中野にあった琉球酒館の女将が、鶏飯をつくって食べさせてくれると言っていたが、ガンになり、店をただんで、どこへ行ったのか……。ま、とにかく、鶏飯伝統の地で、この本が読まれているなんて、うれしいねえ。

06年8月14日
お暇なら読んでね 汁かけめし快食學 遠藤哲夫
http://ameblo.jp/kanmani/entry-10015518246.html
「書評?読書日記?それとも書評?でもね、本なんて、100冊買って1冊あたりがあればいい方」と、ほんとだねえ、サルがよろこぶ本ばかりだ。書評なんていうと、観念的なサルがよろこびそうな能書きが多いし。そこへいくと、この書評ブログは、ぶっかけめしみたいに、気どらないで楽しくて、いいねえ。そこで『汁かけめし快食學』については、「汁かけ飯といいますか、ぶっかけ飯について熱く語っている1冊です。その情熱たるや、半端ありません。著者が日本で初めてぶっかけ飯に関する著書である!といいきるほどに深い深い洞察が記されている1冊です。何しろ、歴史的、民俗学的、文化的、文明的、文学的にぶっかけ飯を語っているのですから。その熱意たるや、もはや理解不能です(笑 」と。いやあ、あははは、うれしいねえ、おれは熱意だけで生きている人間なのさ。熱意のもとは酒。

06年6月7日
非@食べ歩き 汁かけめし快食學
http://guruman.blog62.fc2.com/blog-entry-58.html
「非@食べ歩き」さんについては、以前、ここで紹介しましたね。

06年3月11日
Surfin' Rabbit Station 番組Information
暮らしのサイケ日記「慌しくも読書に勤しむ日々の巻」(サイケ)
http://blog.goo.ne.jp/humansnet/e/89d289b237e5053b314d6bd6dbf7a672
「カレーライスを例に、食文化としての広まり方を考察しないでそのルーツだけを取りざたすることの無意味さを説く章にはハゲしく頷く。これ何にしてもそのとおりで、ルーツよりも伝播や浸透の仕方をキチン把握しないと文化というのは見紛えるものだと思うのです。これ以前番組用にハゲしくロックンロールについて考察した時の実感」と。うーむ、なるほど、ロックンロールの歴史についても、そのようなことが。しかし、あいかわらずルーツだ元祖だと騒ぐ歴史がハヤルのは、やはりサルが多いせいだろうか。

以上、見逃していて、まだほかにもあるかも知れないけど、あったら、トラックバックなりコメントでお知らせください。

そうそう、あと、ときどきコメントをいただく、pfaelzerweinさんのブログ「Wein, Weib und Gesang」の9月23日に「こねこねクネクネ」のタイトルの話、これは汁かけめしにも関係があって、おもしろい。
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/17b1d5ee2e3b61d3d8d878d2fa258ee4

『汁かけめし快食學』を読んだあとなら、ときには人間からサルになって、『出版業界最底辺日記』『路上派遊書日記』『早稲田古本屋街』をオナニーするのもよいでしょう。

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