「男」という場合の「男」は、男なのか?
「男の隠れ家」なる雑誌がある。立ち読みでパラパラ見る程度で、買ったことはない。こんなものを買うやつは男じゃないと思っている。
Web検索したら「こだわりを持った男たちのライフスタイルマガジン」だそうだ。いまどきの「こだわり」を持った男たちは、こういう雑誌を読むのか。おれの印象では、この場合の「こだわり」とは「チマチマした」としか思えない。つまり「チマチマした男たちのライフスタイルマガジン」だ。実際、いまどきの「こだわり」など、じつに狭量なチマチマした話ばかりだ。
男なら、こんな雑誌に頼らず、もっとオリジンを求めて、書物にむかったり、街や野へ出かけるだろう。
しかし、なんども書いているが、ツアーだのなんだのと群れをなして立ち飲みやら大衆酒場をめぐる男の姿は、とても男には見えない。そもそも、立ち飲みや大衆酒場の文化は、そういう男の文化ではなかったはずだ。そうではないだろうか、ねえ、立ち飲みや大衆酒場に詳しいみなさん。
では、なぜイマドキ、男たちは群をなしてまで、そこへ行くのか? それは自らのオリジンがないからだろう。自らのオリジンがないから、ありきたりの「名所(有名店なども含む)」ではオリジンを発見できない。そういう男が、立ち飲みや大衆酒場という、変貌する町中で一見時代遅れに見えるがゆえにオリジンの輝きのある存在に通じることによって、それを自らのオリジンと錯覚しイイ気分にひたる。そこらの誰でも知っているような「名所」しか知らないような男とはちがうぜ、ひとより街のチマチマを知るチマチマ優れた存在だと、そういうところにだけ、やたら男の見栄や意地を発揮するわけだ。しかも、じつは金がないために、あるいは気後れがするために「名所」に行けないだけ、という背景もなきにしもあらず。てな感じかな。
どこでもオリジンを求めてきた男なら、そのように何か対象に頼ることはしない。「名所」だろうと知られない場末の飲み屋だろうと、自分は自分で、そこに自分の存在の物語をつくる。そこがカンジンなのだ。男が街で生きるということは、そういうことであり、「名所」はダメで「ディープ」で「アナログ」なところならよいということではないだろう。
11月16日「北九州市「雲のうえ」の素晴しさ」に引用した牧野伊三男さんのオコトバは、そういう男のオコトバなのだ。もう一度、引用。
「 地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか。
創刊号では「角打ち」をとりあげてみた。これからも北九州の街かどを虫眼鏡で、同時に雲のうえからながめていく。この街にふさわしい歩みのテンポを見つけるためである。」
単に「角打ち」という立ち飲みが庶民的な「ディープ」な「アナログ」な存在だからよいということではないし、いま立ち飲みがハヤリだからということではない。おそらく「雲のうえ」は、対象がありふれた「名所」であっても、それなりのオリジンを発掘するだろう。
新しいものだろうと古いものだろうと、「名所」だろうとそうでなかろうと、それにむかう男=ニンゲンのオリジンが、どうであるかなのだ。そのことを避けて、こだわりもへったくれもない。
ま、おれは男なので、男の話になったが。
Web検索で見つかった、「男の隠れ家」らしい「男の隠れ家」といえば、これが本当の意味で、それだろう。リンクをはらないが、「男の隠れ家~人妻館 待ち合わせ型高級ヘルス」。こういうところへ、ツアーしようか、なあ、自らのオリジンをつくれず、立ち飲みなどの大衆が育ててきたオリジンに頼る、オリジンを失った他者追従男たちよ。
この広い世の中、おもしろいことはたくさんあるのにね。もっと一人一人、自分にあった楽しみをみつけられるはずだと思うがなあ。男としては、たった一人だけの趣味、なんてのがあってもよいはずだし。
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