北九州市「雲のうえ」の素晴しさ
いろいろな印刷メディアをいただいているのだけど、ほかの話題で紹介しそこねているうちに日にちがすぎている。その中の一冊、北九州市企画政策室にぎわい企画課発行の「雲のうえ」は、ゼヒ紹介したいので、ここに。
北九州市出身で、当ブログでたびたびネタにさせていただいている、美術系同人誌「四月と十月」編集長であり、サントリーのPR誌「WHISKY VOICE」のアートディレクションと絵を担当したりの牧野伊三夫さんが編集委員なのだ。
で、送付状に牧野さんの挨拶があって、こんなことが書いてある。「このごろ私の郷里小倉は、隣町の筑豊炭鉱も閉じ、八幡製鉄所も縮小して、だんだん人が減ってきました。しかしながら、明治期より工業都市として発展をしたこの街には、まだまだ見るべきものも多く、ことしは海のなかに空港をこしらえて、「スターフライヤー」という黒い飛行機を飛ばしたりもしています。お里自慢のようで恥ずかしいですが、このような北九州の姿をお伝えしたく、まことに勝手ながら出来上がった雑誌をお送りいたします。」
その牧野さん、「雲のうえ」の編集後記で、このように述べている。以下引用……
かつて司馬遼太郎が歴史小説で、近代国家の草創期であった「楽天的な」日露戦争までの明治時代を、「坂の上の雲」にたとえた。誰もが青い天の雲のみをみつめて坂をのぼった時代をはるか後にして、雲のうえに出た今、ひらけているのはどんな風景なのだろうか。ことしは新北九州空港も開港した。古くから国の政策のもと、製鉄を中心とした工業の面で日本の近代化をになってきたこの街から、遠く近く、それを見たい。
日々の暮らしや街の表情からみれば、北九州は、方々で急速に消滅しつつある土地のにおいや陰影といったものを、まだ残している。地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか。
創刊号では「角打ち」をとりあげてみた。これからも北九州の街かどを虫眼鏡で、同時に雲のうえからながめていく。この街にふさわしい歩みのテンポを見つけるためである。小誌が街づくりに、そして市外から関心を寄せていただくよすがになれば幸いである。
……全文引用してしまった。
とくに、「日々の暮らしや街の表情からみれば、北九州は、方々で急速に消滅しつつある土地のにおいや陰影といったものを、まだ残している。地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか」というところに、激しく力強く共感した。
いつごろだったか、「地方の時代」がいわれ始めたのは。それは、ようするに一極集中の中央集権システムのもとで成長してきた経済の崩壊を意味し、いまでもその大きな流れの過程にあると思うのだが、もう一極集中しすぎた中央集権システムは、もたない、かといって地方に自立の途が開けたわけではない、というかんじが続いている。んで、地方は、これまでの中央集権システム下での成長や発展をモデルにしてもダメだということは、すでにハッキリしているのだ。
ごくアタリマエのことだけど、自分で自分の生き方を築くしかない。というときに、テレビや全国紙マスメディアを眺めていても、そんなところには回答はないのよ。それらは崩れゆく中央集権システムの支えだったのであり、いまだそこにすがってイノチながらえようとする連中の墓場でしかない。
ならば、どこに地方の活路があるかというと、ここで牧野さんのが述べていることなのだ。と、おれは、じつは、このことは1980年代なかば、中曽根リゾート法、竹下ふるさと創生一億円のころに、いろいろな、そのテの「地域活性化」プランにからみ身にしみたことなのだが。
それはともかく、それで、今回の特集は、牧野さんの編集後記にあるように「角打ち」なのだ。「角打ち」とは、立ち飲みがハヤリの東京では姿を消しつつあるが、立ち飲みの原型といいましょうか、酒屋の店先で立ったままイッパイやる、あれのことなのだ。
で、なななンと、この特集のライターは、あの「酒とつまみ」編集長の大竹聡さん。特集の扉に、「酒屋の店先で、さくりと一献。誰がつけたか、その名は「角打ち」。」と書いている。
そして、写真もいいねえ。左は、牧野さん絵の表紙、右は本文なかの写真からスキャンした。
読んでも見てもすばらしいが、なにより、やはり、また繰り返すが、「日々の暮らしや街の表情からみれば、北九州は、方々で急速に消滅しつつある土地のにおいや陰影といったものを、まだ残している。地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか」ということで、たかだか町中の労働者大衆の日々の楽しみにすぎない「角打ち」にスポットをあてる。この、大胆さ、いや正しさ、このセンスは、ほんとにいいねえ。これはお役人や都市計画屋や都市社会学など、都市の専門家からはゼッタイに出ない発想だろうし、これからも「地方」には、こういう発想がゼッタイ必要だと、おれは力強く共感した。どの地方にも「地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる」ものがあるのではないだろうか。
雲のうえ
編集委員会……牧野伊三夫、有山達也、大谷道子
もくじ
エッセイ 「半島と廃墟と雲と」 文・平出隆 (平出隆さんが故郷の門司港を綴っている。ああ、なんてよいんだろう、すばらしい!)
特集 「扉のない酒場へ。」 文・大竹聡 写真・斉藤圭吾
赤壁酒店(旦過)、宮原酒店(折尾)、井形酒店(春の町)、酒のキリン屋(黒崎)、高橋酒店(折尾)、田中酒店(戸畑)、魚住酒店(門司港)
「街のうた 三交代の一日」 文・大谷道子
「酒屋を見たらとりあえず入ってみる、という姿勢でいるべきだ。」 文・大谷道子
河口酒店(城野)、野村酒店(若松)、中島酒店(黒崎)、末松酒店(室町)、高田酒店(戸畑)、はらぐち酒店(戸畑)、弥永酒店(西小倉)
連載 街と芝居と人と日々
街の呼吸が伝わってくる特集「角打ち」、そこへ行ってその人たちと会いイッパイやりたくなってしまう。これこそ「文化」といえる財産なのだなあ。しみじみ、そう思ったね。名所旧跡や文化人だけが文化じゃないのよ。こういう、押付けがましい型にはまったPRをこえるPR誌を発行した北九州市、前途はまだまだ大変だと思うけど、がんばってほしい。
そうそう、「北九州市角打ち文化研究会」なーんてのもあるぞ。
http://www.kakubunken.jp/
ああ、「雲のうえ」にコーフンした。
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コメント
あのへんで学生生活をされていたのですか。
私は、1972年か3年ごろ、出張で2回小倉へ行き、
2回とも、当時あった日活ホテルに泊まって、飲んだくれました。
そのころ「角打ち」のことは知らなかったですが。
この雑誌で見る「角打ち」は、
1970年代ごろまで東京の酒屋でもよく見られた雰囲気で、
私の立ち飲みは、ほとんどこういうところでした。
「雲のうえ」次の特集は市場だそうです。
切手で送料200円分送ると、入手できますよ。
http://www.city.kitakyushu.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=9C75926ECB66CC4CEB372B829A21FD41?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=16176
投稿: エンテツ | 2006/11/17 08:32
いやあ、懐かしさで涙ものですね。
出てくる地名から、すっと三十八年前の学生時代が
甦ってきました。旦過市場・門司港・小倉銀天街から
我が北方1丁目など、何ともいえない響きでした。
このような冊子が出せたり、混然としたすえたような
匂いの場所が残っていたり、なかなかやるもんですねえ。
しかし貧乏学生のため民間の学生寮の部屋で、レッドや
ウォッカまた地元出身者の仕送り代わりの芋焼酎位しか
ありつけず、一覧の酒屋・飲み屋へは行けずでしたが。
投稿: ボン 大塚 | 2006/11/16 21:37