情報を蹴散らして詩人の感性を取り戻せ
16日の「北九州市「雲のうえ」の素晴しさ」に書いた「雲のうえ」には、本文冒頭に平出隆さんの「半島と廃墟と雲と」があって、すばらしく、いろいろ考えさせられた。
これは、門司港周辺の呑みガイドとしても読めるのだが、その書き出しは、こんな風に始まる……
北九州に帰省すると、その変わりやすい大気や多彩な地形を、いわば肴にして呑むことになる。たいがいは小倉の鍛冶町や堺町や紺屋町での一杯になるが、店を門司港に切り替えるだけで、まったく別の国の酒になる。洞海湾の向こうの若松で一献となったら、ギリシヤかどこかで呑むような遠さである。
……というぐあい。
そこに住んでいたことがある体験をやどした身体で、ぐいぐい「肴」である大気や地形を掘り起こしていく。
「店を門司港に切り替えるだけで、まったく別の国の酒になる」におどろいた。
それは「詩人の感性」の働きだといってしまえば、それでオワリで話にならない。そうではなく、じつは、こうした感性は誰でも持っているのに使わないでいることが多いのではないかと思った。
たとえば、たまたま用があって、雑誌『食楽』12月号を見た。これはどうやら食べ歩き飲み歩きうまいものが趣味の、近年では「グルメ」といわれたりする人びと、むかしながらの呼び方をすれば「好事家」ということになると思う、そういう人たちがターゲットの雑誌のようだ。
特集が「「新蕎麦」珠玉の一杯」と「「ブランド魚」に興味津々」だが、全面的にペダンチックな情報や知識にあふれ、人間らしい感性の表出が、ほとんど感じられない。それはまあ、「情報誌」だから、ということなのかも知れないが、ただの情報誌にしては、やたら能書きが多い。自分の身体で魚や蕎麦を見る知る味わう前に、情報として「ブランド魚」や「珠玉の新蕎麦」が詰め込まれるのだ。これを読んだ人は、その情報のとらわれびとになり、自分の身体でモノを見る知る味わうことができなくなるのではないかと思った。
しかし、万事、そういうぐあいになってきている。街を「感じる」にも、とてつもない知識、たとえば1920年代の建築様式やら、地域の地理や歴史を知らなくてはならないかのような「仕組み」がある。
そういう情報や知識は、なくてもよいとはいわないが、そのために自分の身体で感じとるべきものが押しつぶされるのなら、そんなものは蹴散らす必要がある。まず、自分の鼻や皮膚や目や耳や舌を働かせ、空気も吸ってみて噛んでみて、ときには立ちしょんして……感じること、それがなくてはなあ。
その16日も引用した「地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる」ものをつかむには、そういうことだと思う。
しかし、平出隆さんて、すばらしい詩人だなあ。ウチにも一冊、本があるはずなのだが、探したけど見つからない、さらに探してみよう。
おれも「大衆食堂の詩人」だからなあ。いちおう。
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