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2006/12/18

「明治快女伝」の女たちは、なにを食べていたのか

このあいだからボチボチ読んでいた、『明治快女伝』(森まゆみ著、文春文庫)を読み終えた。幕末から明治大正期に生まれた女の人生は、おもしろい。ここに登場するのは、みな「有名人」の部類で、なんらかの「突出」した人たちだが、そうではなく、コツコツ名もなきライターたちが自費出版や地方出版などにまとめた名もなき女であっても、オモシロイひとが多いという印象はあった。あるタウン誌の女編集者は「いま80歳以上の女たちが、イチバンおもしろいのよ」と言っていたが、たしかに、そういうかんじがしないでもない。王子の福助のアグ婆さん、リーベのママ婆さん、おせん婆さんも大正生まれだろう。

それはともかく、こういう本を読んで気になるのは、その女たちが、どんな料理をつくり、何を食べていたかだが、これが例によって、あまり書かれてない。登場人物約50名のうち、食事や食べ物の話があるのは二人だけ。

1900年生まれの山内みなのばあい。上京後の東京モスリンの工場での生活。「仕事が終わると、宿舎の大部屋はおしゃべりやけんかで大騒動である。卑猥な話も飛び交う。千人以上の女工が入る風呂は混雑して、垢でどろどろの湯だった。ぼそついた南京米に味噌汁、たくあん三切、それに、時折サバかイワシの煮付けが出ればいいほうだった。寝るだけが楽しみの生活である。」

1874年生まれの山室機恵子は、「日本救世軍の父といわれる」山室軍平と結ばれる。「二人は心を合わせ、神の摂理を信じて運動ひとすじに生きていた。理想はあっても金はなかった。ほとんど家にいる間もない軍平の手当が一ヵ月七円、そのうち家賃が三円五十銭、それとて畳の数を数えてみても十一枚半の小さな家である。煮炊きは七輪一つ、たきつけは朝、表を掃除するときに道端で拾い、安上がりの臓物料理が唯一のごちそうだった。」

これは、おそらく「特殊な食生活」ではなく、かなり多数の大衆の日常も反映しているのではないかと思われるが、著者の書き方では主人公たちの「貧しい生活」を際立たせる道具立てという印象だ。

この貧しい食生活、そして書き手の食生活への無関心というか、それは大新聞を頂点とする日本の活字文化の底流にある事大主義に関係すると思うが、なかなか根深いものがあると思う。いまでは、物書きが何か書くというと、すぐ食べ物の話をするが、陳腐な話がおおい。それは活字文化に生きるものが克服しなくてはならないコトを意識せずに、ただ食べ物のはなしをすればウケルからという安直があるせいではないかとも思われる。

いったい、食べ物のはなしを、なぜするのかということを、この本書の例では、貧しさを際立たせる道具立てというかんじがしないでもないが、そうでもよいから、食べ物のことをナゼ書くのか、ウケルから以外の理由を、もっと考えたいものだね。とくに男が書くものは、あいかわらず、書誌的なペダンチックなはなしや道楽に流れやすいようだ。ま、ウケルならウレルなんでもよいじゃないかという「メディアの事情」もあるかもしれないが、食文化の貧困だね。

はなしがズレてしまったが、とにかく、「魚食の伝統」というと、むかしから日本人は毎日のように新鮮な魚を食べてきたかのように述べるひとたちがいるが、そんなことはない。不足のおおい貧しい魚食の伝統だったからこそ、臓物料理があり、こんなにも簡単に肉食が普及したともいえるわけだ。それに、いまじゃ、どこどこの煮込みがイチバンだのなんだのと、なんでも「グルメ」談義にしてしまうが、「臓物料理」の歴史というか、家庭での臓物食の実態は、まだまだあきらかでないことがたくさんある。

関連、当ブログ2006/07/07「「青鞜」の「新しい女」たちは、どんなめしをつくったのか?」……クリック地獄

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