「好食」の方法
町田康さんの小説『夫婦茶碗』に、「鶏卵の問題である」という話がある。冷蔵庫の鶏卵トレイに鶏卵を並べる、あの並べ方のことだ。
買った鶏卵をパックから出して、鶏卵トレイに入れといて使う。一人暮らしなら問題はないが、夫婦だと問題が生じることがある。
つまり「鶏卵が完全に費消され尽くされる前に、鶏卵を買って補充するのだ」、そのとき新しい鶏卵と古い鶏卵を見分けやすくするために、主人公の「わたし」は「妻に厳命したごとく、当家に於いては鶏卵は手前側から使用する」。手前側から使い、使ったら奥側の鶏卵を手前側に集めて、新しい鶏卵は奥側に補充する。こうしておけば、古いものが使われないまま残る心配がない。しかし、それを妻が乱す。手前側から使って、新しい鶏卵は手前側に補充するのだ。
てなことを町田康さんは、あの独特の文体で延延しつこく書いている。これはまあ、単に鶏卵の問題ではなく生活を共にする夫婦の話なのだが、似たようなことはよくある。もとはといえば赤の他人が一緒に暮すのだから、性格のちがいや育った環境や習慣のちがいなどが、こういう細かいところにまであらわれる。
んで、この小説のばあい、この話に入るにあたり、人は鶏卵をなぜ補充するのか、鶏卵がないときの「挫折感・焦燥感・虚無感」を述べている。これが、オモシロイ。
「例えば、スパゲティ・カルボナーラを拵えようとして、スパゲティを鍋にぶち込み、「はは、これで麺の方は万全だ。じゃあ、おもむろにソースの支度にとりかかることにいたしましょうかな、小生は」なんてことを小声で呟きながら、冷蔵庫の扉を開け、そこにないことを発見したら、人はいったいどんな気分になるだろうか? じりじりするような挫折感・焦燥感・虚無感を味わうことになるのではないだろうか。だから人は、そんなことにならぬよう、鶏卵が完全に消費され尽くされる前に、鶏卵を買ってきて補充するのだ」
これに似たようなことは、けっこうあって、もう激しい怒髪天な焦燥、立っていられないほど腰から下の力がぬけ地獄の底に落ちるような挫折や虚無をかんじることがある。
たとえば、コショウをふるタイミングで、コショウのあるべきところへ手をのばしたのに、勝手に移動させられていて、手をのばした先にコショウがない、といったときの挫折感・焦燥感・虚無感は、すごいものがある。このタイミングで入れなきゃ、イメージしていた今夜の楽しみが失せるんだヨ、二度とない今夜のめし、その味がイメージとちがってしまうのだ、こんちくしょうのクソッタレ、あああああ、ぐわわわわわ、と、作っていたものを床にぶちまけたい気分になる。
しかし、知らんやつ、なんでも喰えればよいよ、というやつからすれば、なんでそんなことぐらいで怒ったり嘆いたりするのよ、ってなものだろう。
ま、それで、えーと、なにを書こうとしていたのか忘れた。なんかまたタイトルとちがった話になっているかな。ま、いいか。
ようするに、野菜炒めをイメージどうりにつくるていどの想像力や未来予知能力、そしてそれらが狂ったとき機転をきかす能力があれば、この世は楽しく過ごせるということ。逆に、それがないと、どんなにグルメだ天下国家だといっても、たいして見えていないし感じてないのでは、と思ったりする。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント