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2007/01/12

飲食の楽しさの格別な意味

きのうの「ミステリアスなほうがオモシロイ」に関連。茂木健一郎さんの『食のクオリア』を見ていたら、こんな記述があった。引用……

もともと、私たちはお互いが何を感じているかということは決して知ることができない。私たち一人一人の感じていることの質感(クオリア)を、お互いに決して知ることができない。私たちは、誰も、自分が「ご飯の味」だと思っているものが、他の人にとっても同じであるということを確認したことはない。チョコレートの甘さや、トンカツをほおばる時の感覚が、自分にとってそうであるように他人にも感じられていると確かめる術はないのである。

……引用おわり。

そして、このようにも述べている。「しかし、食べることがもたらす幸せな気分には、お互いに感応することができる。「一緒に食べる」ということは、お互いの幸せな気分が壁をこえて行き交い、感応し、増幅するプロセスである」「だからこそ、一緒に食べることで、私たちは一人で食べるのでは決して到達し得ない至福の高みへと昇ることができるのである」

これは、全体の文脈としては、茂木さんの専門の脳科学からの話だから、現実には、食文化の社会環境や家庭環境も関係するだろう。つまり、そういう場として飲食を好む文化や習慣があったかどうか。

日本には、それが不足していたのではないか。これまでの日本の支配的な飲食は、別の感覚やこころを持った個の独立した存在を認め、一緒に飲食をすることで「お互いの幸せな気分が壁をこえて行き交い、感応し、増幅するプロセス」として飲食を楽しむことはマレだった。

でも、「食べることがもたらす幸せな気分」は多くの人たちが知ってきた。それは、ようするに貧乏で食糧も十分ではなかったから、食べることそのものが困難をともない貴重だったことによるだろう。「貧しく飢えたこころ」が飲食の幸せをもたらしていたのだ。

飲食を好み楽しむ文化や習慣そのものが存在したわけじゃない。感覚やこころが異なる個の独立した存在を認めたがらない全体主義的な環境が長いあいだ支配的で、いまでも「一心同体」を美徳とするような風潮はある。そこでは飲食は、社会の、集団の、あるいは家族の、「一心同体」の儀式にすぎない。実際に、戦前はもちろん、戦後の給食においても、つい最近まで、楽しい会話をしながら食事をするのではなく、黙々と食事をすますことがヨシとされていた。そして、それに対して、たまーにの「無礼講」の宴会が成り立っていた。

そんなことだから、高度経済成長とやらで食品産業や外食産業が成長し、生活もローンという借金がやりやすくなり少しばかり余裕が生まれると、「貧しく飢えたこころ」のまま飲食に飛びつくことになった。そして、飲食を生活のなかの楽しさ幸せとする文化や習慣を育てるのではなく、先を競っての食べ歩き飲み歩きへと怒涛の集団行動でなびいた。それが「B級」ということばで安酒場や安定食までのみこんでいる「グルメ」という現象だ。

それは、独立した個の存在のためではなく、「一心同体」の趣味を味わう、ランク付けはまさにそのためのものだと思うが、つまりおなじところへ行きおなじものを食べ飲み、その知りえた制覇した「量」を競い満足する。少しでも多くの食べものを渇望していた、飢えた貧しいこころのままなのだ。

ってことで今年は、これはまあ、難しくいうと「仮説」なのだが、「好食」というコンセプトをおいてみたのであるよ。これが、考えれば、考えるほど、よいのだなあ。と、自画自讃。だいたいね、好きじゃなければ、大事にしないよ。楽しい食事が好きになることで、楽しい食事を大事にするようになる。そういうコンセプトなのだ。

それはまた「孤独」を認めることでもあるのだな。つまり、孤独な食事は、飲食が好きになりさえすれば、それはそれで楽しみようがある、ってこと。その楽しみを知っているもの同士の一緒の飲食の方が、より楽しみが深いのではないか。「一人で食べるのでは決して到達し得ない至福の高み」へ昇れるのではないか。と、これも「仮説」ね。しかし、「孤食」や「個食」を槍玉にあげて、できもしない「家族団らん」を主張するより現実的ではないだろうか。

「むかしはよかった」ではなく、好食を知らない、ガツガツしたむかしの飢えた貧しいこころがカタチをかえのさばっていることが問題なのだ。切ない。

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