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2007/02/05

「社会科のための 食物文化誌」なんだが

昭和23(1948)年発行の『社会科のための 食物文化誌』という本がある。著者は後藤興善さん、早大教授だ。東京火星社の刊行。

この本を見ると、戦後日本の、いわゆる「混乱」が、食文化においてはどうであったかということや、それをいまでも引きずっていることが見える。(以下、引用は、新漢字、新かなになおした)

まず、戦前のアカデミズムの慣例というか流れだ。「食物神話について」から始まる。そして、つぎが「民族の食」。まだ戦前そのままだね。そこでは、「今日都市の街々に横行している西洋料理、支那料理、印度料理、成吉思干料理等は、刺身や吸物の日本料理とは凡そ範疇を殊にしたものである。」と。

おれが5歳の昭和23年の話だよ。
「刺身や吸物の日本料理」に注意が必要だ。

拙著『汁かけめし快食學』では、そこまで書かなかったが、みそ汁ぶっかけめし下品論の背景には、吸物つまり「すまし汁」が「上」で、みそ汁は「下」という優劣観も、あったと思われる。たとえば、いまでも「正しい」板前がいる旅館の、伝統の和食とかいう夕食、いわゆる正餐は吸物で、みそ汁は正餐ではない朝食になる。(このカタチは現実的ではないからだろう、やや崩れつつあって、夕食の最初の配膳には吸物がつき、めしを食べるときに、めしと一緒にみそ汁が出るところもあるが)。おなじように、どんなに産地のうまいものだとしても干物が夕食の膳にのることはなく、夕食は刺身で干物は朝食だ。どちらも民宿ではありえないこと。

みそ汁や干物に劣等意識はないまでも、あれでは正式の日本料理にはならないという意識は、広くあったと思われる。「正式の」という言い方は、おかしいが、正式とそうでないものが日本料理にはあった。そして、正式とそうでないものとのあいだには連続がなく断絶し、一方だけが「日本料理」とよばれてきた。この自己分裂の根は深い。

そして、戦後の食生活において、めしとみそ汁と漬物という、いわゆる「伝統」の「和食」が軽んじられる根にあったのは、この優劣観だったと思う。「糠みそ臭い女房」は、愛しい頼りになる女房だったかもしれないが、男も女も糠みそ臭くない「奥様」にあこがれ、カネのある男は、糠みそ臭くない女を求めた。そして、自らの内面は問うことなく、「戦争に負けたからね」「占領されたからね」で片付け、「外来モノ」に敵愾心だけ燃やしてきた。

そういえば、思い出したが、渡辺淳一の小説『化身』の女主人公里美は、はじめは、サバの味噌煮をくいにいきたがる女として描かれる。純朴な田舎者、美人だが垢抜けしてない女、都会暮らしを知らない女、都会の垢に染まっていない女……そんなイメージのためにサバの味噌煮がつかわれている。その女をカネのある男が仕込んで、サバの味噌煮などくわないイイ女に化けさせる。

それはともかく「食の文化」という章では、「「食」の文化性に就いて先ず考えよう」と、かなり先進的だ。このへんは戦後の気分か。しかし、歯切れが悪い。

「食がたゞ飢をしのぐ為のものでなく、生活を楽しむ材料であり、機会であることも、もとよりで、この意味では粗末に過ぎる常の食物より、いつでも神祭の日のような食が食膳にあることは望ましいことでないことはない。そして、珍味佳肴の多くを味わい、舶来の飲料や美酒も飲み、東西の美果を食することは正しく人生の逸楽事である。しかし、分を知り、限度を考えること、そして、食はもと生命の持続素であり、活動の源泉であることを考えることが肝要である。」

「食の倫理は、今日の如き食料の不足な時代に、一層強調すべきで、に尚よく考究しなければならない。しかし浪費してはならぬ、贅沢をするのが不道徳だというのは、ただ消極的な「すべからず教訓」である。もっと積極的に、食は人間活動の根源であり、食のうまさは生の喜びであることを考え、適正なる食によってより大なる人間活動をなすことを期すべきである。過食したり、或いはたゞ美味をのみ求めて食に対したりする場合、禍は小ではないのである。」

歯切れが悪い。だから、なにを言いたいんだヨ、というかんじ。そして、やっぱり出ました。

「昔の人の食ったものを食べれば丈夫になるといっても、今直ちにそうしろというのは無理である。しかしそういう心掛けだけは持つ必要がある。その精神で今日の日本の食糧問題は解決しなければならない。」

いまでも、こういう論調は、けっこう根強い。「食育」や「地産地消」の精神主義的背景は、このあたりなのだ。「昔の人の食ったものを食べれば丈夫になる」というのは、いったい、いつから何を根拠に言われるようになったのだろう。「昔の人」って、いつの人だろう。いつの人だって、昔の人のほうが、ズッと丈夫で長生きだったなんてことはないだろう。

そして、そして、やっぱり、こうなのですよ。

「食物についてとやかく物をいい、心を労することは前から「いやしいこと」として禁忌されている。君子は厨房を遠ざく、という聖賢の言が、国民の生活倫理の根底理念となっていたのである。然るに、今日は、有髯紳士も、猿眼で食料をあさり、見つけ次第要不要の考慮吟味もなく買い込もうとする状態である。浅ましい眼である。総力戦態制はこんなところにも整備の手がとどいて、心情のいやしさを恥じる伝統の精神美にあふれた日本人に立ちかえらしめる必要がある。武士は食わねど高楊枝。この諺は国民が、ややもするといやしくならんとする精神を高揚せしめるためにもつと口にしてよいものだと思う。」

いやはや。やっぱり、食べ物のことは「いやしい」のか。いまだって、食べ物や飲食店のことは、どこになにがあるかの「情報的」関心であって、文化的関心なんかじゃないものな。

かつて戦後は、モノに飢えていたがゆえに、食べ物のことは「いやしい」としながらも、武士でもなんでもない一市民の紳士諸君も競って食べ物にむらがり、そしていまは、情報に飢えて、食べ物にむらがる。

食べ物の情報にむらがるのは、毎日のことであり、どこにでもあって、群がりやすいからで、食べ物のことは「いやしい」とする自らの文化を克服したわけではない。だから、じつに、食べ物や飲食店のことで右往左往すること、先を競い浅ましいほどだ。それは「武士は食わねど高楊枝」の表裏なのだ。自ら食を楽しむ文化を育ててこなかった姿。

グルメとは、もっと悠々と生活を楽しむ態度ではなかったのか。ザ大衆食のトップページに書いてあるように、「あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみたい」ものだ。

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