金目鯛の頭をねぶる
シティの安っぽいスーパーの閉店間際に、「半額」のシールが貼られた金目鯛の頭を見つけたワタシは、大急ぎでそれをつかんだ。最後の一つ、160円!
これで今夜のメニューは決まり。もちろんフレンチだ。冷蔵庫には、カボチャとホウレンソウが入っている。ナチュラルチーズも、3種類ばかりあるはずだ。
金目鯛もカボチャも蒸そう。そして、金目鯛にはバスクドシャルルブウランジェを、カボチャにはヘドヘドラポアンテディフシルを、かけよう。ホウレンソウは、サッと茹でて、チーズとあえる。うーむ、想像しただけでもヨダレが出る。
バスクドシャルルブウランジェもヘドヘドラポアンテディフシルも、ワタシがフランスに滞在中、バスク人シェフに教わった秘伝のソースだ。かれは熱烈な、いわゆるバスク民族主義者で、三ツ星クラスの腕があるといわれながら、あるバスク人の地下アジトの賄いをしていた。そこへワタシが行って、かれの下で働くことになったのは、パリである男を救ったからなのだが、その話は、ま、いいだろう。
ワタシは、パリの風、バスクの空、そしてあのバスク人シェフを思い出しながら、金目鯛の入った袋をぶらさげて家に帰った。今年の冬は、ほんとうに暖かい。故郷の六日町は、今日から三連休のあいだ雪まつりだというのに、雪はあるのかと心配になる陽気だ。
冷蔵庫を、あけてみると、チーズはなかった。おかしい、酔っ払って食べてしまったのだろうか。それにソースをつくるには必須のスープのストックを冷凍しておいたはずなのに、ない。おかしい、泥酔のあげく溶かして飲んでしまったのだろうか。
ワタシは、しばし呆然としたのち、気をとりなおし、フレンチはあきらめ、あるものでうまくつくることにした。
ところが、いつも絶やさないようにしているはずの、カツオ節や雑節や昆布や乾燥シイタケや、はては即席ダシのたぐいまで、どれ一つとしてないのだ。なんという日だろう。おかしい、こんなことがあるだろうか、みな酔って食べてしまったのか。
しかし、料理の腕は、ここからなのだ。冷蔵庫には、ハクサイの葉が数枚、モヤシの使いかけが袋に半分のこっていた。ハクサイを細かく切り、モヤシと一緒に、土鍋の底におく。それらがひたひたになるぐらい水を入れる。醤油をテキトウに注ぐ。その上に、金目鯛の頭を置く。その頭にも、醤油を少しだけかける。土鍋のふたをして、中火。
こうすると、金目鯛から出るダシと、ハクサイとモヤシのダシが、水にとけだし混ざる。その汁を、金目鯛の頭を皿にもった上に、かける。もちろん、ダシ汁を、たっぷり吸ったハクサイとモヤシもそえて。
そしてワタシは、とうぜん清酒をともにし、フレンチなんかクソクラエと、それを食べた。
金目鯛の頭は、ばらしながら、骨をしゃぶる。小さな小骨まで口にふくみ、しゃぶる。いや、「しゃぶる」のではなく「ねぶる」のだ。言葉の意味としては、おなじだが、感触がちがう。
まさに「口の中では卑しく小骨をねぶる演技をする」のだ。そうしながら、この表現は、じつにうまいと、あらためて思う。
写真家の久家靖秀さんが、『四月と十月』の最新号15号に、「アラ」という短文を書いている。そのなかの一行だ。アラの小骨を口の中で食べるときは、「卑しく小骨をねぶる演技をする」。すると「食にまつわる「卑しさ」を枯れて演技的に自覚する快感がある」
写真家の文章は、いわゆる文章家の視点や感覚そして表現と、かなりちがうように思う。写真家は、肉体労働者なのだなと思う。文章家は、頭でっかち。
そしてワタシは、口の中で卑しく小骨をねぶる演技をしながら、この感じは、ほかにもあったようにかんじ、思い出そうとする。
そうだ、女の乳首だ。赤子は、あれを「しゃぶる」のだろうが、男は、あれを「ねぶる」のではないだろうか。卑しく乳首をねぶる演技をする。どうも、そうだ。ワタシの頭に、いや舌に、パリの女たちの乳首が、50個100個とよみがえる。
……と、イテッ、舌の先に痛みが走り、われにもどる。かたい小骨が舌先を切り、血が。ねぶりかたがいけなかったようだ。少し酔ったか。ねぶる演技には、集中が必要だ。
と、今日は、創作風に書いてみた。
ご参考……2006/12/12「「四月と十月」の濃密」…クリック地獄
そういや、「四月と十月」の古墳部の活動は、今日から宮崎県の高千穂夜神楽を訪問するのだが、おれは六日町雪まつりの飲み会へ行く予定が前から決まっていて、参加できない。残念。高千穂の夜神楽は、以前4回ほど観て、知り合いもいるのだが。
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