気になる「愛情料理」
きのうの「愛情料理」モンダイから、いろいろ考えてしまったが、「愛情弁当」という言い方もある。だけど、「愛情料理」だろうが「愛情弁当」だろうが、妻であり母である女がつくる料理だった。それは、2007/02/05「「社会科のための 食物文化誌」なんだが」に引用したように、「君子は厨房を遠ざく、という聖賢の言が、国民の生活倫理の根底理念となっていたのである」という歴史的事情が背景にある。
女は「子を産む機械」なだけじゃなく、愛情料理や愛情弁当をつくる機械でもあった。ま、なかば「義務」のように、愛情料理や愛情弁当をつくらされてきた、ともいえる。しかし、「義務」や「機械」では、身も蓋もなければ美しくもない。「愛」や「絆」なら。
男にとって女は「利用関係」であり、「人間関係」とはビミョウに違う。ということが可能だった。しかし、自分にとって都合のよいものに対して愛着や愛情がわくように、利用関係においても、つまり便利このうえない利用価値の高い妻に対して愛情は持てる。あるていど「家庭」のカタチができてしまえば、妻は、いろいろなことでなくてはならない存在になる。いなくなると困る。それを「愛」とか「絆」ということにして、男はすごす。女からすれば、そうではないかも知れないということについては、考えない。
そして、女だって、一緒に暮すうちに、よき妻よき母でやっていたほうが、ラクというか、いいじゃないの「子を産む機械」「料理をつくる機械」だって、これが女の幸せ平和というものよ。テナことに、なるようなかんじもある。かくして、男と女のあいだには、深くて暗い川があっても、家庭を軸に「利用関係」が成り立ち、「人間関係」などメンドウなことは二の次。ま、人間関係的「愛」「絆」など考えずに、利用関係的「愛」「絆」で、心地よくすごす。
「愛情料理」や「愛情弁当」は、その幻想のための、潤滑油というか装飾というか……。
知人だが。妻が、うつ病ひきこもりで、料理もしないし子供の弁当もつくらなくなり、夫である男が、それをするようになった。すると、男だって、料理に対する関心が高まる。このあいだ、あるところで一緒に飲み食いしたとき、うまい気になる料理があると、「これ、どうやってつくるの」とイチイチ聞く。ようするに、料理がうまくなるというのは、そういうことなのだ。愛情より好奇心だろう。では、その好奇心のモチベーションはなにか。妻や子に、うまいものを食べさせたいという愛情か? どうもそうではないようだ。よそで食べたうまいものを、自分もつくって食べてみたい、それだと思う。自分が、どうしたいか、なのだ。
ともあれ、料理というのは、男と女の関係まで考えさせるものなのだ。
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コメント
ポンコツ廃棄処分対象だね。
投稿: エンテツ | 2007/02/09 19:12
燃費が悪いんで、常に燃料入れとかないといけないんすよ
投稿: 吸う | 2007/02/09 18:58
外で飲んでばかりいる駄目人間は、
ロボットや機械以下。
ってね。
投稿: エンテツ | 2007/02/09 17:23
男は女を「子を産む機械」と見て、
女は男を「給料を運んでくるロボット」と見る。
ふふふ...
投稿: 吸う | 2007/02/09 17:19