喜びや快楽をつくり出すことについての経験
『食の文化史』ジャック・バロー著、山内昶訳。からの引用……
ソクラテス いまぼくにこう訊ねてみてくれ。料理法はどんな技術であるとぼくには思われるか、と。
ポロス では訊ねましょう。料理法はどんな技術ですか。
ソクラテス 技術なんかではないよ、ポロス。
ポロス それならいったい、何ですか。言ってください。
ソクラテス では言おう、一種の経験だよ。
ポロス 何についての経験ですか、言ってください。
ソクラテス では言おう、喜びや快楽をつくり出すことについての経験だよ、ポロス。
ポロス そうすると、料理法と弁論術とは、同じものなのですか。
プラトン『ゴルギアス』(如来彰俊訳)
……引用おわり。プラトン『ゴルギアス』(如来彰俊訳)は、岩波文庫版を持っているのだが、どこにあるか見つからない。とりあえず、この引用で。
けっきょく、たとえば退潮にあるといわれる「ラーメンブーム」、そしてすでに去った「カレーブーム」まもなく去るだろう「立ち飲みブーム」や「居酒屋ブーム」、 べつの言い方をすれば「B級グルメ」というブームは、何を残してきたのだろうか。ま、何も残さないハヤリを、ブームというのだが。
見方によっては、A級グルメのほうが、食べることの喜びや快楽の追求については熱心だったし、いまでも熱心のようにみえる。しかし、じつは、「A級」だの「B級」だのはマーケティング的な「差異化主義」が生み出したもので、「くう」「くっていく」ことの喜びや快楽には、A級もB級もない。
B級のココロザシが低いだけなのだ。ようするに日々「くう」「くっていく」ことの喜びや快楽を「つくりだす」ココロザシがなければ、その体験は愚化のために役立つにすぎない。B級グルメ騒動が、ハヤリを追いかけるだけのオリコウぶったバカにみえるのは、そのせいかも知れない。と、また、余計なことを書いてしまった。どうもね、指が勝手にキーを叩いてしまうんですよ。
ついでに、引用の最後のほうにある「弁論術」は「会話術」「対話術」というふうに置きかえてもよいだろう。
と、これから「わめぞ」古書往来座の外市「勝手に協賛飲み会」へ行くので、哲学的に書いてみた。関係ないか。
今日の画像は、赤羽駅西口すぐの「ときわ食堂」。新しい再開発ビルのなかで、このように営業している。まわりとセンスがビミョーにちがう看板の色や文字に、がんばっているぜ、というかんじがする。
巣鴨庚申塚のときわ食堂のチェーン店と、どこかできいたことがあるような気がする。たしかめてない。看板には「赤羽店」とあるからチューン店にはちがいない。このあたりは専門学校生らしきを、たくさん見かけるところで、このときわ食堂も、それらしきで混雑していることがある。
撮影している位置から後方へ数十メートルで「竹山食堂」、左端前方の信号をわたると、赤羽や十条あたりにチェーン店がある「三忠食堂」があって、めずらしく土着的な大衆食堂がおおい地域だ。
赤羽には、よい大衆酒場もおおい。記憶にあるデータでは、赤羽駅周辺商圏は、都内の他の大きな商圏と比較して、工場労働者や職人労働者など「肉体系労働者」の住人の比重が高いはずだ。そのことが関係しているかどうかは、わからないが。
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