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2007/02/23

「くっていく」って、いいことばだ

ものがあふれ食べ物が簡単に手に入るようになって、食が乱れた。食を大切にするココロが失われたからだ。とゆーよーなことが、「食育」をめぐってもそうだが、さんざんいわれている。

これはチトおかしい、ということは、前から何度も書いた。ものが豊かになってココロが失われたなら、そのていどのココロしかなかったということであり、それがどういうものだったかを、よく考えることのほうが大事なのだ。

だけど、自分だけは、よいココロを持ち続けているかのようなことをいってすましている。つまり、そのていどのココロが問題なのだ。

ま、今日は、そのことではない。そのことじゃないが、関係あることだ。

拙著『大衆食堂の研究』では、「安楽の日本のようだが、無事に生存しつづけることはやさしくない。食堂のおじさんもそのことを知っている」と書いた。つまり「くっていく」のは容易じゃない。いくらものがあっても、くっていくことは容易じゃないのだ。

ものがあふれていても、まず経済的時間的余裕は、どうだろうか。あふれるほどのものから、よいものを選んで手に入れる余裕、キチンとした時間にゆっくり料理して楽しく食べる余裕、そういうものがどれぐらいあるだろうか。くっていくために、どれだけ肉体や精神を痛めつけているだろうか。

容易じゃないから、また食うことに情熱をそそぐ。そうあるべきだろう、とおれはおもう。しかし、2007/02/05「社会科のための 食物文化誌」に書いたように、「食物についてとやかく物をいい、心を労することは前から「いやしいこと」として禁忌されている。君子は厨房を遠ざく、という聖賢の言が、国民の生活倫理の根底理念となっていたのである」「武士は食わねど高楊枝」でやってきた。食べ物が不足しているときには、モノとしての食を大切にしたかもしれないが、食というコトや文化そのものを大事にしてきたわけじゃない。

だから、すこし経済的時間的余裕ができると、チマタの大衆食堂や大衆酒場などをウロウロして、なにかよいことにふれた気になる。「昔ながら」を称賛し「市場原理」とやらを批判し否定していれば、いっぱしのよいココロや趣味をもった「文化人」気どりだ。つまりは、自分のココロの問題は、わきにおき、カネで片付ける。コンビニやファーストフードを利用するのと、おなじ質の行為だ。そのていどのココロなのだ。

2007/02/20「24日の飲み会の参加方法」に、「うまい酒、うまいものを期待するのではなく、うまく飲み食いする」と書いた。そのために選ばれた安居酒屋は、うまい酒やうまいものがないみたいじゃないか、といわれてしまうと、たしかにそうだなとはおもうが、しかし、そこには、「くっていく」のは容易じゃないということをよく知る男たちが、たくさんいるようにおもう。その男たちが醸しだすもの、それを、「わいざつオヤジ文化度の濃さ」と書いた。

「くっていく」のは容易じゃないということをよく知るものは、また食べることを、よく味わう。安居酒屋や大衆酒場や大衆食堂では、むかしからよくみかけるシブミのある風景だ。おれは、そういう街の風景が好きだし大切にしたいのであって、「昔ながら」だの「懐古」だの「レトロ」だのなんて趣味もないし、どーでもよいのだ。

「 食べるという行為の背後には、生きとし生けるものの切なくも厳しい生存条件がある。  だからこそ、人間があるものを食べて「おいしい」と感じる時、そこには、単なる趣味や嗜好の問題にとどまらない、生きることの深み歓びが立ち現れるのである。」

これは、茂木健一郎さんが『食のクオリア』(青土社)に書いていることで、生物的な生存条件の話が比重をしめているが、日本の社会の生存条件は、いまに始まったことではないが「切なくも厳しい」。いまや肉体と精神を犠牲にし、食事の余裕すらマットウでない状態で、働きくっていかなくてはならない状態がマンエンしている。それを逆手にとったのが「食育」なのだ。

Motonoiと、「くっていく」ことの大変さをシミジミおもったのは、先月12日、故郷の六日町へ帰り、人手に渡ってしまった「実家」を見たこともある。画像の真ん中、雪が少し片屋根に残っている。一部増築し、外装や屋根も変わっているが、1960年前後に暮らした当時のままだ。なんとなく、接近して撮影するのは、はばかられる気分なので、少し離れて裏側から撮った。

小学4年10歳ぐらいまで住んでいた家は別で、そこは家業の倒産と親の離婚があり、人手に渡り跡形もない。そのあと、この画像の家の陰で見えないむこうがわで、4畳半一間の間借生活をし、たしか小学6年ぐらいに、この家を建てうつった。中学高校と、身長が150センチぐらいから170センチぐらいになるまで、この家で育った。5月5日の背くらべ、じゃないが、1階の柱には、そのキズあとが残っていた。

この家は、おれが20歳ぐらいのときに、競売にかけられて、現在の所有者のものになり、おれの両親は、東京の場末の飯場にころがりこんだのだった。オヤジの歳は、50歳なかばぐらいだっただろう。当時なら定年退職や隠居の年齢だ。それから住まいも職も転々とした。

「くっていく」って、「生きること」「くうこと」が一つになっていて、とてもよいことばのようにおもう。

ものは豊かになっても、くっていくことは容易ではない。だからまた、おれは飲食に情熱をそそぎ、刹那的に楽しみたい。のだな。

「刹那的」を「悪」とみるのは、風土のようになっている仏教思想におかされているからで、これがまた食を楽しむココロをうばっている。

うまい酒やうまいものがなくても、人生を快楽するココロがあれば、うまく飲み食いすることはできるし、生活は楽しい。そのうえに、うまい酒やうまいものがあれば、もっと快楽できるし、飲食というコトが好きになれるわけだ。くっていくことは容易じゃないからこそ、好きじゃなきゃ、やってらんない。

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コメント

「食育」=「くっていく」っておもしろいですね。

思いつくままにテキトウに書きなぐっているだけなので、
長い文章はおおいし、読むのが大変と思いますが、
ボチボチお付き合いください。よろしく~

投稿: エンテツ | 2007/02/24 08:09

いつも楽しみに寄らせてもらってます。
読ませていただいたんで、何かしら返そか、
と考えるうちに日が暮れ日が替わる始末。

『食育』は、いっそのこと『くっていく』と読ませたら
どうでしょうか。力強くわかりやすいし。
後、『マナー』についても書かれてましたが、私も
思うところあり。(出版関係ではないですが)
そして、『用心』なさって、つらぬいているところも。

『刹那』主義ってのも悪くないと思います。
『刹那』が物を美味くしたりすることもあるでしょうし。
言葉のもつ意味は、なんにせよ人の受取りようで、
今は『食育』も良い様にとられてますが、
『飼育』ぐらいに思ってるんじゃないかしら。
『ゆとり教育』が、あまり良い結果を出せなかったけれど、
食育はどうなりましょうか。

ここが大衆食の名刹サイトになりますよう。
勝手な期待をこめて、失礼しました。

投稿: まきのすけ | 2007/02/23 21:58

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