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2007/03/22

あとをひく〔つるかめ〕の感傷

きのう「ション横つるかめから太田尻家へ、タイトルたまる」に書いたように、ひさしぶりに新宿西口ション横の〔つるかめ〕に入った。やはり〔つるかめ〕は、おれにとっては特別なところだという思いを深くし、すっかり感傷をひきずっている。

春の憂い、続いた別れ、それだけではないようだ。精神的にも肉体的にもタフなおれだって感傷的な気分になることがある。おれのばあい、タフといっても、ウドの大木枯れ木の賑わい的鈍感タフとちがい、ひとより繊細で傷つきやすいこころを持っている。それを肉体の深いところに秘めながら生きる術を心得ているにすぎない。ほんとうはもう痛めつけられ傷つき汚れたこころはズタズタになっている。ああ、もうダメ、耐えられない、発狂しそう、たすけて~。と、書いても、せせら笑われるだけで、誰も信じてはくれないだろう。もっと、ひとが気をつかい慰めてくれるように、弱々しく生きてくるべきだったか。

つるかめの、あのカウンターに座っていると、1962年の春に上京してからのことが、めまぐるしく浮かんでは消える。なにしろつるかめは、ほとんど、あのころのままだ。とくにカウンターの奥の階段をみると、胸がつまり涙があふれそうになる。

そこを上がって、薄暗い二階のカウンターで、おれたちは天丼を食べた。ことわっておくが、当時のつるかめの天丼というのは、えたいの知れないうどん粉のカタマリのようなかきあげらしき天ぷらがのった、おれは食べると必ずゲリをする安物だった。

それは、あの上京した春の、ごく最初のころのことだった。「おれたち」といっても、そこで一緒に食べたやつらを、ぜんぶ覚えているわけではないが、すくなくとも、あの春、一緒に食べた中の二人は、もうこの世にいない。この10年のうちに死んでしまった。たまたま二人とも、おれの企画屋の仕事に関係があったから、数すくない長い付き合いになったのだが……。

あの春、そこで天丼を一緒に食べた中に女がいた。二人か三人いたような気がする。その一人の女は、いつごろからだったか、死んだ一人ケイと恋仲になる。そして、おれは大学へ行かず働くようになり、ときどきしか会わなくなったが、たぶん前後を考えると、おれが大阪へ一年間長期出張になる直前のころだろう、ケイに、その女と別れる話を聞かされた。ケイは、話しにくそうに、じつは高校時代に恋人がいて、一度不仲になったのだが、よりがもどった、結婚する、と言った。まだ彼女には話してないのだが、近いうちに話そうとおもっていると言った。おれは、そのときの、ある日トツゼンさよならを言いわたされた女の辛さを思い出すと、いまでも胸が痛み、つるかめの傷だらけのカウンターに、傷をふやしたくなるのだった。

もう一人のイチ、こいつはもう、恋が人生よ、いや人生は恋よ、という感じで、たいへんだった。何人かの女と同時進行があり、一度は、純情なお嬢さんを夢中にさせ妊娠させ、その後始末に、なぜかおれが奔走することになる。おれは、いつもソンな役割、貧乏くじをひく。そのお嬢さんに会って話すのが辛く、おれは不器用だから、うまく話しなどできずにオドオドしながら、かつ焦って夢中でシャベリ、こっちが傷ついてしまうのだった。そして、アイツはしょうがないやつだというまわりの連中から、イチをかばう役をするのもおれで、そこでまたおれは苛められ傷つく。気がつくと、おれが悪者にされているのだ。フランス文学にかぶれ、おれのフランス文学に関する拙い知識は、こいつからの話で、そのころのままだ。

こういうおれだって、何度かの出会いと別れを繰りかえしている。ところが、この二人は、おれの最初の離婚のときに、大反対した。ほかの連中は静観していたのに、この二人だけが、おれを飲みに連れ出し、おれに説教し、たしかあのときは秋葉原から神保町と飲んで、最後は新宿の歌舞伎町あたりでグテングテンのベロベロ三人で酔いつぶれたのだが、大反対した。かれらは、結婚してからも妻以外に愛し合った女がいた。ただ、そのために離婚をすることは考えなかった。仕事と家庭を大事にする男たちに「成長」していた。

そして、ケイもイチも、そこそこの会社の幹部から専務取締役、社長になり、どちらも現役の社長で死ぬ。ガンだった。ケイのばあい、手術を拒否した。イチは、病院そのものを信用しないで、入院したときは死の直前だった。まるで自殺的行為だ。二人を知っている、いまでは唯一人のおれの古い友人は、あれはビジネス戦争の犠牲者だよ戦死だよといった。メーカー、技術系の会社で、80年代の円高不況、90年代のバブル崩壊後の不況を乗り切るのに、彼らが心身をすり減らしたのは、たしかだろう。おれたちは何度も飲みながら、その対策や苦渋を、話し合った。

ケイもイチも、戦死だよといった男も、みな営業畑の人間だった。おれも、初めての正社員は営業だった、営業マンとしてシッカリ鍛えられた。おれたちは、突進することしか知らない、かっこわるい、武骨な営業だったようだ。ようするに、要領の悪い品のない、ただのオヤジなのだ。

つるかめで、やや酔いのまわったおれの頭に、ユーミンの「あの日にかえりたい」が流れた。あの日にかえれるわけがないじゃないか、きのうのシアワセのあとの今日の別れは、いまだって続いているのだ、とりかえしのきく期間は、そうはながくない。それに、遠い青春のあの日にかえってやりなおしたところで、またべつのドジをやるだろう、いつだってドジの繰り返しさ。「あの日にかえりたい」という感傷は、慰めにはなるが、慰めにしかならない。

と、きのう書いたような、「オヤジの肖像またはオヤジについて」「ワタシ、営業マンの味方です」「つるかめでユーミンとはな」といったタイトルが浮かんだのだった。

あっ、もう日付が変わったから、「きのう」というのは「おととい」か。

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