食べる、そのときの気分
私はフラワー街のコーン・ビーフを食わせる店へ行った。ちょうど、そのときの気分にぴったりした店だった。入口の上の無愛想な看板にこうしるしてあった。――〝男子にかぎる。女子と犬はお断り〝。店のなかのサーヴィスも同じように念が入っていた。食べものをほうり出して行く給仕はひげづらだったし、何もいわないのにチップを差し引いた。食わせるものは簡単なものだが、すこぶるうまく、マルティニのようにすばらしい褐色のスウェーデン・ビールを飲ませた。
……引用おわり。「ひげづら」には傍点がある。
「私」は、『長いお別れ』(レイモンド・チャンドラー、清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)の主人公、フィリップ・マーロウだ。
「そのときの気分」を、どう説明したらよいか。少々荒っぽい、やるせない気分、といったところか。やさしさなんか、いらないよ。
「男」には、こういう店に行って、ガツンと食べて飲みたくなることがある。いや「女」を「差別」しようというのではない。男には男の、女には女の、そういうことがあるでしょうってことだ。「女」のばあい、このような店があったとしたら、店の入口には何と書いてあるのだろうか。〝女子にかぎる。男子と熊はお断り〝とか? おれが店主なら〝女子にかぎる。男子と狐はお断り〝と書くな。ま、女のことは、ワカリマセンがね。
日常のめしには、このように気分が強く関わることがある。こうまで極端でなくても、その日の体調や気分は、ビミョウに味覚に関係するだろう。自分はイマ、なにを食べたいか、どんな味覚を欲しているか。食べることは、自分と向きあうことでもある。
「コーン・ビーフを食わせる店」というのが、いまいちイメージがわかない。コーン・ビーフの缶詰をあけ、丸ごとかじりつき、ビールをびんからラッパのみ、なーんてことだとワイルドで荒っぽいやっつけかたになるが、そんなことはないだろうな。
『長いお別れ』については何日か以前に書いたが、最近、村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』が出ている。彼は、ここのところを、どう訳しているか気になる。思い切りハードボイルドに気どっているんじゃないかという気がするが。
それはともかく、2007/04/10「大衆食堂と街と、なぜか村上春樹」に引用した、「人が人であり、場所が場所であらねばならぬという憧憬」とは、こういうことでもあるのか。気分にあった飲食をする場所がある街、日常に必要なのはそれだ。
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