辛抱料理
1年365日の食事のことだから、料理をつくる気がしない日もある。ひと仕事かたづけて疲れきったときなどは、買い物に出るのもいやだ。そういうときは「しんぼう、辛抱」と自分に言い聞かせて台所に立つ。
そういう経験もないのに、料理は「手づくり」でなくてはニセモノ、なーんて言って、自分がさもさも毎日手づくりしている「正義」のひとのような顔をしているオヤジどもを殴りつけたくなる。ま、いつか殴ってやろう。
そう思いながら、とりあえずウチにあるもので簡単につくって夕飯にしようと思って台所に立つ。しかし、それがまた悩みのもとになる。「しんぼう、辛抱」「あるもので簡単に」と思って始めたのに、やり出すとしだいに熱くなって、どうせならこうしたいああしたいと思い、やっぱり買い物へ行って来るかという気になる。
「ほんとうの料理文化とは、ガイドブック片手に食べ歩くことではなくて、美味しいものを食べたいという欲求を、自分の生活の中に血肉化し、思想化することだ」
これは江原恵さんの『生活のなかの料理学』に出てくる言葉で、江原生活料理研究所をつくった1980年当時は、よくそういう議論をしていた。
で、おれは買い物へ行くかどうか、しばし迷う。どうやら、おれは、どうせなら美味しいものを食べたいという欲求を、自分の生活の中に血肉化し思想化してしまったのか、それはそれでやっかいなことだ。なーんて思いながら。
よく利用するCクラスのスーパーまで、おれのボロアパートから片道徒歩15分はかかるのだ。クルマはもちろん自転車もない。近所の5分ぐらいのところにあるボックスストアでは、品揃えが限られている。だから悩んだすえに、買い物はやめ、あるものでなんとか片付けることが少なくない。
それでも、まあ、そこそこうまくいけばよい。しかし、やはり食べてみて、チクショウやはり買い物へ行けばよかったかと思うこともある。食べ終わっても、まだ後悔が残ることも、たまーにある。
そういうときは、そういう思いをしたこともないオヤジどもの、立ち飲み屋あたりで、「手づくり」でなくてはニセモノ、やはり愛情料理がイチバンだよ、なーんて能書きたれているシタリ顔に、ツバをかけてやりたいと思いながら、意地酒を飲む。
ま、そんなときでも、おれはこれさえつくってあれば、とくに、これからの季節は、後悔をしないですむ。
「タマネギとトマトのレモン汁辛子漬け」つくりかたはザ大衆食のサイトに…クリック地獄
今回は、セロリーも一緒に漬け、ナンプラーをたらした。この100円ショップで買ったツメ付タッパーは、冷蔵庫の中で、そのままひっくり返しできるから、とても便利だ。
でも、大衆酒場あたりで、薄っぺらな「プラスチック文化」が現代人の「堕落」のもとだ、なーんて自分だけは「堕落」してないかのような偉そうな能書きをたれているオヤジどもは、こういうことを考えつかないでしょうな。それに、そういいながらつまんでいる漬物のほとんどは、プラスチック容器のなかで漬けられていること、ご存知なのだろうか。薄っぺらなのは、アナタがたの頭の毛と中味じゃないのかね。……チッ、また最後に書かでものことを書いてしまったか。だから嫌われるんだよな。ワカッチャイルケドヤメラレネ。
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