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2007/04/23

下流と周辺

「下流社会」とかいっちゃって、「下流」というコトバがハヤリのようだ。その手のコトバや視点がうりの本は、立ち読みでパラパラとしか見たことないが、どうも違和感をおぼえる。

そういうことをネタにしているひとたちのあいだでは、「下流」と「周辺」がゴチャマゼというか、区別がついていないらしい。それは、彼らが、自分は仕事もスキルも「上流」という意識があるからではないかとおもわれる。

しかし、じつは「中央」と「周辺」があり、「上流」と「中央」は重なりやすいが「下流」と「周辺」は必ずしも一致しない。中央の権力や権威に近づこうとしない、あるいは距離をおこうとする「周辺」がある。結果的に「下流」「負け組」の生活になるかもしれないが、それはまさに中央東京一極集中の社会構造のモンダイであり、そのモンダイをはぐらかすためにも、「下流社会」論や「勝ち組・負け組」「格差社会」論などは有効であるようにもみえる。

もともと「勝ち組」「負け組」なんてのは中央の意識の産物にすぎない。そういう意味では、「下流」という観念もそうであり、本人たちは「下流」だなんておもっていないのに「下流」にされてしまう。そして「下流」というレッテルを貼られたところで未来がひらけるわけではない。「下流」という見世物ネタで中央や上流の誰かが稼ぐだけだ。

「周辺」での生活には、それなりのスキルが必要であり、ともすると「中央」や「上流」より高質のことがある。しかし、中央の意識は「上」ばかり志向し「下」のことはメシのタネぐらいでしかないから、それを理解できないのだろう。把握すらしていないかもしれない。

「ふつう」であってはいけないと、「ふつう」を志向するものが批判の対象になったりする。中央で、ふつうでおわらないよう目立ち突出することばかり考えている人たちにとっては、「ふつう」をよくするなんて想像外のことにちがいない。しかし周辺で、「ふつう」を大事に育てる暮らしもあるのだ。

「昭和レトロブーム」だ「下町ブーム」だといっても、みな「ふつう」の人たちが育てた「ふつう」の生活文化だろう。それをネタに一儲けの人たちや話題をとり突出しようという人たちがくいつぶしているだけじゃないか。

おっと、こんなこと書いているおれは、ますます周辺化下流化するのだった。

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