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2007/04/10

大衆食堂と街と、なぜか村上春樹

大衆食堂は街あるいは地域のイキモノだ、ということについて、何度も書いてきた。書いてきたが、じつは、それほど深く考えてきたわけではない。『大衆食堂の研究』を書いたときには、そこそこ考えたが、そのあとは思考サボリ状態だった。

だけど、ちかごろまた深く考えている。それは、ここ一か月ほどのブログを見ても、わかるだろう。考えている最中を思いつくままに書いているから、読んでいるほうにはわけのわからないことが多いと思う。でも、ボクチャンは、それなりに考え深く悩んでいたのだ。ああ、タメイキ。

しかーし、そろそろ、なにかを掴みそうなかんじになってきた。だけど、わいてきた霞のようなイメージを掴み文章にするには手がかりとなる言葉がいるのだ。残念ながら、能無しのおれの頭からは、それが湯水のごとくわいてこない。その言葉の手がかりが、以前に読んだ何かにあったような気がして、求めることになる。狭い部屋の少ない本や雑誌をパラパラめくって探していたが、ついに見つけたのだ。

そ、それが、なーんと意外や意外、村上春樹さんのオコトバなのだ。ケッ、村上春樹なんて、大衆食堂とは縁のなさそうな遠いイメージじゃないか。

1991年、文學界4月臨時増刊『村上春樹ブック』だ。そのなかに、「村上春樹とアメリカ作家たち」というコーナーがあって、レイモンド・チャンドラーに関する村上春樹の著述が載っている。それは、『海』82年5月号に掲載された、「「都市小説の成立と展開」 チャンドラーとチャンドラー以降」の要約なのだが。

こう述べている。……

 「チャンドラーのロス・アンジェルス」にあっては都市とモラルは対立関係にない。フィリップ・マーロウが都市に対して腹を立てている時、それは総体としての都市に腹を立てているのではなく、都市を構成する複数の仮説のひとつに向かって腹を立てているのである。さもなければマーロウは都市を脱出するしかないではないか?
 マーロウの役割はこのような仮説の検証作業にある。彼はある仮説に対してはシニカルになり、ある仮説に対してはセンチメンタルになる、それがマーロウのノーでありイエスである。その認定基準はマーロウのモラルという、これまた複雑な仮説である。チャンドラーの小説の素晴しさはこの仮説の交錯の見事さにある。(中略)

 チャンドラーは都市小説と呼ぶに十分ラディカルである。チャンドラーのラディカリズムはその「憧憬」のうちにある。彼の架空性をこの「憧憬」が一点で支えている。マーロウの憧憬とはどのようなものか? 人が人であり、場所が場所であらねばならぬという憧憬である。この感覚は初期マルクスの言う「自然さ」に一脈通じているのではないかという気がするのだ。
 マーロウが社会悪を非難する警官に向かって「君の言っていることはアカみたいだぜ」と冗談めかして言う時、マーロウは反動ではなく、ラディカルである。ここにおいてマーロウ的ラディカリズムは都市大衆の有するアナーキズムと直結する。いや、直結しなくてはならない。

……引用おわり。

いやあはははは、村上春樹さん、スバラシイ。あっちこっちで村上春樹をボロクソにけなしてきたことを撤回しなくてはならないか。いや、ま、さ、じつは、そんなに嫌いじゃないのだが、若い女どもが「村上春樹、だーいすき、すてき!」なんていうから、つい抗ってみただけなのさ。

でも、おれにとって必要なのは、ここで述べられるチャンドラーの小説の素晴しさではない。その素晴しさを説くために、村上春樹が述べている、いくつかの部分が必要なだけだ。

たとえば、
「フィリップ・マーロウが都市に対して腹を立てている時、それは総体としての都市に腹を立てているのではなく、都市を構成する複数の仮説のひとつに向かって腹を立てているのである。さもなければマーロウは都市を脱出するしかないではないか?」
「マーロウの役割はこのような仮説の検証作業にある。彼はある仮説に対してはシニカルになり、ある仮説に対してはセンチメンタルになる、それがマーロウのノーでありイエスである」
「マーロウの憧憬とはどのようなものか? 人が人であり、場所が場所であらねばならぬという憧憬である」
「ここにおいてマーロウ的ラディカリズムは都市大衆の有するアナーキズムと直結する。いや、直結しなくてはならない」

これらは、大衆食堂は街あるいは地域のイキモノだというときの大衆食堂や街を語るときの大事な手がかりになる。また、下町や昭和を礼賛し懐かしがり、いまの世の「乱れ」を嘆き、自分は正しい存在であるかのようにふるまうネタに、大衆食堂や大衆酒場や立ち飲みなどを利用している連中を、よりキッチリ批判するためにも、よい手がかりになるのだ。そのことは、今後のこのブログを書くときに生かされるだろう。

とくに、「都市を構成する複数の仮説のひとつに向かって腹を立てているのである」「人が人であり、場所が場所であらねばならぬという憧憬」「都市大衆の有するアナーキズム」……あたりに絞られてくるか。まずはチョイと、マーロウさんの眼で、大衆食堂と街をみてみよう。その「視点」なのだな、大事なのは。

ま、きょうは、これを見つけてよかったよかった。祝杯をあげるとしよう。いま午後2時過ぎだけど、なんだか大仕事を終えた気分だ。

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コメント

思いつきだらけの拙い言い草を、
ご覧いただき恐縮です。

それにしても、おもいがけず村上春樹の手引きで、
マーロウ探偵に辿りついてしまいましたが、
どういう展開になりますもやら、
チト自分でもおもしろくなってきました。

しかし、ナイ頭で考えすぎたので疲れました。
さらにアルコールをたっぷり飲んで、頭を休めないと。


投稿: エンテツ | 2007/04/11 00:23

その「視点」の考察が、少し前にお語りになった「負のロマン」や、
藤沢作品の「伊之助」に絡んでくると、もう楽しみです。
遠藤様の最近のブログは、ことに味わい深く拝読しております。

投稿: ハジメ男 | 2007/04/10 17:01

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